;第二十一話 好きだったよ
───現代。
いつにも増して、しめやかな丑三つ時。
夜起きついでに厠へ立った俺は、真冬の寒気に追いたてられるように、帰り道を急いでいた。
すると曲がり角を抜けたところで、人影が現れた。
月明かりを帯びた白い羽織。
暗がりに揺れる黒い髪。
覚束ない足取りで、俺の七歩先を行く後ろ姿。
あいつだ。
認識するや否や、俺の足はそいつに向かい、真冬の寒気も私室への経路も、頭から飛んでしまった。
「───玉月!」
響かない程度に声を抑えて、そいつの背後から呼び掛ける。
足を止めたそいつは、呆然としながらも直ぐにこちらに振り返った。
「なんだ、松吉か。
お前も寝ていなかったのか」
青ざめた頬は艶がなく、
目の下の隈は貼り付けたようで、
乾いた唇は言葉を分けるのでやっと。
いつもと違って直ぐに振り返ってくれたのは、呼び掛ける声が俺のものだと気付けなかったから。
いつもと違って普通に返事をしてくれるのは、俺とやり合う気力すらないから。
「(今夜くらいは、今だけは)」
まともに寝ていない日が続いているんだろう。
放っていても倒れそうなほど、ギンの全身からは疲労が滲み出ていた。
これでは誰が病人か分からないが、無理もない。
「お前、もう何日、寝床で寝てないんだ」
「ああ……。見られていたか。
どうだろうな。そもそも数えていないから、わからない」
「せっかく自分の部屋があるんだから、休む時くらい戻れよ。
このままじゃお前の体が持たない」
呆気に取られたギンは、自嘲するように鼻を鳴らしてみせた。
「まさか、お前に心配されるとは。
平気さ。丈夫だけが取り柄だからな」
「丈夫ったって……」
「本当はずっと姫様のお側に付いていたいんだが、病気が移るからと許してもらえないんだ。仕方ない」
唯桜姫の病が発覚し、彼女の私室が座敷牢に移されて今日。
ギンは夜な夜な、その付近の廊下で体を休めるようになった。
芯まで凍えそうな真冬続きに、たった掛け布団一枚のみを纏って、膝を抱えて縮こまって眠るのだ。
いつ何時、姫の身に異変が起きても駆け付けられるように。
同時に、無力な自分を戒めるように、罰するように。
このことを知っているのは、恐らく俺だけだろう。
姫本人の耳に入ったならば、そんな無茶はよしてくれと止められるに違いない。
「お前、これからどうするつもりなんだ」
「どういう意味だ?」
「言葉通りさ。
今は彼女の世話に掛かり切りなんだろうが、───それがなくなったら、お前はどうする」
どうする、ではなく。
どうなる、の方が適当かもしれない。
唯桜姫は、彼女は、いずれ死ぬ。
そう遠くない未来に、永久の眠りにつく。
辛うじて生を繋ぎ留めることは出来ても、時間は止められないのだ。
「そんなこと、今は考える必要ない」
「考えたくない、だろ」
俺は不安だった。
どうにも不吉な予感がしてならなかった。
彼女に出会い、ギンは変わった。
最初は良い意味で。そして今度は悪い意味で。
彼女の死に立会えば、間違いなくギンは変わるだろう。
抜け殻だったギンに、魂を吹き込んだのは彼女だ。
彼女を失ったら、ギンは抜け殻に戻るどころか、二度と動かなくなってしまう気がする。
人形より抜け殻より、もっと始末に負えない、骸同然に。
それほどまでに、ギンにとって彼女の存在は、大きい。
「今はただ、少しでも、姫様の苦しみを和らげて差し上げたい。
そのためなら、私はどんなことだってする」
「じゃあ、苦しみがなくなったら?
彼女に対して出来ることをやり尽くしたら、お前はお前で何をする?」
「何もしない。
最期まで、姫様のお側にいる。
姫様の生きた証を、この目で見届ける。
私には、もう、それしかないんだ」
苦悶の表情で語ったギンは、俺を置いて去ろうとした。
俺はとっさにギンの腕を掴み、力づくでこちらに振り向かせた。
「どうしてそこまでする。
お前はもう彼女の世話役じゃない。まして家族でもない。
病気のことは確かに気の毒だが、お前が責を感じても不毛だ」
「忠告はありがたいが、松吉。これは私の意思で───」
「どれだけ手を尽くそうとも、結果は変えられないんだ。
だったら、時の侭にさせればいい。余計な真似はせず、前と同じ分だけ世話して、死んだら弔ってやればいい。
一緒になって苦しむことない」
「結果じゃないんだよ。
たとえ行き着く先が同じでも、苦しんで死ぬより、眠るように死ぬ方がずっといい。
大事なのは結果より過程だ。結果が同じだからと過程を打ち捨てるのは人でなしの所業だ」
「口で言うのは簡単だが、安らかに死なせてやれる保証だってどこにもない。
時には打ち捨てるくらいの分別がなきゃ、人のためにも自分のためにも───」
「───ッ私は!!
……私は、できうるだけ彼女に、あのひとが、せめて未練のないように、尽くしたいんだよ。
誰のためじゃなく、私が、私のために、そうしなくちゃいられないんだよ」
ギンの声が徐々に震えだす。
月明かりを拒むように俯いた顔が、みるみる闇に溶けていく。
「私はどうなったって構わない。
姫様がいなくなった後のことなんて、私には───」
やっぱり、駄目だ。
彼女が死んだら、きっとギンも死ぬ。
肉体はあっても、そこに魂はない。
壊れた心は、俺では直せない。
「─────!」
ギンを引き寄せ、きつく抱き締める。
薄くて小さいギンの体。
こんな頼りない器に、己以外の一生をも背負わせてしまうのは、あまりに酷だ。
「一緒に逃げよう、ギン」
自分より頭ひとつぶん低いギンの耳元に、口を寄せる。
ギンは僅かに肩を揺らしたものの、俺を跳ね退けようとはしなかった。
「俺もお前も、あの程度の守備なら容易く突破できる。
それも協力してとなれば、無傷で逃げおおせることだって夢じゃないだろう」
「しょうきち……」
「お前は最期まで彼女に尽くすと言って聞かないが、彼女の方はそんなこと望んでないはずだ」
「松吉」
「心優しいあの子は思ってるさ。
生い先短い自分にかまけるよりも、お前にはお前の人生を生きてほしいって。
だからギン。あの子のためを思うなら、こんな掃き溜めにいつまでも繋がれていないで、俺と───」
「ッ松吉……!」
大人しく俺に抱かれていたギンが、不意に張り詰めた声を上げた。
はっとして腕を緩めてやると、ギンは俺の胸板を押しながら、一歩ニ歩と後ずさった。
「姫様を、置いてはいけない」
視界いっぱいに、俯いたギンの頭頂部が映る。
胸板に添えられたままの右手には、きっと不格好な鼓動が伝わっている。
「私はずっと、お前を慕ってきた。信頼もしていた。
お前が私を嫌いでも、私はお前を、───嫌いには、なれなかった」
「ギン」
「松吉。
お前には本当に、感謝してるんだ。
人として大切なことを、お前にはたくさん、教えてもらった。
でも─────」
"私はもう、お前を選べないよ、松吉。"
そう言って右手を下ろしたギンは、ゆっくりと俺に視線を合わせた。
星を散りばめた夜空のような、ギンしか持たない藍色の瞳。
今にも泣き出しそうで、でも必死に堪えている、餓鬼っぽくて女くさくて人間らしい、生きた心を鏡にした表情。
俺には終ぞ引き出せなかった表情を、またしても、彼女が。
改めて目の当たりにするギンの美しさに、改めて俺は、こいつを好きだと思った。
「足抜けして自由になりたいというなら止めないし、もし実行する時には全力で手助けしてやる。
でも、お前と一緒に行くことは、できない」
痛い。息ができない。
ギンのこの顔を見ているのが、この声を聞いているのが、辛い。
なのに、目を背けられない。耳を塞げない。
俺はこいつから、どうしたって逃げられない。
「あの子の気持ちを無視してでも?
お前がそうすることを、あの子は望んでいなくてもか?」
ギンの頬に触れ、親指の腹で撫でてやる。
ギンはそこに自分の手を重ねると、俺の固い掌に擦り寄った。
「違うよ、松吉」
瞼を閉じ、奥歯を噛み、鼻から息を深く吸う。
俺の体温を慈しむように、惜しむように。
やがて開かれた目は濡れていて、まばたきと共に一筋の涙を流した。
「姫様を、ウキさんを、愛してしまったんだ」
顔も、声も。
儚く悲しい色でありながら、あたたかい。
心中にある人が愛おしくて堪らないと、言葉にするより如実に表れている。
しかしそれは、俺に向けられたものではない。
互いの瞳に互いが映っていても、ギンが見据えている先には、俺はいない。
「私は、ウキさんと共にいる。果てに何が待ち受けていようと。
だから松吉、私を忘れて。しがらみの全てから解放されて、どうか」
ギンが微笑む。
「幸せになってくれ、松吉」
やっと、ちゃんと話せたのに。
ずっと恋しかったギンの笑顔に、こうしてまた会えたのに。
嬉しくない。
俺は、笑えない。
俺から離れたギンが、今度こそ俺を置いて歩き始める。
そして、俺の横を通り過ぎる刹那。
最後にもう一言だけ、消え入りそうな声で呟いた。
「 」
足音が遠ざかっていく。
俺はやっぱり、ギンを追えなかった。
急に、静かになった。
急に、寒くなってきた。
ギンの残していった温もりが、俺の沸きたつ虚しさによって、掻き消されていく。
視線を上げた先には、暗い天井がある。
更に向こうに、月の浮かんだ夜空がある。
ちらちらと降る雪で、ちかちかと視界が明滅する。
「ハ、─────」
しがらみから解放されて、などと。
そのくせ最後にあんなこと言うなんて、卑怯だろ。
「馬鹿だよな、ほんと。俺もお前も」
お前しか要らないのに。
狂おしいほど、お前で頭が一杯なのに。
無理矢理にでも奪って、攫ってしまいたいと思うのに。
「お前なしで幸せになんか、なれるわけないだろ」
たぶん、一目惚れだった。
『有明の月』