;第十九話 望むところだ 2
甦るのは、俺を置いて去って行った、在りし日の父の後ろ姿。
一日たりとも、忘れたことはない。
父と母と、二葉の俺と、勝ちすぎた荷と、褪せた義と、取り戻せない空の広さ。
らしくない。
朽ちるままにさせていた過去を、なんとなく、ここで語りたくなった。
「お前の母親って、お前を産んですぐ死んじまったんだよな」
「そうだけど……。なに、急に」
「俺の母親もさ。俺が餓鬼の頃に死んだんだよ。病気で。
それからは、親父と二人で、生きてきたんだ」
母の記憶は、ほとんどない。
どんな顔で、どれほどの背丈で、どのくらい俺を愛していたか。
残念ながら、俺自身で思い出すことはできない。
昔も、今も。
代わりに父が、時おり話してくれていた。
色は赤が好きで、天麩羅を食うことに憧れていて、細い髪は櫛で梳かすと切れやすくて、小さな手は夏でも氷のように冷たかったと。
父は、そんな母の手をとって、息を吹き掛けて温めてやり、父がそれをする度に母は、なにより嬉しそうに笑っていたと。
俺が生まれてからは、今度は母が俺に、その仕草をやっていたんだと。
言葉少なで、抑揚のない声で、俺がちゃんと聞いているかを確かめもせず、まるで独り言。
母の話をする時の父は、決まってそうだった。
「どんな人、だった?親父さん」
「親らしからぬ男だったよ。
父親としての自覚が出てくる前に、母親がいなくなっちまったからな。
母親の、女房への未練が強すぎて、俺に向き合う余裕がなかったんだろ」
「酷いことされたのか?」
「いいや。良いことも悪いことも、特別なことは何も。
あれはあれで、あの人なりに子育てをしようとしてたんだって。今ならまぁ、理解できなくもない」
父は武士だった。
謹厳で偏屈で、武士らしいと言えばらしい朴念仁。
まさに石部金吉を絵に描いたような人だった。
だが彼も彼なりに、俺の父親であろうと奮闘していた。
自分の取り前を減らしてでも、俺の椀に多く飯を装ったり。
俺が寝息を立てるまで、自分が読書に耽るふりで行灯を消さずにいたり。
母の話を語り聞かせてくれるのも、内のひとつだ。
とりわけ俺は、剣の稽古をつけてもらう時間が好きだった。
餓鬼相手にも容赦ないものだから、俺は泣きべそや生傷が絶えなくて、なのにやめたいとは一度も思わなかった。
無言で竹刀を打ち合う中に、言葉にならない会話がある気がして、それが俺は嬉しかった。
「ふーん。お前も、父親が師匠か」
「名のある道場に通えるほど、裕福じゃなかったからな。
お前はいいよ。身内が道場やってんだもん。強くなるわけだよ」
「教えてもらえたの、基礎の基礎だけどな」
「筋が通ってりゃ、基礎だけでも十分だろ」
武士一人、子一人。
生活ぶりは貧乏だったが、耐えられなくはなかった。
親父の朴念仁ぶりにも、口出ししたいことはあれど、口答えはしなかった。
敢えて、耐え難かった不満を挙げるとするならば。
他の餓鬼には当たり前に母親がいて、家に帰れば笑顔で待っていてくれる存在がいて、俺だけがそうじゃないこと。
拠無かったとはいえ、幼心に受け止めるには、悲しい現実だった。
「十五の時だ。
親父が戦に駆り出されることになってな。
突然だったよ。兵隊の数が足りねえってんで、近隣でそこそこ腕の立つ武士やら郎党やら、根こそぎ持って行きやがった」
「戦って、なんの?どこの戦だ?」
「わからん。
ただ、お国のために戦ってくるとだけ言い残して、親父は行っちまった。
それきり、二度と会っていない」
修羅の巷に末期を迎えたのか。
運良く拾った命を、どこぞで繋いだのか。
戦の結果も、父の消息も。
一切合切が不明のまま、俺は単身ある場所へと向かった。
父の言い付けがあったのだ。
もし、予定を過ぎても、父が帰ってこなかったら。
父の残した僅かな貯えを持って、俺達の暮らした家を引き払うこと。
父にとって数少ない友人を頼り、そこで厄介になること。
もう生きて会えないだろうと見越しての、あれは、遺言のつもりだったんだろう。
「友人とやらを訪ねると、俺は歓迎された。
彼は、一緒に父の帰りを待とうと、言ってくれた。それまでは自分が面倒をみると、言ってくれた。
男同士、協力しあって、やっていこうってな」
嘘だった。
男の元を訪ねて三日が過ぎても、協力とやらを頼まれることはなかった。
なんでもいいから仕事をくれと、俺の方が頼んでみても、そのうちにと煙に巻かれた。
ただ、食事と寝床を与えられて、一日が終わる。
これでは穀潰しも同然じゃないか。
親父に合わせる顔がなくなってしまう。
俺は次第に、不安と焦燥を募らせていった。
四日目の朝。不安が的中した。
いつも通りに起床し、辺りを見渡すと、男の姿がなかった。
それどころか、部屋に置いてあった調度品、俺の持参した貯え、金目のもの全てが忽然と消えていた。
寝ぼけた頭でも、騙されたと理解できた。
裏切られたのだ。俺も、父も。
「血眼になってそいつの行方を追ったが、結局だ。
酷い借金癖のある遊惰な野郎だったと、全部が片付いてから噂で聞いた。後の祭ってな」
「そのあと、どうしたんだ」
「テメエ一人でも生きていくために、まず働き口を探した。
餓鬼とはいえ、剣の心得くらいは既にあったし?家事なんかはお手の物ってな、お前もよく知ってるだろ?」
「心得っていうか……。
親父さんが武士だったなら、お前も武士になれば良かったんじゃないのか?」
「なれるもんならな。
武士ってのは、ああ見えて、心得だけじゃ務まらない仕事なんだよ。
元服も済ませてないような餓鬼は、以っての外だ」
「……あれ。
でも、ここでは私が初めてって、さっき───」
「間違ってないぜ?
俺は生家でも、ここでも、元服はあげてない。
もう少し丈夫になったらって、先延ばしにされてる内に、件の戦だ。
それどころじゃなくなっちまった」
「だから十五でも餓鬼、だったのか」
「武士が駄目なら家事の方で何とか、したかったけど。
そっちもな。俺が野郎の知り合いってこと、周知されちまってさ。
胡散臭いのは雇えねえって、どこへ行っても門前払いにされた」
「なんでお前まで……。借金したのはお前じゃないだろ」
「傍から見りゃ、一度でも連れ歩いた時点で同類なんだよ。
……しまいには、野郎の住んでた町家も店借りだったとかで、そこも追い出された。
絶体絶命、極まれり、だ」
大人の事情に、悪人の陰謀に、振り回されて、弄ばれて。
あるのはこの身ひとつなのに、置いてくれる当てさえない。
人の一生とはどうやら、そういうものらしい。
無慈悲で不条理で、何者かにならなければ何をも為せない。
名前を持たない俺には、誰も価値を付けてくれない。
"そうか。
これが、世の理。
こんなもんが、人生か。"
だったら自分も、同じことをするまでだ。
助けてくれないなら助けない。
守ってくれないなら守らない。
拒まれたら拒み返す。
虐められたら虐め返す。
俺が何かを為して、何者かになった暁には、お前らから名前も、価値も奪ってやる。
己の無知と無力を呪い、生き恥を晒してばかりいた当時の俺と、同じように。
"とんだ面汚しになっちまったよ、父さん。"
いつからか、人を信じなくなった。
先達に倣っているだけと言い訳して、無慈悲で不条理な世とやらに逆らわなくなった。
いつからこんな自分になってしまったのかを、いつの間にか忘れてしまった。
「各地を転々として、どうにか路銀を稼いで食い繋いで───、ってとこまでは、お前と一緒だな。
お前と違って、始末屋になる選択肢は、俺にはなかったけど」
「そりゃあ、進んでやりたいことじゃない」
「というより、向いてなかったな。
あの頃の俺なんか、今のお前と大差ないくらい痩せっぽちでさ。
信じらんねえだろ?」
「なら、親父さんと暮らした家に戻るのは?
色々あったこと話せば、情けをかけてくれる人がいたりとか」
「言ったろ。
俺と親父はずっと貧乏だった。
情けを当てに出来るんなら、そもそも貧乏になぞなっていねえ」
「……そう、だな。
過ぎたこと、とやかく言っても、しょうがないよな」
「そんな風に思わなくていい。過ぎたから、俺も話してる」
「ここには?隊士になったのは、それから何年経ってからだ?」
「間もなくだよ。
十六になるかって頃に、いよいよ万策尽きて……。命からがら、城の門を叩いた。
腕っ節があって身寄りのないやつなら、誰でも入隊の資格を貰えるらしいって、小耳に挟んでさ。
まさに天の救いだったね」
入隊試験は即合格。
父直伝の剣術を以て、みるみるうちに出世した。
今や上様の親衛隊長だ。
俺の持つ九十九斬も、ギンに譲り渡した雷切も。
俺の変わらぬ忠誠にと、上様より賜った誉のしるし。
もっとも、臣下を飼い犬呼ばわりする上様のことだ。
本意としては、飼い主が誰か弁えておけよと、首輪のつもりで寄越したのは間違いない。
「だから多分、お前に、いつぞやの自分を重ねちまったんじゃねーかと、思う。
寄る辺を無くして、それでも必死に生きようともがいて、最後には刀一本だけで、ここまで辿り着いた。
お前に勝てなかった理由があるとすりゃ、きっとそういうことさ」
柄にもなく、身の上話なんて小っ恥ずかしい真似をしてしまった。
最も付き合いの長かった山下さんにさえ、ここまで腹を割ることはなかったのにだ。
なんだろうな、この感じは。
我ながら女々しいと呆れる反面、清々しい気分でもある。
ずっと胸に閊えていた曇りが、すーっと解けていくような。
ひょっとしたら俺は、俺という人間を知ってもらう機会を、認めてくれる存在を、望んでいたのかもしれない。
ギンに出会ってやっと、そんな自分に気付けたのかもしれない。
「───そうか。
松吉、大変だったんだな」
「まーな。
そちらさん程じゃねーけど」
「お前が捻くれてる理由が分かった気がする」
「ば───、このやろう。言うようになったじゃねえか」
湿っぽいのは終わりにしようという矢先、なんとギンから茶化されてしまった。
俺はまた吹き出して、ギンの頬を仕返しに抓ってやった。
「うい、一丁前なのはこの口か?」
「口が何個もあるわけないだろ」
一月前の俺なら少なからず立腹していただろうが、今の俺は違う。
こいつなら、許せる。こいつになら、何をされても構わない。
だから話した。
付き合いの長さも深さも関係ない。
俺にとって、対等に渡り合える、初めての相手。
それがお前だから、お前になら、聞いてほしかったんだ。
「ま、先の勝負では俺が負けちまったけどよ。敗因が分かったからには、次はそうはいかないぜ?
お前が泣くまで徹底的にいじめてやるから、覚悟しとけ」
今度はギンの鼻先に人差し指を突き付け、宣言する。
ギンは不敵に目を細めると、珍しい笑みを零した。
「望むところだ」
その瞬間、俺の中に風が吹いた。
生まれたから生きるだけ。
配られた役目をそつなく熟して、食って寝て、また明日がきて。
大した夢も希望もない、歴史に名を刻むほどでもない、退屈な日々の積み重ね。
だがそれも、これからは、こいつが一緒だと思うと───。
「(こっちこそ、望むところだ)」
───うん、悪くない。
『風月』