;第二十話 誰より幸せにしたいのに
俺とギンは相棒だった。
多くの時間、多くの苦楽を共にし、互いに心を開いていた。
目配せをひとつ交わすだけでも、互いの意図を汲み取れるほどに。
"あの二人は、単なる上下関係を超えた絆で結ばれている"。
同僚からはもちろん、上様でさえも俺達の相性を評価していた。
俺はギンを可愛がっていた。
ギンも俺を慕ってくれていた。
俺とギンは、相棒だった。
俺にはギンが、ギンには俺が、生まれて初めての友人だった。
「やれよ。それで、お前の気が済むなら」
今からおよそ、一年前の春。
俺達の友情に、亀裂が入った。
原因は、俺だ。
「───あっ、才蔵くーん!
これから鍛練でしょ?ね、たまには外でやるとかどーお?
だって修練場は女人禁制だから、せっかくの勇姿をアタシは見られないんだもーん!」
「───あら、才蔵。
なんだか顔色が悪いわね。ろくに休めていないんじゃない?
私たち用にって、気付けにいい薬があるんだけど、持ってきましょうか?」
「───よう、才蔵。
相ッ変わらず、小枝みてえな腕してんなぁ。今朝はちゃんと食ったのか?
たまには茶碗三杯平らげるぐらいじゃねえと、俺らみたいにデカくなれねえぞ」
「───才蔵殿、此方におられましたか。
上様が貴殿にご用命を、とのことです。お手隙しだい、謁見の間へ参られたく。
いやはや、一昔前までは、松吉殿ばかりにお鉢が回っていたものですがな。近頃は、才蔵殿一筋のようです」
ギンは人気者だった。人気者になった。
俺を介して、あるいは俺を通じて、俺以外のやつらにもギンの魅力が知れ渡ったからだ。
"もっと取っ付き難いかと思いきや、接してみると意外に楽しい人だった"。
かつての浮名はどこへやら、今度は勇名美名ばかりが上がってくる始末。
俺がギンの険を取ってやったおかげで、というより。
俺がギンへの誤解を解いてしまったせいで、俺だけでギンを独り占めできなくなった。
後悔を覚えた頃には、俺とギンの人望はすっかり逆転していた。
畏敬、嫉妬、恋慕。
銘々の想いが交錯する中で、ギンはいつもその中心にいた。
いつしか、ギンこそが城一番の花形と謳われるまでになった。
「───ねえ、聞いた?
こないだの騒ぎ鎮めたの、あの子なんだって」
ところが。
例の事件があってからというもの、ギンは再び孤立した。
謀反の鎮圧。
言葉にすると呆気なく聞こえるが、実際のあれは、凄まじい惨劇だった。
「───あっ、才蔵さん……。
えっと、鍛練に行かれるんですか?
そう、ですか。ええ。頑張ってくださいね」
「───ねえ、才蔵。自分ばかり責めては駄目よ。
あんなことを命じた上様も、ろくに役に立たなかった男達だって悪いんだから。
だから、そんな、辛そうな顔をしないで」
「───ゲッ、玉月……。
ああ、すまんすまん。今どくよ。
しばらく籠もるんだろ?じゃあ俺らは、お前が済むまで外に出てるとするかな。
悪いけど、稽古でもお前の相手は勘弁だからさ」
「───才蔵殿。
松吉殿を探しているのですが、お見掛けになりませんでしたか?
うーん、この時分ですと、やはり巡回に出られているのやもしれませんな。
お呼び止めして、申し訳なかった。貴殿はどうぞ、持ち場にお戻りを」
鬼。死神。化物。
たった一夜を堺に、あいつは人気者から化生者へと転じた。
昨日までの勇名美名は、元より辛辣な浮名によって上書きされた。
どいつもこいつも、あいつに直接害されたわけでもねえくせに。
自分の想像と違ったからって、何度も何度も掌を返しやがって。
俺個人の感情としては、皆の移り気に一言物申してやりたかった。
その反面、ギンを取り巻く環境としては、収まるところに収まったなと、納得できてしまった。
移り気には変わりないが、皆の態度は当初のそれに戻っただけ。
短い期間といえども、始末屋にして用心棒が、大衆からチヤホヤされる方が不自然だったのだ。
そして、本人も。
ギン自身もまた、事件をきっかけに、当初の頑なさをぶり返してしまった。
悪人ではない複数人を、有無を言わさず斬り伏せる。
用心棒になっての初仕事が、大義名分による殺戮行為。
ただでさえ殺生に敏感なあいつのことだ。さぞ忍びなかったに違いない。
ふと目をやると、激しい自己嫌悪に陥っている姿が、頻繁に見受けられるようになった。
俺は迷ったが、敢えてギンを放っておいた。
こういう時は、一人で静かに考えさせてやるのがいいと判断した。
今なら分かる。
あれは、間違った選択だった。
あの時、ギンを一人にするべきじゃなかった。
たとえ拒まれようと、上手く慰めてやれずとも、俺が傍にいてやるべきだった。
他の誰でもない、俺が。
ギンの、隣にいてやらなきゃいけなかったんだ。
「───見た?さっきの」
「ええ。まるで血が通ってないみたい」
「そういえば、昨日も一昨日も、夕食に手を付けなかったって聞いたわ」
「でも、修練場には欠かさず出入りしてるらしいわよ」
「あれでよく刀を振り回せるものね。今にも倒れてしまいそうなのに……」
「誰か差し入れでも持ってってやったら?」
「絶対無理よー。話し掛けるのだって勇気いるのに」
ギンは日に日に覇気を、生気を失っていった。
喋らず、泣かず、笑わず、走らず、眠らず。
ギンをギンたらしめるものが、割れて分かれて、拳大から砂粒大に砕けていくように。
人形さながらで、それでも確かに自我を持っていた器から、自我さえもを抜いて、正真正銘の人形になったかのように。
「───おい」
「ああ?」
「さっきから何してんだ、お前」
「何って、言わなくても分かんだろ。見物だよ、珍獣」
「なんだそりゃ。珍獣って玉月のことか?」
「他に誰がいるんだよ。
……しっかし、惜しいよなぁ。あれでもーちっと肉付きが良けりゃ、顔は文句なしなのに」
「おたくの旦那がとうとう男色に走りましたよ、って嫁さんに告げ口してやろうか?」
「へっ。そういうお前だって、玉月の御髪を大事そーに失敬してたくせによ」
「ば……。あれは掃除だ!」
不幸は続いた。
憔悴した今が好機と、弱ったギンに付け入ろうとする輩まで現れ始めた。
そういう意味でギンを狙っていたのは、なにも女衆だけではない。
隊士の中にも少なくないのだ。
穢らわしく濫りがましく、欲に塗れた暗い目で、いつもギンを眺めている輩が。
女以上の美貌であれば、男色も厭わないってことなんだろう。
あるいは、ギンのように特別な人間を手籠めにすれば、その優位性をも自分の糧にできると思うのかもしれない。
野心とは即ち、無能の表れ。
掃き溜めに与太郎が沸きやすいのは、悲しいかな道理だ。
「───ギン。おいギン!
くそっ、聞こえちゃいねえ。大丈夫かよ、あいつ」
このままでは、ギンが危ない。
事件以来、ご自慢の嗅覚は形無しだから。
行きずりの鳥や虫の気配にさえ注意を怠らなかったあいつが、背後から迫る人の足音にさえ気付けなくなってしまったから。
あげく夜には、一人ふらふらと城内を徘徊する。
そんな無防備をいつまでも晒していれば、襲ってくれと袖を引いているようなものだ。
俺は、ギンに教えてやりたかった。
敵は外だけでなく、時として内からもやって来るのだと。
以前のように警戒心を剥き出さなければ、いつ寝首を掻かれることになっても、おかしくないのだと。
そうだ。
最初はただ、教えてやるつもりだったんだ。
「───こんな簡単に敷かれるようじゃ、いくつ操あっても足りねえぞ」
ある日。
俺は私室にギンを呼び付け、油断する小さな体を、力づくで押し倒した。
本気ではない。
俺なりの忠告だった。
このままではいずれ、どこぞの輩に犯される羽目になると。
取り返しのつかない事態が起きる前に、もっと意識をしろと。
口で説明するより、体に学習させた方が早いと思ったんだ、あいつには。
「なんとか言えよ。
俺の気が短いことは、よく知ってるだろ」
俺はギンを、泣かせてやりたかった。
刀を持たないお前なんて、俺たち男の脅威じゃない。
いくら眼光が鋭くとも、身熟に長けていようとも、半端な抵抗は却って情欲を煽るだけ。
いやだと。こわいと。
喚いて怯えてほしかった。
やめてくれと。私が間違っていたと。
己の甘さを自覚してほしかった。
卑劣に負かされる恐怖と屈辱を、知ってほしかった。
正道では勝てない現実があることを、覚えてほしかったんだ。
「抵抗しないなら……。
───本気でやっちまうぞ」
これは練習。
いつかあるかもしれない実戦の時に、動じず危機を脱せるように。
お前が毎日欠かさない鍛練と同じ。
お前のためになる経験だ。
だから、ほら、言えよ、泣け、はやく。
俺がお前に、欲情してしまう前に。
「やれよ。それで、お前の気が済むなら」
恐ろしく冷えていた。
俺に言っているようで言っていない声も、俺を見ているようで見ていない瞳も。
悲しんでいない。
嘆いていない。憂いていない。
恐怖でも屈辱でも、憎悪でも絶望でもない。
諦め。
己へのすべてを拒まず、己のすべてを差し出さんとする姿。
違う。
俺はお前に、こんな顔をさせたかったんじゃない。
怯えてしまったのは、俺の方だった。
「ギ、────!」
ひるんだ俺の僅かな隙を突いて、ギンは俺の囲いを振り解いた。
呆然とする俺をよそに衿元を正したギンは、最後に一度だけこちらに振り返った。
「お前のおかげで、目が覚めたよ」
そう言って何事もなかったように部屋を出ていくギンを、俺は追い掛ける気になれなかった。
本気じゃなかった。
忠告のつもりだったんだ。
一から事情を説明すればきっと、ギンは理解してくれただろう。
俺の度を越した行いも、呆れながら赦してくれただろう。
だが、俺はそうしなかった。
できなかった。
あれから何度も、弁明の機会を窺いに行っては引き返した。
元来の男嫌いを憚らなくなったギンに、男の俺はもう近付けなかった。
皮肉なものだ。
思い描いていた展開とは違うが、結果的にはこれで、あいつに教えてやれたのだから。
もっと疑心暗鬼になればいい。
男とくれば貴賤の別なく訝るようになればいい。
お前に危険が及ぶ可能性がひとつでも減るなら、俺も有象無象のひとりでいい。
お前のために、じゃない。
俺が嫌だったから、そうしたんだ。
俺以外の誰にも、お前の体にも心にも、触れさせたくなかったから。
「("抵抗しないなら"───)」
有象無象でいい、なんて。
遜る必要なんか、ないくせに。
「(───どうするつもりだったんだ、俺は)」
ギンを押し倒したあの一瞬、魔が差したんだ。
いっそ、事実にしてしまえば。
どこぞの馬の骨に奪われるくらいなら、俺がギンを物にしてしまえば、と。
反吐が出そうだった。
一瞬でも、軽蔑していた輩と同じことを考えた自分が、卑しくて惨めでたまらなかった。
「(俺を見てくれ)」
ギンの信頼を裏切った。
あれきりギンは、二度と俺に笑いかけてくれなくなった。
本当は、今すぐにでも赦しを乞いたいのに。
有象無象になんか、なりたくないのに。
もし赦されなかったらと、怖くて躊躇って、躊躇った分が意固地になって。
だったら先延ばしにすればいいと、答えのない軽口に逃げて、核心を遠ざけてしまう。
大事にしたいのに。
誰より幸せにしたいのに。
もはや取り繕っても遅いと、開き直って捨て鉢になって、不要な悪態をついてみせて。
こんなことなら最初からと、余計にギンを怒らせて、繰り返し後悔する。
「(俺を見ないでくれ)」
なにを、やってんだ。俺は。
友情に亀裂が入った時、どうすればそれを解消できるのか、俺は知らない。
「ごめんな、ギン」
人間として真に大切なことだけを、俺はひとつも、身に付けてこなかった。
『月の船』