;第二十二話 許されざる想い
三月、雨水。
厳しい冬も盛りを越え、芽吹きを待つばかりの春が、今年も巡ってきた。
この時、姫様を寝かしつけた私は私室へ戻り、繕い物に勤しんでいた。
使い込みで破けてしまった手拭いと足袋を、今夜中に補修するために。
平素であれば、簡単な家事雑事は女中の務め。
こちらが一言申し入れるだけで、彼女らは希望通りの仕事をしてくれる。
しかしながら、今の私に頼れる当てはない。
女中を含め、城に身を置く誰にも、何処にも。
労咳持ちの姫様は勿論のこと、姫様と密に接する私もまた、敬遠の対象となったからだ。
愚かな男共と違い、聡い女達には、話せば通じるかもしれない。
それでも、病気が移るのではという懸念が尤もである以上、深入りは出来ないしさせられない。
急がば回れ。
己で己の始末をした方が、結局は近道なのだ。
「あと、ひとつ」
手を動かす間も、頭で考えるのは、姫様のことばかり。
熱に浮かされていないか。
悪夢に魘されていないか。
急な発作や喀血に苦しんでいないか。
取り返しのつかない事態が起きていないか。
ああ、こうしてはいられない。
一刻も早く、姫様の元へ。
思案するほど作業の手も早くなっていき、気付けば瞬きすることさえ忘れていた。
「───ひとまずは、これでいいか」
私室に戻ってから、およそ四半刻。
無事に作業が済んだので、いつもの場所で仮眠を取ろうと、準備に入った。
その時だった。
布団を抱えて起立したと同時に、強烈な立ち眩みに襲われた。
敢えなく膝から崩れ落ち、俯せに倒れてしまう。
「ぁ、─────」
なんだ、これは。
足が沼に捕まるような気怠さ。
胸が岩で潰れるような息苦しさ。
そして、頭蓋の内を火箸で掻き回されるかのような、激しい頭痛。
知っている。
この感覚には、覚えがある。
体が悲鳴を上げる、とは、誰が言い表した言葉だったか。
「く、そ……」
どうやら、張り詰めていた糸が切れてしまったらしい。
気怠さも、息苦しさも、頭痛も。
即ちは、疲労と欠乏からなる歪み。
大挙した睡魔による、強制停止への誘いだ。
瞬きを重ねる毎に、瞼が重くなっていく。
気合と根性で凌いできたものが、もはや我が身を覆い尽くさんと攻め寄せるのを感じる。
突然ガタが来るなんて、終ぞなかったのに。
姫様のためと心を砕けば、疲れなど吹き飛ばせてしまえたのに。
なのに、どうして、今になって。
意識が朦朧とする中。
ふっと脳裏に浮かんだのは、泣き出しそうな松吉の顔だった。
**
柔らかな肌ざわり、仄かな温もり。
意識を取り戻した頃には、もう夜明けだった。
布団の上で倒れたのが不味かったらしい。
すっかり眠りこけてしまったようだ。
全快とは言えないまでも、歯を食い縛って起床する。
畳を這いずりながら、全開とは行かない目で辺りを見渡してみる。
外の暗さと空気の冷たさからして、今時分は恐らく、寅の刻。
倒れてからで数えると、一刻半は経過したことになる。
なんたる失態だ。
僅かな粗忽も犯さぬよう、自戒と自重に徹したというのに。
己を律し過ぎたがゆえに、却って蹉跌をきたすとは。
こうなれば、恥じ入る暇さえ惜しい。
一刻も一秒も早く挽回せねば。姫様の安否を確かめなければ。
繕った手拭いも足袋も、仮眠用にと準備した布団も置き去りにして、姫様の元へと急ぐ。
他に起床してくる者は、まだない。
静寂に包まれた城内で、私の忙しない足音のみが響く。
「───、──────……!」
姫様の寝所が近付くにつれ、なにやら不穏な気配が伝わってきた。
「(頼む)」
この気配にも、些かの覚えがある。
あれは、姫様が喀血をした場面に、初めて出くわした時だ。
出くわす直前に、胸騒ぎというか、背筋が粟立つ感じがしたのを覚えている。
「(どうか)」
あの時に似た胸騒ぎが叫ぶ。
立ち止まってはならない。後戻りはできない。
「(どうか)」
焦るな。逸るな。
落ち着け。落ち着け。
拳を握り、唾を飲み、呼吸と歩調を整える。
「(無事でいてくれ)」
そう、意識すればするほどに。
掌は汗ばみ、口は乾き、呼吸も歩調も乱れていった。
「──か、────、─イ……!」
寝所の戸前が見えた。
戸前の隙間からは、姫様と思しき声が漏れている。
悲鳴にも等しい息遣いと、反して乱雑な物音が、施錠したはずのそこから。
己が脳天に、雷が落ちる。
眉間の奥で稲妻が閃いた瞬間には、私は思いきり床を蹴っていた。
「───姫様!!!」
姫様のお許しを得る間もなく、寝所の戸前を開け放つ。
暗がりに蠢く人影は、姫様と、あと一人。
姫様より一回り以上も体格の大きい、壮年の男。
男は横たわる姫様に伸し掛かり、姫様に向けて卑しく唇を尖らせていた。
「ヒ、─────」
ばたん、と戸前を開けた音に驚いた男が、
びくり、と肩を揺らしてこちらを睨んだ。
突き出た目玉、くすんだ肌、手入れを怠った無精髭。
肥えた腹囲、痩せた手足、丸まった背中に腰。
こいつは確か、いつぞやに、修練場で会った。
名は知らない。
口を利いたこともない。
ただ、男の煤けた黒装束が、放られた鍵の束が、なにより明らかで、すべてを物語っていた。
男の下には、姫様の姿がある。
はだけた胸元、ばらけた髪。
冷たい床に縫い付けられた、細い手首。
虚ろに翳った、鶯色の瞳。
「さい、」
姫様が私の名を呼ぶ。
火箸で掻き回された頭蓋の内で、燻っていた火種が爆ぜた。
「───ぉガ……ッ!」
渾身の力で男を殴り飛ばす。
飛ばされた衝撃で、男が壁に背中を打ち付ける。
「こン、の……ッ!」
上擦った声で、男がしきりに何かを喚く。
私は敢えて返事も制止もせず、男に詰め寄っていった。
「や、やめ……っ」
男の腹に跨がり、男の胸倉を掴み、また一発。ニ発。三発。
男の顔面に拳を叩き入れるたび、互いの骨がぶつかる音が鳴る。
互いの骨がぶつかるたび、鈍い痛みと痺れが腕全体に走る。
そういえば、私の体力は限界を超えたんだった。
どうりで、平素より反動が大きいわけだ。
「ゆるし─────」
男の鼻が、目が、頬が、本来の形を損なってゆく。
汚ならしい無精髭に、汚らわしい鮮血が滴る。
醜い。
この顔が、この男が。
私の美しい人を、穢そうとしたなんて。
「(赦さない。)」
男の胸倉を引き寄せ、いっそう高く腕を振り上げる。
男は短く喉を鳴らすと、固く目を瞑った。
「───やめて!!!」
どこからか、本物の悲鳴が上がった。
鋭くも優しい、鬼気迫る悲鳴だった。
このひとの声と言葉は、いつだって。
怒りに身を委ねている時でさえ、私の耳に必ず届く。
とっさに動きを止めた私は、首だけでそちらへ振り向いた。
「サイ」
あられもない姿の姫様。
いつの間に起き上がったのか、髪も裾もそのままに、はだけた胸元をぎゅっと握り締めて、彼女は繰り返し、私を呼んだ。
「もう、いいの、サイ。
それ以上やったら死んでしまう」
「姫様」
「わたしは大丈夫だから、だから、落ち着いて。わたしはだいじょうぶ」
私はまた、別の意味で目眩がしそうだった。
「(また、私は───)」
冷静になれ、玉月才蔵。
姫様の御前で人を殺めるなど、絶対に二度もあってはならない。
残った怒りを吸った息で散らし、のぼせた頭を吐いた息で冷ます。
男の胸倉を離し、男の腹から退いてやる。
すると男は、締まりのない笑みを浮かべて、私を見上げた。
「こッ、これは、さ。これ、ほんの、出来心、つーか、さ。あれだよ。つい、魔が差しちまっただけなんだよ。
ここなら人気もないし、上様のお気に入りだった女がどれほどのもんか、ちょっと試したくなっただけで」
「黙れ」
「だから頼むよ、な?最後まではやってねんだ。
曲がりなりにも、ほら。同じ釜の飯食った仲だろ?
それに免じて、上様に言い付けるのだけは勘弁を───」
血を流してなお、よく舌の回ることだ。
「黙れ」
叱る気も、諭す気も、罵る気にもならなかった。
ただ、黙ってほしくて、いなくなってほしかった。
前後も順序も省いて、一蹴した。
男は口を閉ざす代わりに、充血した目を見開いた。
まるで、化け物にでも出くわしてしまったかのように。
「失せろ。私の鬼が出る前に」
殺生を好むのが化け物ならば、今の私は確かに化け物だ。
「───~~ッ!くそっ!」
躓きそうになりながらも、男が慌てて部屋を出ていく。
やっと、静かになった。
安堵したのも束の間、姫様が床に倒れた。
私は姫様に駆け寄り、姫様を布団に移動させた。
「すみません、失礼します」
一言断ってから、今度こそ姫様の安否を確かめる。
姫様の額に触れて体温を測り、姫様の首に触れて心音を測る。
呼吸は浅いが、喀血の兆候はない。
着衣は乱れているが、特に乱暴された形跡もない。
間一髪、間に合った、か。
"最後まではやっていない"、という男の弁明に偽りはなかったようだ。
とはいえ、姫様に怖い思いをさせてしまったことには変わらない。
すべて、私の不徳の致すところだ。




