;第二十二話 許されざる想い 2
「姫様、姫様」
「サイ……」
「どこか、痛いところは、ないですか。
見えないところに、怪我は、ないですか」
「……なんとも、ないわ。大事ないわ、サイ」
続けて頬にも触れようとすると、払いのけられた。
私を拒んでというより、私に触れられる自分を拒むような素振りで。
「申し訳、ありません。
私が目を離したばかりに、姫様にこんな、恐ろしい思いを……。肝心な時に私は───」
「いいよ。
もう、いいから。自分を責めないで」
「しかし」
「彼がここへやって来てすぐ、あなたは駆け付けてくれた。
おかげで、わたしは無傷」
「……ですが、あと一歩遅ければ、姫様は───」
「だから、いいのよ。
たとえそうなったとしても、わたしはいいの」
戸前の隙間から、朝日が差し込む。
暗がりにぼやけていた視界が、徐々に鮮明になっていく。
姫様が顔を上げて、私を見る。
交わった彼女の瞳は、透けていた。
「どうせ、この身は穢れているんだもの。
今さら、誰に犯されようと、一緒よ」
自暴自棄とは、少し違う。
ただ、事実として述べている。
俯瞰からの自分として、ただ、説明をしている。
「こんな体たらくでも、誰かの慰みになるというなら、きっとその方がいいんだわ」
悍ましさすら感じさせるほど、透き通った瞳をしているのに。
姫様は、何も見つめていない。
私を見ているのに、見ていない。
光を通すだけのそれは、まるで磨かれたびいどろだった。
「そんなこと、いわないで、ひめさま」
怒ってほしかった。嘆いてほしかった。
隠さないでほしかった。作らないでほしかった。
笑っていてほしかった。
誰かのために、自分を殺さないでほしかった。
私はこのひとに、こんな顔をさせたいんじゃ、なかった。
「貴女は穢れてなんかいない。出会ったあの日から、貴女は何も変わっていませんよ。
当時も今も、清く美しいまま」
一日たりとも、思い出さなかった日はない。
あの空を、あの雨を。
重ねた肌の冷たさを、吐いた息の熱さを。
灯を点した鶯の、美しさを。
あんな風に抱き締めてもらったのも、頭を撫でてもらったのも。
誰かと心が通じ合えたのは、己の心に触れられたのは、初めてだった。
それはとても優しくて、優しいのが切なくて、辛くないのが歯がゆくて、嬉しかった。
干天の慈雨とは、このことを指すのだろうと思った。
"これからは、わたしが、あなたを一人にさせない───。"
あの日、私は姫様に赦された。
認められて、救われた。
姫様だけが、ありのままの私でいいと言ってくれた。
私でなくては駄目なんだと、言ってくれた。
今の私たちは、当時と立場が逆転している。
あなたをもっと、ちゃんと知りたい。
あなたの悲しみを、苦しみを、わたしに分けてほしいと。
今でこそ、あの時の姫様の気持ちが、腑に落ちる。
本心をひた隠して、無理に笑顔を作って、怒りも嘆きもしない。
誰かを傷付けるくらいなら、自分が塵となって消えようと、泥をも毒をも受け入れる。
こちら側に立ってみて、思い知った。
大切な人が憂き目に悶えているのに、傍観者でしかいられない事実が、こんなにも恨めしいなんて。
「あの時、私に仰いましたよね。
苦しいことも、楽しいことも、これからは全部分け合いましょう、って。
なのに姫様は、私の苦しみは癒してくれるのに、ご自身の苦しみは私に分けてくださらない」
「………。」
「姫様。私だって、貴女を知りたい。
貴女が今、何を感じているのか。どんな目で、私を見詰めておられるのか。
……知れたところで無意味と、思われるかもしれませんが。
私ごときの力では、貴女をお救いして差し上げることは、とても叶わないかもしれませんが。
それでも、知りたい。
貴女の口から、教えてほしいんです」
近くにいるのに。
側にいたのに。
震える背中を摩ってやれても、震えずに済むよう治してはやれない。
零れる涙を拭ってやれても、泣かずに済むよう与えてはやれない。
如何な才があろうと、力があろうと。
大切な人を救えなくて、大事な物を守れなくて、いったいどこに値があるのか。
私の生に、なんの意味があるというのか。
「───覚えてる?」
再び目を伏せた姫様が、おもむろに話し始めた。
「わたしが、初めて、上様と褥を共にした時。
最初の控え役は、あなただったわよね」
「……はい」
「とても、心配してくれたよね。わたしが傷付くんじゃないかって」
「はい」
「でも、思ったより、怖くなかったの。
はじめから分かっていたことだし、覚悟も出来ていたから。
上様もわたしを、壊れ物を扱うように、丁重に接してくださったわ」
喉を詰まらせながらも、姫様は話し続けた。
そして最後に"でも"と呟くと、姫様は自らの顔を両手で覆って、胎児のように丸まった。
「それを、側であなたが聞いているんだと思うと………。
それだけが、すごく嫌だったの」
濡れた目元を袖で隠して、姫様がひくひくと嗚咽を漏らす。
その涙を、私は拭ってやれなかった。
「姫様」
もう一度、姫様を呼ぶ。
袖越しに彼女の腕に触れる。
今度は払いのけられなかったが、隠す腕は退けてくれなかった。
「わたし、サイが好きなの。
友人として、だけじゃない。いつからか、あなたに焦がれている自分に気付いた。
すぐにこれが、恋だと分かったわ」
「こ────」
「こんなの、許されないことだって分かってる。
でも、一度知ってしまったら、もう元には戻れなくて。
好きな人がすぐ側にいて、なのに、他の人に体を預けなきゃならないのは、本当に、耐え難かった」
「姫様」
「ごめんなさい、ごめんなさい。
ずっと、黙っているつもりだった。隠し通せるはずだった。困らせたくなかったの。
でも、でも……。だんだん、自分の気持ちを、抑えられなくなって」
不安、恐怖、失望。
悲嘆、未練、無念。
十五歳の少女が背負うには、あまりに重すぎた運命。
必死に封じ込めてきた思いの丈が、箍が外れたように溢れて止まらない。
「あともう少しで、お別れなんだと思うと、悲しいの。悲しすぎるの。
やっと、かけがえのないものを見付けたのに。やっと巡り会えたのに。
これじゃあわたし、なんのために生まれてきたんだろうって、どうしても思ってしまうのよ」
すき。
姫様が、私を好き。
ようやく明かされた本心が、想像だにしなかった恋慕。
気付かなかった。
だって。
「姫様、顔、見せて」
ばらけた髪を指で梳いてやる。
姫様は無言で首を振った。
かなしい人。
決して多くを望まず、腐らず。
家族のため故郷のためと、身を粉に尽くしてきた彼女に、なんと酷い仕打ちだろう。
かわいそうな子。かわいい子。
そんな貴女が、私は愛おしくてたまらない。
「困るわけ、ないでしょう。
許されざる想いなら、私とて同罪です」
姫様の呼吸が止まる。
姫様の目元を隠していた腕が、恐る恐ると退けられる。
顕になった鶯は、赤い薄衣を纏って、いつぞやのような灯を点していた。
私は姫様の手をとり、恐る恐ると握った。
「お慕いしています、姫様。
私はずっと、貴女だけを見つめてきた」
姫様の降らせた雨で、溺れてしまいたい。
姫様の齎した熱で、焼かれてしまいたい。
張り裂けるまで、私の中を、姫様で一杯にしたい。
恋慕。
恋い慕うこと。恋い焦がれること。
同じ好きを分け合えることが、こうも幸せなことだったとは。
だからこそ。
容赦なく突き付けられる現実を、呪わずにはいられない。