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現し世は桜花の化身  作者: 和達譲
;松吉編 上弦の章
56/75

;第十九話 望むところだ 2



甦るのは、俺を置いて去って行った、在りし日の父の後ろ姿。


一日たりとも、忘れたことはない。

父と母と、二葉の俺と、勝ちすぎた荷と、褪せた義と、取り戻せない空の広さ。


らしくない。

朽ちるままにさせていた過去を、なんとなく、ここで語りたくなった。




「お前の母親って、お前を産んですぐ死んじまったんだよな」


「そうだけど……。なに、急に」


「俺の母親もさ。俺が餓鬼の頃に死んだんだよ。病気で。

それからは、親父と二人で、生きてきたんだ」




母の記憶は、ほとんどない。

どんな顔で、どれほどの背丈で、どのくらい俺を愛していたか。

残念ながら、俺自身で思い出すことはできない。

昔も、今も。


代わりに父が、時おり話してくれていた。

色は赤が好きで、天麩羅を食うことに憧れていて、細い髪は櫛で梳かすと切れやすくて、小さな手は夏でも氷のように冷たかったと。

父は、そんな母の手をとって、息を吹き掛けて温めてやり、父がそれをする度に母は、なにより嬉しそうに笑っていたと。

俺が生まれてからは、今度は母が俺に、その仕草をやっていたんだと。


言葉少なで、抑揚のない声で、俺がちゃんと聞いているかを確かめもせず、まるで独り言。

母の話をする時の父は、決まってそうだった。




「どんな人、だった?親父さん」


「親らしからぬ男だったよ。

父親としての自覚が出てくる前に、母親がいなくなっちまったからな。

母親の、女房への未練が強すぎて、俺に向き合う余裕がなかったんだろ」


「酷いことされたのか?」


「いいや。いことも悪いことも、特別なことは何も。

あれはあれで、あの人なりに子育てをしようとしてたんだって。今ならまぁ、理解できなくもない」




父は武士だった。

謹厳で偏屈で、武士らしいと言えばらしい朴念仁。

まさに石部金吉を絵に描いたような人だった。


だが彼も彼なりに、俺の父親であろうと奮闘していた。

自分の取り前を減らしてでも、俺の椀に多く飯を装ったり。

俺が寝息を立てるまで、自分が読書に耽るふりで行灯を消さずにいたり。

母の話を語り聞かせてくれるのも、内のひとつだ。


とりわけ俺は、剣の稽古をつけてもらう時間が好きだった。

餓鬼相手にも容赦ないものだから、俺は泣きべそや生傷が絶えなくて、なのにやめたいとは一度も思わなかった。

無言で竹刀を打ち合う中に、言葉にならない会話がある気がして、それが俺は嬉しかった。




「ふーん。お前も、父親が師匠か」


「名のある道場に通えるほど、裕福じゃなかったからな。

お前はいいよ。身内が道場やってんだもん。強くなるわけだよ」


「教えてもらえたの、基礎の基礎だけどな」


「筋が通ってりゃ、基礎だけでも十分だろ」




武士一人、子一人。

生活ぶりは貧乏だったが、耐えられなくはなかった。

親父の朴念仁ぶりにも、口出ししたいことはあれど、口答えはしなかった。


敢えて、耐え難かった不満を挙げるとするならば。

他の餓鬼には当たり前に母親がいて、家に帰れば笑顔で待っていてくれる存在がいて、俺だけがそうじゃないこと。

拠無かったとはいえ、幼心に受け止めるには、悲しい現実だった。




「十五の時だ。

親父が戦に駆り出されることになってな。

突然だったよ。兵隊の数が足りねえってんで、近隣でそこそこ腕の立つ武士やら郎党やら、根こそぎ持って行きやがった」


「戦って、なんの?どこの戦だ?」


「わからん。

ただ、お国のために戦ってくるとだけ言い残して、親父は行っちまった。

それきり、二度と会っていない」




修羅の巷に末期を迎えたのか。

運良く拾った命を、どこぞで繋いだのか。


戦の結果も、父の消息も。

一切合切が不明のまま、俺は単身ある場所(・・・・)へと向かった。


父の言い付けがあったのだ。

もし、予定を過ぎても、父が帰ってこなかったら。

父の残した僅かな貯えを持って、俺達の暮らした家を引き払うこと。

父にとって数少ない友人を頼り、そこで厄介になること。


もう生きて会えないだろうと見越しての、あれは、遺言のつもりだったんだろう。




「友人とやらを訪ねると、俺は歓迎された。

彼は、一緒に父の帰りを待とうと、言ってくれた。それまでは自分が面倒をみると、言ってくれた。

男同士、協力しあって、やっていこうってな」




嘘だった。

男の元を訪ねて三日が過ぎても、協力・・とやらを頼まれることはなかった。

なんでもいいから仕事をくれと、俺の方が頼んでみても、そのうちにと煙に巻かれた。


ただ、食事と寝床を与えられて、一日が終わる。

これでは穀潰しも同然じゃないか。

親父に合わせる顔がなくなってしまう。

俺は次第に、不安と焦燥を募らせていった。



四日目の朝。不安が的中した。

いつも通りに起床し、辺りを見渡すと、男の姿がなかった。

それどころか、部屋に置いてあった調度品、俺の持参した貯え、金目のもの全てが忽然と消えていた。


寝ぼけた頭でも、騙されたと理解できた。

裏切られたのだ。俺も、父も。




「血眼になってそいつの行方を追ったが、結局だ。

酷い借金癖のある遊惰な野郎だったと、全部が片付いてから噂で聞いた。後の祭ってな」


「そのあと、どうしたんだ」


「テメエ一人でも生きていくために、まず働き口を探した。

餓鬼とはいえ、剣の心得くらいは既にあったし?家事なんかはお手の物ってな、お前もよく知ってるだろ?」


「心得っていうか……。

親父さんが武士だったなら、お前も武士になれば良かったんじゃないのか?」


「なれるもんならな。

武士ってのは、ああ見えて、心得だけじゃ務まらない仕事なんだよ。

元服も済ませてないような餓鬼は、以っての外だ」


「……あれ。

でも、ここでは私が初めてって、さっき───」


「間違ってないぜ?

俺は生家でも、ここでも、元服はあげてない。

もう少し丈夫になったらって、先延ばしにされてる内に、件の戦だ。

それどころじゃなくなっちまった」


「だから十五でも餓鬼、だったのか」


「武士が駄目なら家事の方で何とか、したかったけど。

そっちもな。俺が野郎の知り合いってこと、周知されちまってさ。

胡散臭いのは雇えねえって、どこへ行っても門前払いにされた」


「なんでお前まで……。借金したのはお前じゃないだろ」


「傍から見りゃ、一度でも連れ歩いた時点で同類なんだよ。

……しまいには、野郎の住んでた町家も店借りだったとかで、そこも追い出された。

絶体絶命、極まれり、だ」




大人の事情に、悪人の陰謀に、振り回されて、弄ばれて。

あるのはこの身ひとつなのに、置いてくれる当てさえない。


人の一生とはどうやら、そういうものらしい。

無慈悲で不条理で、何者かにならなければ何をも為せない。

名前を持たない俺には、誰も価値を付けてくれない。



"そうか。

これが、世の理。

こんなもんが、人生か。"



だったら自分も、同じことをするまでだ。


助けてくれないなら助けない。

守ってくれないなら守らない。

拒まれたら拒み返す。

虐められたら虐め返す。


俺が何かを為して、何者かになった暁には、お前らから名前も、価値も奪ってやる。

己の無知と無力を呪い、生き恥を晒してばかりいた当時の俺と、同じように。



"とんだ面汚しになっちまったよ、父さん。"



いつからか、人を信じなくなった。

先達に倣っているだけと言い訳して、無慈悲で不条理な世とやらに逆らわなくなった。


いつからこんな自分になってしまったのかを、いつの間にか忘れてしまった。




「各地を転々として、どうにか路銀を稼いで食い繋いで───、ってとこまでは、お前と一緒だな。

お前と違って、始末屋になる選択肢は、俺にはなかったけど」


「そりゃあ、進んでやりたいことじゃない」


「というより、向いてなかったな。

あの頃の俺なんか、今のお前と大差ないくらい痩せっぽちでさ。

信じらんねえだろ?」


「なら、親父さんと暮らした家に戻るのは?

色々あったこと話せば、情けをかけてくれる人がいたりとか」


「言ったろ。

俺と親父はずっと(・・・)貧乏だった。

情けを当てに出来るんなら、そもそも貧乏になぞなっていねえ」


「……そう、だな。

過ぎたこと、とやかく言っても、しょうがないよな」


「そんな風に思わなくていい。過ぎたから、俺も話してる」


「ここには?隊士になったのは、それから何年経ってからだ?」


「間もなくだよ。

十六になるかって頃に、いよいよ万策尽きて……。命からがら、城の門を叩いた。

腕っ節があって身寄りのないやつなら、誰でも入隊の資格を貰えるらしいって、小耳に挟んでさ。

まさに天の救いだったね」




入隊試験は即合格。

父直伝の剣術を以て、みるみるうちに出世した。

今や上様の親衛隊長だ。


俺の持つ九十九斬も、ギンに譲り渡した雷切も。

俺の変わらぬ忠誠にと、上様より賜った誉のしるし。


もっとも、臣下を飼い犬呼ばわりする上様のことだ。

本意としては、飼い主が誰か弁えておけよと、首輪のつもりで寄越したのは間違いない。




「だから多分、お前に、いつぞやの自分を重ねちまったんじゃねーかと、思う。

寄る辺を無くして、それでも必死に生きようともがいて、最後には刀一本だけで、ここまで辿り着いた。

お前に勝てなかった理由があるとすりゃ、きっとそういうことさ」




柄にもなく、身の上話なんて小っ恥ずかしい真似をしてしまった。

最も付き合いの長かった山下さんにさえ、ここまで腹を割ることはなかったのにだ。


なんだろうな、この感じは。

我ながら女々しいと呆れる反面、清々しい気分でもある。

ずっと胸に閊えていた曇りが、すーっとほどけていくような。


ひょっとしたら俺は、俺という人間を知ってもらう機会を、認めてくれる存在を、望んでいたのかもしれない。

ギンに出会ってやっと、そんな自分に気付けたのかもしれない。




「───そうか。

松吉、大変だったんだな」


「まーな。

そちらさん程じゃねーけど」


「お前が捻くれてる理由が分かった気がする」


「ば───、このやろう。言うようになったじゃねえか」



湿っぽいのは終わりにしようという矢先、なんとギンから茶化されてしまった。

俺はまた吹き出して、ギンの頬を仕返しに抓ってやった。



「うい、一丁前なのはこの口か?」


「口が何個もあるわけないだろ」



一月前の俺なら少なからず立腹していただろうが、今の俺は違う。

こいつなら、許せる。こいつになら、何をされても構わない。


だから話した。

付き合いの長さも深さも関係ない。

俺にとって、対等に渡り合える、初めての相手。

それがお前だから、お前になら、聞いてほしかったんだ。




「ま、先の勝負では俺が負けちまったけどよ。敗因が分かったからには、次はそうはいかないぜ?

お前が泣くまで徹底的にいじめてやるから、覚悟しとけ」



今度はギンの鼻先に人差し指を突き付け、宣言する。

ギンは不敵に目を細めると、珍しい笑みを零した。



「望むところだ」



その瞬間、俺の中に風が吹いた。



生まれたから生きるだけ。

配られた役目をそつなく熟して、食って寝て、また明日あすがきて。

大した夢も希望もない、歴史に名を刻むほどでもない、退屈な日々の積み重ね。


だがそれも、これからは、こいつが一緒だと思うと───。





「(こっちこそ、望むところだ)」



───うん、悪くない。






風月ふうげつ




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