;第二十三話 蓮の席
明朝。
およそ半月ぶりに、上様からお呼びが掛かった。
隊士全体の召集とは別に、個人で呼び出される機会は、そう多くない。
姫様が患って以降だと、かれこれ四度目になる。
一度目は、姫様の肺病が発覚した時。
姫様の扱いについて、私の身の振り方について、今後の方針を説明された。
二度目は、近況報告を命ぜられた時。
姫様の病状を事細かに、今度は私が説明した。
そして三度目が、ひとえに話し相手として求められた時だ。
姫様が怒っていないか、姫様に恨まれていないか。
姫様から自分はどう思われているかを執拗に問われ、低俗な愚痴にさんざん付き合わされた。
飼い殺し同然の生活を強いている自覚が、少なからず有るのかもしれない。
姫様に嫌われたらどうしよう、と今更になって憂う辺りが、実にあの男らしい。
"───そうも唯桜の世話を買って出るというならば、よい。
日頃の忠節と精進に免じて、特別に許す。"
"ただし、唯桜と接して暫くは、私の御前に立つな。往来に出るな。"
"必ず二刻以上の時を挟み、別の衣に着替えてから、次の仕事にかかるように。"
"肺病持ちを人として扱うということは、それと交わるお前もまた、畜生に並ぶということだ───。"
姫様が座敷牢に移されてからというもの、上様は一度も彼女の面会に訪れていない。
袖振り合うだけでも菌が移る、などと危惧しているためだろう。
その割に厚遇を受けさせているのは、相手が姫様だからだ。
たとえば姫様以外の、他の乙女たちが、同じ病を患ったならば。
病が発覚した時点で、上様は見限ったに違いない。
愛妾、転じて、忘恩の徒。
城を追い出すか、死刑を言い渡すか。
いずれにせよ、飼い殺しなんて手ぬるい真似はしないはず。
着の身着のまま追い出されずに済んだことを、不幸中の幸いとするべきか。
むしろ追い出された方が、希望はあったのか。
私には分からない。
姫様にとって何が最善なのか、私には決められない。
ただ、無情に時が過ぎていく。
希望があったかもしれない道には、もはや引き返せないほどに。
**
伝令によると上様は、寝所にて小休止の最中。
謁見の間で改めるのも手間なので、私にも寝所へ来てほしいとのことだった。
貴人の寝所といえば、滅多に出入りを許されない特別な場所。
上様とて例外でなく、側近たちや乙女たち、親衛隊長の松吉を除けば、不用意に部屋に近付いただけで処罰の対象となり得る。
つまりは、そういうこと。
滅多にない特別な用向きがあって、此度は呼び出されたということだ。
ひょっとしたら、姫様について決定的な処断が下されるかもしれない。
どう転ぶとも狼狽えぬよう、身構えておかなければ。
「───上様、玉月です。参りました」
「来たか。入ってよい」
襖の前で一声かけると、久しく溌剌とした返事があった。
部屋に入ると、着流し姿の上様が寝床に胡座をかいていた。
小休止なだけあって、楽にしていたようだ。
「時間通りだな。さ、そこへ」
"そこ"、と上様の御前に促される。
私は促された位置より半歩後ろに腰を下ろし、長居をしたくないがために前口上を省いた。
「して、なんでしょう」
「うん?ああ………。そうだな。
この頃の、唯桜の様子はどうだ?」
「変わらずです。回復の兆しは、未だありません。
お医者様が言うには、進行は、かなり早いそうです」
「そうか……。
老齢よりも、弱齢の方が却って弱る、という話もあるしな。
本来は元服の程、となると……。ふむ。なるほどな」
なんなんだ、いったい。
わざわざ寝所に呼び出したからには、重要で内密な話があるんじゃないのか。
姫様について言及がないなら、こんなところまで出向いてやらなかったものを。
「上様。恐れ入りますが、此度の用向きは何でしょう?
姫様のお加減のことでしたら、一からお話いたしますが」
「いや、そうではない。
……実は、才蔵。お前にひとつ、頼みがあって、来てもらったのだ」
「自分に、ですか」
指で顎を撫でながら、ちらちらと視線を飛ばしてくる上様。
自分の言わんとすることを汲み取れと、伺いを立てることを仕向けるように。
昔からの癖だ。
この仕種が出る時には、なにか企んでいる場合が多い。
まさかまた、暗に姫様を腐すつもりではあるまいな。
これ以上、姫様の尊厳を傷付けられたら、私は黙っていられない。
「しがない用心棒風情でお役に立てましたら、なんなりと」
お望み通り、お伺いを立ててやる。
上様は勿体ぶった咳ばらいをすると、私の目を見据えて平然と述べた。
「才蔵、いや、ギンコよ。
そなた、私の妾になる気はないか」
息が止まる。
言葉の意味をすぐには解せず、くぐもった頭で繰り返し反芻する。
今、こいつは何と言った?
めかけ?私が、こいつの?
なんだ、それは。
「……僭越ながら申し上げます、上様。
仰っている意味が、自分の頭では理解できません」
「なんだ、含みはないぞ。言葉の通りだ」
「では、私に───。上様の色になれ、と」
「今なら蓮の席が空いておる。
そなたの肌に紅を差したがごとく、見目よい花だ」
饒舌に語りながら、上様はひときわ厭らしい笑みを浮かべた。
「どうだ、相応しい名だと思わないか?」
蓮の花。
泥中にあっても生来の美しさを損なわないという、清く逞しい花。
なるほど。
年頃の女は手当たり次第か。
姫様はもはや用済みというわけだ。
この私に、情婦になれだと。
よりにもよって、姫様の桜と似た色を添えろと。
信じられない。
大欲非道の厚顔無恥。節操なしの下劣者め。
貴様には、心がないのか。
「なぜ、自分なのですか。
女としての値打ちは、自分は皆無に等しいはずです」
「ふふ、なにを言う。
手前で手前の色香は気付きにくいというだけ。
一目見た時から、実に匂やかな娘だと、私は感心しておったのだぞ?」
「私は────」
「中には、そなたに想いを寄せる不届きな輩もいる。
女子供に慕われる分はともかく、男共の情欲に当てられるのは、そなたとて本意ではなかろう?」
"───正式に私の妾となってしまえば、もう心配はいらない。"
"用心棒としての仕事は半分に、好きに寝起きし飲み食いする暇をやろう。
豪奢な服も、装飾品も、好きなだけを有りったけやろう"。
"四六時中と刀を振るうのではなく、四季折々の花を愛でる。
そんな、一人の女としての幸福を、ただ味わってほしい。私の真心を感じてほしいのだ"。
"そなたにとっても、悪い話ではないはずだ───"。
おもむろに立ち上がった上様が、こちらへ歩み寄ってくる。
上様の伸ばした手が私の頬に触れ、私の耳に上様の手の甲が滑る。
その瞬間、凄まじい悪寒が私の全身を駆け抜けていった。
「(こいつ)」
上様の指が、私の結われた髪を掬う。
親指の腹で毛の一本一本を撫で、撫でたそばから下に擦り落としていく。
「(こんなやつに)」
気持ち悪い。忌ま忌ましい。
今すぐにでも、こいつを殴り飛ばしてしまいたい。
いや、殺したい。
二度と戯れ事を紡げぬよう、口を縫い、首を刎ねてやりたい。
「ふ。凛々しさを欠いたお前も、なかなかに愛い」
落ち着け。かっとなるな。
ここで暴れれば、これまでの苦労が水の泡だ。
耐えろ。当座をやり過ごせ。
じっとしていれば、いつかは終わる。
私への関心も執着も、所詮は気まぐれに過ぎないのだから。
しかし。
ここで、こいつを討ち取ってしまえば、あるいは。
己が胸中で、憎悪と理性とが見え隠れする。
拳を握り、奥歯を噛むことで、なんとか自我を保つ。
「唯桜のことは、諦めろ。
あれは、じき死ぬ。薄命の身に情けをかけるだけ無駄だ。
そなたはあれを、始めから知らなかった。出会っていなければ、他人だ。
そう思えば、空いた穴も知らずと塞がる」
私はなぜ、ここにいるのだろう。
怨敵に侮られて、試されて、辱められて。
じっとしていれば、いつかは終わる?
じっとしたままで、本当にいいのか?
こんな軟弱者は、一捻りにしてやれるだろう。
辛抱して当座を終わらせるか、成敗して永遠に終わらせるか。
本当の私は、どちらがいいんだ。
本当は、わかっているくせに。
「───少し、猶予を頂けませんか」
「なに?」
「恥ずかしながら、今は正常に頭が働きませぬゆえ。
お応えするには、とても力及ばないかと」
「ふむ……。そういうことなら、致し方あるまい。
そなたが素直になるまで、野花でも摘みながら、ゆっくり待つとしようか」
言い終えると同時に最後の毛束が落とされ、上様の手が私から離れていく。
私はようやく拳を解き、全身の力を半分ほど抜いた。
「ご厚情、痛み入ります」
「よい。私とそなたの仲だ。
もっとも、お預けが過ぎると、つい噛み付いてしまうやもしれんがな?」
"私とそなたの仲"とは。
うつけめが、ほとほと笑わせてくれる。
「必ずや、いい返事が聞けると、私は信じているよ。ギンコ」
念押しとばかりに私の肩を叩いてから、上様は寝床へと戻っていった。
壮年の男性にしてはやや薄く、肉付きの悪い体。
人の身にありながら、人ならざる獣心を宿した器。
いくたび、この後ろ姿を睨み付けたことだろう。
眼光だけで射殺せたら良いのにと、願ったことだろう。
こいつを討ち取る役目は、私には回ってこない運命らしい。
"───この人になら、わたしの全てを捧げていいと思った。"
"この人さえいてくれるなら、他には何もいらなかった。"
もっと早く、そうするべきだった。
肺病は、労咳は、不治の病だ。
どうしたって死を拒めないのなら、どこにいたって結果は同じだ。
随分と、遠回りをしてしまった。
姫様と、城を出る。
行く当てはない。索も勝算もない。
病人の彼女を連れて逃げ切れる可能性は、恐らく五分さえない。
けど、やるしかない。
金ならある。
当ては作ればいい。策は練ればいい。勝算はもぎ取ればいい。
病人だろうが怪我人だろうが、歩けないなら背負えばいい。
どうして、こんな単純なことを、思い付かなかったんだ。
誰もあの人を救ってやれないのなら、私があの人を幸せにすればいい。
己は人に与えられないものと、決め付けていたのかもしれない。
今は違う。
下手でいい。不格好でいい。
あの人自身が拒まない限り、諦めたくない。
元気にしてあげられなくとも、共に老いてゆけなくとも。
城を出て、町を出て、浜辺を歩いて、故郷へ行って、ご両親と会わせる。
美味しいものを食べて、美しいものを見て、何気ないお喋りで涙が出るほど笑う。
出来れば全部、せめて一つ。
必ず叶える。やり遂げる。
残り少ない日々を、指折り数えないでほしいから。
悪くない人生だったと、穏やかに最期を迎えてほしいから。
だから。
"この命尽きる前に、あなたが欲しい───。"
命をかけて、貴女に私を捧げます、姫様。
『桜狩り』




