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現し世は桜花の化身  作者: 和達譲
;サイ編 化身の章
59/75

;第二十二話 許されざる想い



三月、雨水。

厳しい冬も盛りを越え、芽吹きを待つばかりの春が、今年も巡ってきた。


この時、姫様を寝かしつけた私は私室へ戻り、繕い物に勤しんでいた。

使い込みで破けてしまった手拭いと足袋を、今夜中に補修するために。


平素であれば、簡単な家事雑事は女中の務め。

こちらが一言申し入れるだけで、彼女らは希望通りの仕事をしてくれる。


しかしながら、今の私に頼れる当てはない。

女中を含め、城に身を置く誰にも、何処にも。

労咳持ちの姫様は勿論のこと、姫様と密に接する私もまた、敬遠の対象となったからだ。


愚かな男共と違い、聡い女達には、話せば通じるかもしれない。

それでも、病気が移るのではという懸念が尤もである以上、深入りは出来ないしさせられない。


急がば回れ。

己で己の始末をした方が、結局は近道なのだ。



「あと、ひとつ」



手を動かす間も、頭で考えるのは、姫様のことばかり。


熱に浮かされていないか。

悪夢に魘されていないか。

急な発作や喀血に苦しんでいないか。

取り返しのつかない事態が起きていないか。


ああ、こうしてはいられない。

一刻も早く、姫様の元へ。


思案するほど作業の手も早くなっていき、気付けば瞬きすることさえ忘れていた。






「───ひとまずは、これでいいか」



私室に戻ってから、およそ四半刻。

無事に作業が済んだので、いつもの場所で仮眠を取ろうと、準備に入った。


その時だった。

布団を抱えて起立したと同時に、強烈な立ち眩みに襲われた。


敢えなく膝から崩れ落ち、俯せに倒れてしまう。



「ぁ、─────」



なんだ、これは。

足が沼に捕まるような気怠さ。

胸が岩で潰れるような息苦しさ。

そして、頭蓋の内を火箸で掻き回されるかのような、激しい頭痛。


知っている。

この感覚には、覚えがある。

体が悲鳴を上げる、とは、誰が言い表した言葉だったか。



「く、そ……」



どうやら、張り詰めていた糸が切れてしまったらしい。


気怠さも、息苦しさも、頭痛も。

即ちは、疲労と欠乏からなるひずみ。

大挙した睡魔による、強制停止へのいざないだ。


瞬きを重ねる毎に、瞼が重くなっていく。

気合と根性で凌いできたものが、もはや我が身を覆い尽くさんと攻め寄せるのを感じる。


突然ガタが来るなんて、終ぞなかったのに。

姫様のためと心を砕けば、疲れなど吹き飛ばせてしまえたのに。

なのに、どうして、今になって。


意識が朦朧とする中。

ふっと脳裏に浮かんだのは、泣き出しそうな松吉の顔だった。





**


柔らかな肌ざわり、仄かな温もり。

意識を取り戻した頃には、もう夜明けだった。


布団の上で倒れたのが不味かったらしい。

すっかり眠りこけてしまったようだ。


全快とは言えないまでも、歯を食い縛って起床する。

畳を這いずりながら、全開とは行かない目で辺りを見渡してみる。


外の暗さと空気の冷たさからして、今時分は恐らく、寅の刻。

倒れてからで数えると、一刻半は経過したことになる。



なんたる失態だ。

僅かな粗忽も犯さぬよう、自戒と自重に徹したというのに。

己を律し過ぎたがゆえに、却って蹉跌をきたすとは。


こうなれば、恥じ入る暇さえ惜しい。

一刻も一秒も早く挽回せねば。姫様の安否を確かめなければ。


繕った手拭いも足袋も、仮眠用にと準備した布団も置き去りにして、姫様の元へと急ぐ。


他に起床してくる者は、まだない。

静寂に包まれた城内で、私の忙しない足音のみが響く。




「───、──────……!」



姫様の寝所が近付くにつれ、なにやら不穏な気配が伝わってきた。



「(頼む)」



この気配にも、些かの覚えがある。

あれは、姫様が喀血をした場面に、初めて出くわした時だ。

出くわす直前に、胸騒ぎというか、背筋が粟立つ感じがしたのを覚えている。



「(どうか)」



あの時に似た胸騒ぎが叫ぶ。

立ち止まってはならない。後戻りはできない。



「(どうか)」



焦るな。はやるな。

落ち着け。落ち着け。

拳を握り、唾を飲み、呼吸と歩調を整える。



「(無事でいてくれ)」



そう、意識すればするほどに。

掌は汗ばみ、口は乾き、呼吸も歩調も乱れていった。




「──か、────、─イ……!」



寝所の戸前が見えた。

戸前の隙間からは、姫様と思しき声が漏れている。

悲鳴にも等しい息遣いと、反して乱雑な物音が、施錠したはずのそこ(・・)から。


己が脳天に、雷が落ちる。

眉間の奥で稲妻が閃いた瞬間には、私は思いきり床を蹴っていた。




「───姫様!!!」



姫様のお許しを得る間もなく、寝所の戸前を開け放つ。


暗がりに蠢く人影は、姫様と、あと一人。

姫様より一回り以上も体格の大きい、壮年の男。


男は横たわる姫様に伸し掛かり、姫様に向けて卑しく唇を尖らせていた。



「ヒ、─────」



ばたん、と戸前を開けた音に驚いた男が、

びくり、と肩を揺らしてこちらを睨んだ。


突き出た目玉、くすんだ肌、手入れを怠った無精髭。

肥えた腹囲、痩せた手足、丸まった背中に腰。


こいつは確か、いつぞやに、修練場で会った。


名は知らない。

口を利いたこともない。


ただ、男の煤けた黒装束が、放られた鍵の束が、なにより明らかで、すべてを物語っていた。



男の下には、姫様の姿がある。


はだけた胸元、ばらけた髪。

冷たい床に縫い付けられた、細い手首。

虚ろに翳った、鶯色の瞳。



さい(・・)、」



姫様が私の名を呼ぶ。

火箸で掻き回された頭蓋の内で、燻っていた火種が爆ぜた。




「───ぉガ……ッ!」



渾身の力で男を殴り飛ばす。

飛ばされた衝撃で、男が壁に背中を打ち付ける。



「こン、の……ッ!」



上擦った声で、男がしきりに何かを喚く。

私は敢えて返事も制止もせず、男に詰め寄っていった。



「や、やめ……っ」



男の腹に跨がり、男の胸倉を掴み、また一発。ニ発。三発。


男の顔面に拳を叩き入れるたび、互いの骨がぶつかる音が鳴る。

互いの骨がぶつかるたび、鈍い痛みと痺れが腕全体に走る。


そういえば、私の体力は限界を超えたんだった。

どうりで、平素より反動が大きいわけだ。



「ゆるし─────」



男の鼻が、目が、頬が、本来の形を損なってゆく。

汚ならしい無精髭に、汚らわしい鮮血が滴る。


醜い。

この顔が、この男が。

私の美しい人を、穢そうとしたなんて。



「(赦さない。)」



男の胸倉を引き寄せ、いっそう高く腕を振り上げる。

男は短く喉を鳴らすと、固く目を瞑った。




「───やめて!!!」



どこからか、本物の悲鳴が上がった。

鋭くも優しい、鬼気迫る悲鳴だった。


このひとの声と言葉は、いつだって。

怒りに身を委ねている時でさえ、私の耳に必ず届く。


とっさに動きを止めた私は、首だけでそちらへ振り向いた。



「サイ」



あられもない姿の姫様。

いつの間に起き上がったのか、髪も裾もそのままに、はだけた胸元をぎゅっと握り締めて、彼女は繰り返し、私を呼んだ。



「もう、いいの、サイ。

それ以上やったら死んでしまう」


「姫様」


「わたしは大丈夫だから、だから、落ち着いて。わたしはだいじょうぶ」



私はまた、別の意味で目眩がしそうだった。



「(また、私は───)」



冷静になれ、玉月才蔵。

姫様の御前で人を殺めるなど、絶対に二度・・もあってはならない。


残った怒りを吸った息で散らし、のぼせた頭を吐いた息で冷ます。

男の胸倉を離し、男の腹から退いてやる。


すると男は、締まりのない笑みを浮かべて、私を見上げた。



「こッ、これは、さ。これ、ほんの、出来心、つーか、さ。あれだよ。つい、魔が差しちまっただけなんだよ。

ここなら人気ひとけもないし、上様のお気に入りだった女がどれほどのもんか、ちょっと試したくなっただけで」


「黙れ」


「だから頼むよ、な?最後まではやってねんだ。

曲がりなりにも、ほら。同じ釜の飯食った仲だろ?

それに免じて、上様に言い付けるのだけは勘弁を───」



血を流してなお、よく舌の回ることだ。



「黙れ」



叱る気も、諭す気も、罵る気にもならなかった。

ただ、黙ってほしくて、いなくなってほしかった。

前後も順序も省いて、一蹴した。


男は口を閉ざす代わりに、充血した目を見開いた。

まるで、化け物にでも出くわしてしまったかのように。



「失せろ。私の鬼が出る前に」



殺生を好むのが化け物ならば、今の私は確かに化け物だ。




「───~~ッ!くそっ!」



躓きそうになりながらも、男が慌てて部屋を出ていく。


やっと、静かになった。

安堵したのも束の間、姫様が床に倒れた。

私は姫様に駆け寄り、姫様を布団に移動させた。



「すみません、失礼します」



一言断ってから、今度こそ姫様の安否を確かめる。

姫様の額に触れて体温を測り、姫様の首に触れて心音を測る。


呼吸は浅いが、喀血の兆候はない。

着衣は乱れているが、特に乱暴された形跡もない。


間一髪、間に合った、か。

"最後まではやっていない"、という男の弁明に偽りはなかったようだ。


とはいえ、姫様に怖い思いをさせてしまったことには変わらない。

すべて、私の不徳の致すところだ。



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