;雪解け
私が駆け落ちを決意してからというもの、姫様の病状は急速に悪化していった。
労咳だけじゃない。
巷で猛威を振るい始めたという、流行り病まで併発してしまったのだ。
私を含め、城の誰も、その病には罹っていないのに。
世から隔絶された姫様が、ただでさえ重病人の姫様が、お一人だけ。
城では感染症対策がより徹底され、姫様への村八分もまた徹底されるようになった。
姫様と変わらず接し続ける私は、不思議とどちらも感染の兆候がなかった。
二日後。
姫様の病状が和らぐと同時に、流行り病の出処が判明した。
定期的に姫様のもとへ往診にやって来る医師の、代理のほう。
彼こそが、菌をここまで運んでしまったようなのだ。
実は、姫様を診てくれる医師は二人いる。
一人は、最初に姫様の労咳を診断した、壮年の医師。
二人は、壮年の医師が急務に当たる場合のみ駆け付ける、青年の医師。
いずれも名うてではあるが、前者が老巧の藩医なのに対し、後者は新参の町医。
技術も心得も未熟なうえ、町人と接する機会も多い。
となれば、どこからか菌をもらい、知らず知らずと自らでもバラ撒いた可能性を否定できない。
と、町医本人から私当てに、直談判の報告と謝罪があった。
どうか上様にはご内密にと、涙ながらに一言添えて。
確かに、元凶に最も近い立場にあるのは町医だろう。
しかし、町医ばかりに責めを負わせる訳にもいかない。
どこからか菌をもらい、知らず知らずとバラ撒いた可能性で言うならば、町医以外にも当て嵌まる者がいるからだ。
城の人間は、乙女たちを除いた全員が城と町とを出入りする。
中でも隊士と女中は、やれ税の徴収だ夕餉の買い物だで、町医に引けを取らず町人と交流する。
出入りを完全に絶たない限り、城の中は安全じゃない。
町医も、上様も、関係者の全員が保菌しているかもしれないのだ。
"なんて顔をしてるの、サイ。"
"熱が出るのは、いつもじゃない。"
"わたしのことで謝るのは、もう止してって、前に約束したでしょう。"
じゃあ、私は。
私が一番、それに当て嵌まるんじゃないのか。
外回りに出ておらずとも、姫様と最も接するのは私だ。
町医に並んで、私も元凶に近いんじゃないのか。
下手をすれば、町医以上に、私が。
ならば、私より先に姫様が発病した原因は?
菌が病に成長したのが、姫様しかいない理由は?
労咳の時と同じだ。
我々のような健康体には影響がなくとも、元より衰弱した姫様には猛毒に等しい。
だから姫様だけが苦しみ、姫様だけが汚いかのような誤解が生じる。
姫様のせいじゃないんだよ。
あのひとは被害者なんだよ。
"できれば、一晩くらい、ゆっくり休みたいものだけど。"
"せめて、あなたに移らなかったのは、よかったわ。"
"もし移ったら、移る前に、今度こそ置いていってね。"
ここへきて、悪いことが続いている。
姫様の体調が落ち着いた頃にと、算段をつけていたのに。
これでは実行に移すどころか、算段を打ち明けただけでも、却って姫様を追い詰めてしまう気がする。
二の足を踏み、溜め息を零し、焦燥ばかりが募る日々。
せっかく決意を固めても、叶えられなきゃ意味がない。
"たまには、あなた自身も、気にかけてあげて。"
"誰より頑張っていること、わたしはよく、知っているから。"
"わたし以外にもうひとり、あなたを、褒めてあげてちょうだいな。"
以前と比べれば、少しは私を頼ってくれるようになった。
ごめんねよりも、ありがとうを多くくれるようになった。
だけど、泣いてはくれない。
やっぱり、辛いとは言ってくれない。
もう十分だと、今ならまだ間に合うと。
隙あらば私を遠ざけて、孤独に沈んでいこうとする。
いっそ、死んだ方が楽だろう。
こうも苦しみながら、生き永らえたくはないだろう。
でも死なない。死ねない。
いよいよ朽ち果てるまで、崩れかけの命は歪に動く。
自ら死を望めないのは、もはや舌を噛む力さえ残っていないから。
私に殺してくれとせがまないのは、私が悲しむと分かっているから。
あんなに、ボロボロになってもまだ、あのひとは、私のために息をする。
ひび割れた唇で私の名を呼び、虚ろな目で私に笑いかける。
死んだ方が楽と知っていて、敢えて止めを刺してやらない私が、非情な人間と知っていながら。
"なかないで。"
あらゆる手段を使った。
上様を脅して御殿医を招かせた。
高価な新薬も買い占めさせた。
根拠の疑わしい民間療法や呪いの類も、試せるだけ試した。
付きっ切りで、姫様の世話をした。
本当に、なんでもしたんだ。
"ごめんね、サイ。"
"わたしを見ていると、あなたも辛いのでしょう。"
"ごめんね。わたしが病気なんてもらったせいで。"
"ごめんね、サイ。"
"ごめんなさい。"
なぜ、貴女が謝るのですか。
貴女はなにも、悪くないでしょう。
"サイ。"
"わたしが死んでも、どうか悲しまないで。"
"そして出来たら、たまにでいいから、わたしのことを思い出して。"
雪が解け、芽が萌え出ると共に、姫様は弱っていった。
早春の麗らかな陽射しが、その身を焦がしていくかのように。
"サイ。"
"好きよ。"
きっと、姫様の夏は、もう来ない。
愛した桜が花開く頃には、彼女は。
『梢の雪』