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現し世は桜花の化身  作者: 和達譲
;松吉編 上弦の章
58/75

;第二十一話 好きだったよ



───現代。


いつにも増して、しめやかな丑三つ時。

夜起きついでに厠へ立った俺は、真冬の寒気に追いたてられるように、帰り道を急いでいた。


すると曲がり角を抜けたところで、人影が現れた。


月明かりを帯びた白い羽織。

暗がりに揺れる黒い髪。

覚束ない足取りで、俺の七歩先を行く後ろ姿。


あいつだ。

認識するや否や、俺の足はそいつに向かい、真冬の寒気も私室への経路も、頭から飛んでしまった。




「───玉月!」



響かない程度に声を抑えて、そいつの背後から呼び掛ける。

足を止めたそいつは、呆然としながらも直ぐにこちらに振り返った。



「なんだ、松吉か。

お前も寝ていなかったのか」



青ざめた頬は艶がなく、

目の下の隈は貼り付けたようで、

乾いた唇は言葉を分けるのでやっと。


いつもと違って直ぐに振り返ってくれたのは、呼び掛ける声が俺のものだと気付けなかったから。

いつもと違って普通に返事をしてくれるのは、俺とやり合う気力すらないから。



「(今夜くらいは、今だけは)」



まともに寝ていない日が続いているんだろう。

放っていても倒れそうなほど、ギンの全身からは疲労が滲み出ていた。


これでは誰が病人か分からないが、無理もない。



「お前、もう何日、寝床で寝てないんだ」


「ああ……。見られていたか。

どうだろうな。そもそも数えていないから、わからない」


「せっかく自分の部屋があるんだから、休む時くらい戻れよ。

このままじゃお前の体が持たない」



呆気に取られたギンは、自嘲するように鼻を鳴らしてみせた。



「まさか、お前に心配されるとは。

平気さ。丈夫だけが取り柄だからな」


「丈夫ったって……」


「本当はずっと姫様のお側に付いていたいんだが、病気が移るからと許してもらえないんだ。仕方ない」




唯桜姫の病が発覚し、彼女の私室が座敷牢に移されて今日こんにち

ギンは夜な夜な、その付近の廊下で体を休めるようになった。


芯まで凍えそうな真冬続きに、たった掛け布団一枚のみを纏って、膝を抱えて縮こまって眠るのだ。


いつ何時なんどき、姫の身に異変が起きても駆け付けられるように。

同時に、無力な自分を戒めるように、罰するように。


このことを知っているのは、恐らく俺だけだろう。

姫本人の耳に入ったならば、そんな無茶はよしてくれと止められるに違いない。




「お前、これからどうするつもりなんだ」


「どういう意味だ?」


「言葉通りさ。

今は彼女の世話に掛かり切りなんだろうが、───それがなくなったら、お前はどうする」



どうする(・・)、ではなく。

どうなる(・・)、の方が適当かもしれない。


唯桜姫は、彼女は、いずれ死ぬ。

そう遠くない未来に、永久とこしえの眠りにつく。

辛うじて生を繋ぎ留めることは出来ても、時間は止められないのだ。



「そんなこと、今は考える必要ない」


「考えたくない、だろ」



俺は不安だった。

どうにも不吉な予感がしてならなかった。


彼女に出会い、ギンは変わった。

最初はい意味で。そして今度は悪い意味で。

彼女の死に立会えば、間違いなくギンは変わるだろう。


抜け殻だったギンに、いのちを吹き込んだのは彼女だ。

彼女を失ったら、ギンは抜け殻に戻るどころか、二度と動かなくなってしまう気がする。

人形より抜け殻より、もっと始末に負えない、骸同然に。


それほどまでに、ギンにとって彼女の存在は、大きい。




「今はただ、少しでも、姫様の苦しみを和らげて差し上げたい。

そのためなら、私はどんなことだってする」


「じゃあ、苦しみがなくなったら?

彼女に対して出来ることをやり尽くしたら、お前はお前で何をする?」


「何もしない。

最期まで、姫様のお側にいる。

姫様の生きた証を、この目で見届ける。

私には、もう、それしかないんだ」



苦悶の表情で語ったギンは、俺を置いて去ろうとした。

俺はとっさにギンの腕を掴み、力づくでこちらに振り向かせた。



「どうしてそこまでする。

お前はもう彼女の世話役じゃない。まして家族でもない。

病気のことは確かに気の毒だが、お前が責を感じても不毛だ」


「忠告はありがたいが、松吉。これは私の意思で───」


「どれだけ手を尽くそうとも、結果は変えられないんだ。

だったら、時の侭にさせればいい。余計な真似はせず、前と同じ分だけ世話して、死んだら弔ってやればいい。

一緒になって苦しむことない」


「結果じゃないんだよ。

たとえ行き着く先が同じでも、苦しんで死ぬより、眠るように死ぬ方がずっといい。

大事なのは結果より過程だ。結果が同じだからと過程を打ち捨てるのは人でなしの所業だ」


「口で言うのは簡単だが、安らかに死なせてやれる保証だってどこにもない。

時には打ち捨てるくらいの分別がなきゃ、人のためにも自分のためにも───」


「───ッ私は!!

……私は、できうるだけ彼女に、あのひとが、せめて未練のないように、尽くしたいんだよ。

誰のためじゃなく、私が、私のために、そうしなくちゃいられないんだよ」



ギンの声が徐々に震えだす。

月明かりを拒むように俯いた顔が、みるみる闇に溶けていく。



「私はどうなったって構わない。

姫様がいなくなった後のことなんて、私には───」




やっぱり、駄目だ。

彼女が死んだら、きっとギンも死ぬ。

肉体はあっても、そこに魂はない。

壊れた心は、俺では直せない。



「─────!」



ギンを引き寄せ、きつく抱き締める。


薄くて小さいギンの体。

こんな頼りない器に、己以外の一生をも背負わせてしまうのは、あまりに酷だ。




「一緒に逃げよう、ギン」



自分より頭ひとつぶん低いギンの耳元に、口を寄せる。

ギンは僅かに肩を揺らしたものの、俺を跳ね退けようとはしなかった。



「俺もお前も、あの程度の守備なら容易く突破できる。

それも協力してとなれば、無傷で逃げおおせることだって夢じゃないだろう」


「しょうきち……」


「お前は最期まで彼女に尽くすと言って聞かないが、彼女の方はそんなこと望んでないはずだ」


「松吉」


「心優しいあの子は思ってるさ。

生い先短い自分にかまけるよりも、お前にはお前の人生を生きてほしいって。

だからギン。あの子のためを思うなら、こんな掃き溜めにいつまでも繋がれていないで、俺と───」


「ッ松吉……!」



大人しく俺に抱かれていたギンが、不意に張り詰めた声を上げた。

はっとして腕を緩めてやると、ギンは俺の胸板を押しながら、一歩ニ歩と後ずさった。



「姫様を、置いてはいけない」



視界いっぱいに、俯いたギンの頭頂部が映る。

胸板に添えられたままの右手には、きっと不格好な鼓動が伝わっている。



「私はずっと、お前を慕ってきた。信頼もしていた。

お前が私を嫌いでも、私はお前を、───嫌いには、なれなかった」


「ギン」


「松吉。

お前には本当に、感謝してるんだ。

人として大切なことを、お前にはたくさん、教えてもらった。

でも─────」



"私はもう、お前を選べないよ、松吉。"


そう言って右手を下ろしたギンは、ゆっくりと俺に視線を合わせた。


星を散りばめた夜空のような、ギンしか持たない藍色の瞳。

今にも泣き出しそうで、でも必死に堪えている、餓鬼っぽくて女くさくて人間らしい、生きた心を鏡にした表情。


俺には終ぞ引き出せなかった表情を、またしても、彼女が。

改めて目の当たりにするギンの美しさに、改めて俺は、こいつを好きだと思った。




「足抜けして自由になりたいというなら止めないし、もし実行する時には全力で手助けしてやる。

でも、お前と一緒に行くことは、できない」



痛い。息ができない。

ギンのこの顔を見ているのが、この声を聞いているのが、辛い。

なのに、目を背けられない。耳を塞げない。


俺はこいつから、どうしたって逃げられない。



「あの子の気持ちを無視してでも?

お前がそうすることを、あの子は望んでいなくてもか?」



ギンの頬に触れ、親指の腹で撫でてやる。

ギンはそこに自分の手を重ねると、俺の固い掌に擦り寄った。



「違うよ、松吉」



瞼を閉じ、奥歯を噛み、鼻から息を深く吸う。

俺の体温を慈しむように、惜しむように。


やがて開かれた目は濡れていて、まばたきと共に一筋の涙を流した。



「姫様を、ウキさんを、愛してしまったんだ」



顔も、声も。

儚く悲しい色でありながら、あたたかい。

心中にある人が愛おしくて堪らないと、言葉にするより如実に表れている。


しかしそれは、俺に向けられたものではない。

互いの瞳に互いが映っていても、ギンが見据えている先には、俺はいない。



「私は、ウキさんと共にいる。果てに何が待ち受けていようと。

だから松吉、私を忘れて。しがらみの全てから解放されて、どうか」



ギンが微笑む。



「幸せになってくれ、松吉」




やっと、ちゃんと話せたのに。

ずっと恋しかったギンの笑顔に、こうしてまた会えたのに。


嬉しくない。

俺は、笑えない。



俺から離れたギンが、今度こそ俺を置いて歩き始める。


そして、俺の横を通り過ぎる刹那。

最後にもう一言だけ、消え入りそうな声で呟いた。





「      」





足音が遠ざかっていく。

俺はやっぱり、ギンを追えなかった。


急に、静かになった。

急に、寒くなってきた。


ギンの残していった温もりが、俺の沸きたつ虚しさによって、掻き消されていく。


視線を上げた先には、暗い天井がある。

更に向こうに、月の浮かんだ夜空がある。

ちらちらと降る雪で、ちかちかと視界が明滅する。




「ハ、─────」




しがらみから解放されて、などと。

そのくせ最後にあんなこと言うなんて、卑怯だろ。



「馬鹿だよな、ほんと。俺もお前も」



お前しか要らないのに。

狂おしいほど、お前で頭が一杯なのに。

無理矢理にでも奪って、攫ってしまいたいと思うのに。






「お前なしで幸せになんか、なれるわけないだろ」



たぶん、一目惚れだった。








有明ありあけの月』




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