;第十九話 望むところだ
夏の終わり。
いつぞやにギンと一騎打ちをした中庭で、俺は夜風に当たっていた。
天を仰げば、白い月が浮かんでいる。
耳を澄ませば、鈴虫の声が聞こえてくる。
心地好い静寂。
むさ苦しい野郎共の喧騒はない。
既に床に就いた者、広間や私室で晩酌に興ずる者。
多くの者が領分に籠もり、銘々に夜を跨ごうという中で、ひとり。
俺だけが夜ごと、帳を惜しんでしまう。
日の出に望みや喜びを見出したことがないから。
こうして静かに息をできるなら一生、夜でいいと思うくらいだ。
「───来たな」
ぽつりと湧いた気配。
首だけでそちらを向くと、俺の呼び付けに応じたギンがいた。
こいつはそういう風に現れるものと知ってからは、突として背後に立たれても驚かなくなった。
お前いつの間にそこに、さっきからいたけど、なんてやり取りは、もはや慣れっこだ。
「座れよ」
「いいのか?そこ」
「なにが?」
「まえ、上様が座ってたとこだろ」
隣に来るよう促すと、ギンは遠慮した。
ギンの言う通り、ここは一騎打ちの際に上様が座しておられた位置である。
「ああ、あン時のか。
別に指定のってわけじゃねんだ、気にすんな。
ここからが一番、見晴らしがいいからよ」
ふーん、と興味なさげに呟いたギンは、俺の右隣に膝を立てて座った。
いつにも増して強い桜が香る。
風呂を上がって間もないようだ。
他に誰もいなくて良かった。
「なんで、こんなとこに呼び付けたんだ?
話があるなら、部屋の方が良かったんじゃないのか」
「ゆっくり出来んならな。
けどあいにく、今夜ばかしはそうもいかねえ。
よりにもよって、隣の部屋のやつが宴会始めやがってさ。
こないだの件で昇進した祝いにって、お前も聞いたろ?」
「ああ……。
鳥みたいな声で喋るやつ?」
「そいつ。
だから今夜は、こっちで正解なんだ。
夜風で涼むにも、開けてる方が丁度いい」
「いいけど、誰か通ったら面倒くさいな」
「通らねえさ。ほとんど寝てる。
宴会の奴らだって、厠立つにしても、わざわざ遠回りしねえだろ」
「確かに」
先程の俺のように、ギンも天を仰いだ。
白い月に照らされて、ギンの横顔が暗がりに浮かぶ。
「───お前がウチに来てからさ」
「うん?」
「一月になるわけだろ?だいたい」
「そんなになるのか」
「覚えてないのか」
「数えるの忘れた」
「まあ、順応するのが先だったしな。
で、どうよ?その順応には至ったのか?」
「だいぶ。
明日、私室ももらえることになった」
「やっとか!決まってからが長かったな」
「寝る場所なんて私はどこでもいいが」
「お前が良くても周りがな。
俺らの近くで寝起きするってことは、そのぶん接触だの、遭遇だのする機会も増えるってことだ。
ボロ出すなよ、色々と」
「わかってる。いつも通り」
ギンが城へやって来て、およそ一月。
月の満ち欠けが一周した本日を以て、俺はギンの教育係じゃなくなった。
これからは、ただの先輩後輩。
ともに切磋琢磨して、城に上様に、奉公していく身分となる。
「他は?なんか変わったこと」
「名前」
「名前?なんの」
「私の、名前」
「おおー、それもやっとだな」
「姓の方はまだらしいけど、明日からはその、新しく付けた名前で通せって、上様が」
「ほーん……。
お前にはそれで元服、ってことにするつもりなんかねぇ」
「元服ってなに?」
「慣例だよ慣例。
大人の仲間入りをしますって宣言───、儀式?
ってほど、大層なモンじゃねえけど」
「どんなことするんだ?」
「やんごとないお家じゃ、それこそ幼名を改めてってのも普通らしいが……。
庶民はもっぱら、ここ。月代剃って終いだよ」
「上様みたいな?」
「そうそう。側近連中も、ここだけ無いだろ?」
「お前は?」
「俺?」
「隊士のやつらも、勝手に禿げてるのはいるけど、剃ってるやつ、あんまりいないぞ」
「あれは、手入れしてねえだけで、元服の時にはちゃんと剃ったんだよ。
側近連中と違って、並の隊士は、上様に直接侍ったりしねえからな。
むしろ、上様より身綺麗にしてた方が注意されるくらいだ」
「私も、こんど剃るのかな」
「まさか。
お前が男としてやっていくため、お前の月代を死守するため。
この矛盾を両立させるために、上様は名前を与えることに拘ったはずだ」
「私だけそんなだと、却って疑われないか?」
「ウチで元服じたいが初なんだ。
お前だけ剃らねえってなっても、ここじゃそういうやり方なのかって、誰も気に留めねえさ」
「初……。そうか」
料理、洗濯、繕い物。
基本的な読み書きに、最低限の礼儀作法。
課題は山とあったが、見掛けの割にギンが聡かったおかげで、さほど苦には感じなかった。
煩わしい時もままあれど、その煩わしさも無用になるかと思うと、まったく寂しくなくはない。
「にしても、姓までとは恐れ入った。
上様はつくづく、お前を気に入ったらしい」
「知らない。どうでもいい」
「……その様子だと、さぞ可憐な音を賜ったのかなァ?
"チヨ"か?"ウメ"か?はたまた───」
「"サイゾウ"」
「あ?」
「サイゾウ。
才気の才に、宝蔵の蔵で、"才蔵"だ」
「才蔵……。
って、俺の覚えが間違いでなけりゃ、お前とは───」
「そこまで考えてなかったって。
なんとなく好きな字を当てたらそうなったって」
「へえー……。
グフッ、んふ、ふふふふふ」
「………。」
「いや〜、そうか〜。こりゃまた立派な、なあ〜。男らしい名前をなぁ〜。
ング、あの、そうだな。今からでも、名乗る練習しといた方がいいんじゃねえか?
ただでさえ、女子供が寄ってきやすいタチなんだ、ほら。
"そこなお兄さんや、お名前、なんと仰るので"?」
からかいついでに、ギンの肩を肘で小突いてやる。
ギンは相変わらず表情に乏しいながらも、以前よりずっと穏やかな調子で返した。
「茶化すなよ。名前も部屋も、本当にどうでもいいんだよ。
ここで生きていく上で必要だというなら、私は受け入れるだけさ」
まさか笑みを湛えて、軽口まで叩き合えるようになるとは。
一月前の俺に教えても、そんな未来は信じないだろうな。
「───それで?」
「あ?」
「わざわざ人目につかない場所に呼び付けたってことは、なにか特別な話があったんだろ?
いいのか?特別な話、しなくて」
ギンが神妙に改める。
開口一番に問い詰めなかったところや、いわゆる雑談に付き合ってくれたところからも、こいつの成長ぶりが窺える。
「あー……。まあ、その。なんだ。
一応?正式な用心棒として認められたわけだし。合格祝い、みたいなもんも兼ねて。
───これを、お前に」
用意しておいた脇差をギンの前で掲げ、僅かに抜いてみせる。
柄も、鍔も、鞘も、刃も。
その全てを黒で塗り込めた姿は、俺の持つ太刀・九十九斬とよく似ている。
縮小版と言ってもいい。
「これ、松吉のじゃないのか」
「そうだな。
昨日までは、俺のものだった」
刃を仕舞い、左手一本で鞘を持ち直す。
「名を"雷切"という。
落雷が如く連撃を振るえる、ってのが謳い文句だそうだ」
今度は手首の力だけで雷切を横に投げ、すかさず右手で捕まえた。
「実際、俺の知るどの刀より軽く、扱いやすい。お前の細腕にも、容易に馴染むだろう。
今日からお前が、こいつの主人になるんだよ」
「……なぜ?」
ギンの眉間に皺が寄る。
無理もない。見返りなしに金品を贈られる経験など、こいつには皆無のはずだから。
「お前、持ってんのあの打刀だけだろ?朧、とかいったか。
帯刀が一本だけじゃ心許ない場面もあるし、武器は多いに越したことはない。
あと、朧の白と雷切の黒とで、見栄えもいい」
「受け取る理由がない。
それに、私がこれを貰ったら、松吉の分が───」
「いいんだよ。
俺は太刀と脇差と短刀とで、まだ三本ある。
遠慮せず、ん。受け取れよ」
俺が雷切を差し出しても、ギンは戸惑うばかりだった。
最後には半ば押し付ける形で、無理やり受け取らせた。
「よし。
これで、このあいだの件は清算したってことで」
「このあいだ?」
「だから、あー。上様と揉めてた時に、さ。仲裁して納めてくれたろ。
そういや、そん時の礼を、まだ言ってなかったと思ってな。その───」
ギンに間近で見詰められる。
居た堪れなくなった俺は、言い終える前に顔を背けた。
「………たすかった」
今なら分かる。
良くも悪くも、ギンは素直な性分なんだ。
道理にもとると見做したならば立ち向かい、一理あると見做したならば聞き入れる。
生意気そうなだけで、事実そうではない。
本人としては、片意地を張るつもりなどないということを。
俺が相手だと、それが顕著だ。
警戒されていた当初は、何かと訝しんだり、嫌がったりが多かった。
打ち解けた今となっては、何かにつけて褒めたり、敬ったりが増えた。
松吉はすごい、松吉はえらい。
松吉が決めたことなら、間違いないんだろうと。
よほどの都合がない限り、俺の意に沿うようになった。
少しは信頼してくれた、のはいい。
称賛や尊敬を受けるのも、悪い気はしない。
ただこいつの場合、臆面がなさ過ぎるのだ。
真っすぐな視線も、含みのない言動も、敵意より好意の伴っている方が、却って困惑させられる。
小憎らしかった頃と比べると、余計に可愛くてしょうがなくなって、困る。
「別に、礼を言われるほどじゃない」
「ケッ、可愛げのねえこと。
こういう時はとりあえず、"どういたしまして"、とでも言っておけばいいんだよ」
俺がやれやれと肩を竦めると、ギンはおずおずと唇を尖らせた。
「どう、い、たしま、して?」
酷く不慣れな口ぶりに、俺は吹き出した。
悲嘆も絶望も数えきれない苦労人のくせに。
未だにこんな初心な反応をするのだから、あどけないにも程がある。
「───私からも、ひとついいか」
雷切を膝に載せたギンが、おもむろに切り出した。
なんだよと返すと、ギンは中庭を眺めながら話し始めた。
「あの時、なんで手加減した」
「は……、手加減?」
「そうだ。ここで私と戦った時、松吉は全力で来なかった。どうしてだ」
"あの時"。"戦った時"。一騎打ちの件か。
だが俺は、ギンいわく手加減をした覚えがない。
本気でやり合って、そして負けた。
俺よりギンの方が強いと、あの場で決着したはずだ。
「手加減なんかしちゃいねえよ。あのとき俺は本気だった。なんで今更そう思うんだよ?」
「今更じゃない。ずっと気になってた。
たくさんの使い手を見てきたから、よく分かる。私より、お前の方が強い。
なのにお前が負けて、私が勝った。それはお前が手加減していたからだ」
「おいおい、買い被りってもんだぜ。俺は確かに本気でお前と───」
「本気と全力は違う」
ギンがこちらに振り向く。
前のめりな勢いに、俺は後ずさりしそうになった。
「小手先では私が優っていても、もともとの力強さやしぶとさは、お前に遠く及ばない。
だから、私はお前に傷を付けることは出来ても、膝を突かせることは出来ない。
そうなる前に、私が倒れてしまう」
そう言うとギンは、雷切の鞘を両手で握り締めた。
「最初から全力で来られていたら、きっと勝てなかった。
あれが試験ではなく、戦場であったなら、私は死んでいた」
全力じゃなかった。
思い返してみても、やはり思い当たる節はないと断言できる。
反対に、ギンも断言している。
流れるようにすらすらと、自分の頭で考えて、自分の言葉を使って。
もしかしたら、俺に自覚がないだけで、素振りくらいはあったのかもしれない。
侮ってはいなかった。
油断大敵と、策も練って臨んだ。
有り得るとすれば、本能的なものだ。
たとえば、直前になって打ちのめすのを躊躇った、とか。
それはこいつが女だからか、子供だからか。
いずれにせよ、俺もまだまだ未熟というわけだ。
ああしろこうしろと人に指図しておきながら、俺自身が成っていなかった。
情けない話だ。
「ハ、参ったねこりゃ。
そんなつもりはなかったはずだが……。
お前にそこまで言われるってことは、無実でもなかったんだろう」
「あのとき勝ってれば、今よりもっと偉くなれたんだろ?私に負けていいことない」
「さてね。
俺だって今知ったんだ。分からねえよ、ンなこと」
埒が明かないと悟ったのか、ギンは項垂れた。
「私も、分からないよ。
松吉が、本当はどういう人間なのか」
わからない。
俺だって、俺がわからない。
血で血を洗ってきた。
斬ることも踏み付けることも厭わなかった。
対するのが人であろうと獣であろうと、戦場であろうと稽古場であろうと、迷いが生じたことはなかった。
自分が死ぬか、相手が死ぬか。
相手が死ねば、自分は生きられる。
瀬戸際に命の尊さを計る余裕はなかった。
常に必死だった。
生きるために、命をかけてきた。
ただの試験。ただの力比べ。
殺生の絡まない、たかだか木刀で打ち合うだけの、所詮は見世物。
なのに負けちまったのか、俺は。
殺生は絡まないのだからと、徹底して叩くのではなく。
所詮は見世物に過ぎない勝負でも、痛い目に遭わせたくない気持ちが勝ってしまったのか。
どうしてなのかは、たぶん、しばらくは定かにならないだろうが。
今までにない何かがギンにはあって、俺が持ち合わせていなかった何かをギンが持ってきた。
俺にとってギンが、他の誰にも替えが利かない存在になりつつあるのは、すでに。