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現し世は桜花の化身  作者: 和達譲
;松吉編 上弦の章
54/75

;第十八話 蛇と鷹 2



「(───殴られない……?)」



ところが、身構えた痛みは襲ってこなかった。

空を切るような気配は一瞬したものの、それだけ。


既に二発も食らったうえ、いつでもどうぞと御膳立てまでしてやっているのに。

今更になって、何をまごついてやがんだ。



「(これだから、喧嘩慣れしてない坊っちゃんは。

やるならさっさとやれってんだ)」



不審に思い、右の瞼だけを薄く開けてみる。


そこには上様と、上様以外の第三者の姿があった。

こちらに背を向けた第三者は、高々と掲げられた上様の腕を掴み、勢いを殺しているようだった。



「(こいつ、いつの間に)」



先程の空を切る気配は、上様が空振りをしたためではなく、ましてや殴ること自体を躊躇ったためでもなく。

どこからともなく、第三者が現れた際のものだったらしい。


こうも目と鼻の先にいて、実際に瞼を開けるまで気付かなかったとは。

投げやりに感情を手放したせいで、最低限の注意力まで散漫になってしまったのかもしれない。



ゆっくりと視線を上げ、第三者の全身を視界に収めていく。


上様より細い腰、上様より薄い背中。

俺と同じ黒装束と、俺と違って艷やかな黒髪。



「(まさか)」



まさか、こいつは。

はっとした瞬間、桜に似た香りが脳天を突き抜けた。




「な、───にを、しているんだ。ギンコ。この手を離しなさい」


「嫌です」


「ギンコ。これは松吉への仕置きであって、そなたには関わりのない───」


「松吉に仕置きなんか必要ない。あなたは勘違いをしている」




ギンだった。

ギンが俺を庇うようにして、上様の前に立ちはだかっていた。


発する声には、微かな怒気が篭もっている。

珍しく情動しているだろうことが、後ろ姿にも分かる。



「(なんで、おまえ)」



なぜ、こいつが此処にいるのか。

俺に代わって、上様とやり合っているのか。


経緯も理由も定かでないが、俺を殴ろうとしていた上様を、すんでのところで止めてくれたのは間違いない。

現に俺は、三発目の殴打を食らっていない。


一体こいつは、ギンはどんな顔をして、上様と向き合っているのか。

確認できないのが口惜しいが、上様の戦きっぷりからして、想像には難くない。




「あの時、あの人は本当に足を痛めていた。傍から見ても、上手に歩けていなかった。

だから、松吉はそれを助けた。

人助けはいことだ。松吉はなにも悪くない」


「しかしだな、ギンコよ。

殿の側妻そばめに、その手下が気安く触れるなどとは、決してあってはならんことなのだ」


「だったら、私も一緒だ。

松吉がやらなかったら、私があの人を運んだ。松吉が悪いなら、私も同じくらい悪い。

だから、私のことをぶてばいい。

あなたの気が済むまで、松吉の代わりに私がぶたれてやる」




口調が拙い分、却って気迫が増す。

庇われる俺ですら息を呑むのだから、睨まれた上様にしてみれば尚更だ。


きっと、痩せぎすな体とは信じられない力なんだろう。

上様が必死に振り払おうとするのに対し、ギンはびくとも動かない。

むしろ、もがけばもがくだけ、上様が(・・・)疲弊していく。




「く、───ッ。

……ああ、分かった。分かった、ギンコ。

分かったから、もう離しておくれ。とうて適わん」



やがて上様は、うなだれた声で観念した。

ギンは少し考えてから、上様の腕を離してやった。



「いいだろう。興が醒めた。

此度の件は、ギンコに免じて不問とする」



いつの間に落としたのか、例の扇子を拾いながら上様は溜め息を吐いた。

ギンに掴まれていた手首には、ギンの指の形そのままに、赤紫の跡が残っている。



「いいのか?ぶたなくても」



そんな上様を労る素振りもなく、ギンは首を傾げた。



「もうよい。

お前に音を上げさせるとなると、先に私の骨が折れそうだからな。

───が、松吉よ」



いくぶん冷静さを取り戻した上様が、不意にこちらに振り返る。

俺は慌てて背筋を伸ばし、返事をした。




「ギンコの扶けがなければ、私も情けをかけなかった。分かるな?」


「はい」


「お前の実力は、誰より私が知っている。信用もしている。分かるな?」


「はい」


「分かるならば……。

殿の期待を裏切るようなこと、──いかなる理由があろうとも、二度とあってくれるなよ」


「……はい。

今後とも、変わらぬ忠誠を」



最後に衿元を正すと、上様は不機嫌そうに足音を立てて去っていった。

残されたのは、頬に真っ赤な手形をつけた俺と、すっかり大人しくなったギンの二人だけ。




「(気まずい)」



上様はいない。

他の第三者も近くにはいない。

もはや形式ばる必要も、ここに長居する必要もない。


だから、なんだ。どうしろってんだ。

あんなことがあった後で、気の利いた洒落なんぞ出てくるか。

それともなんだ。感謝しろってか。かたじけないって言えってか。

俺が。こいつに。



「(こいつも一緒に出てってくれりゃ良かったのに)」



居た堪れないはずなのに、手も足も口も動かない。

仕切り直しての挙動をどうするべきか、考える時間ばかりが過ぎていく。


するとギンの方から、俺に話しかけてきた。




「ひどい顔だ。気の強い女に振られたみたい」



ギンの指が、未だ熱の引かない頬に触れる。

その手付きは酷く優しく、俺の痛みを案じてくれているのが伝わった。



「ほっとけ。

ンなことより、なんでお前、こんなとこいんだよ。

上様に用があったのか?」



俺が顔を背けると、ギンも指を引っ込めた。



「ない」


「じゃあなんで」


「松吉が、ここに向かっているのが見えたから、付いてきた」


「は……、なんで」


「昨日の。私以外にも、見ていたやつがいた。

だから、良くない予感がしたんだ」




"昨日の"とは恐らく、あれ(・・)だ。

俺が菖蒲吹姫を縁の間まで送り届けた件を指している。


上様に密告した奴だけじゃなく、こいつにも、あの場面を目撃されていたのか。

念入りに注意したつもりだったんだが、俺も存外、詰めが甘い。




「にしたって、なにも首突っ込むこたねえだろ。

下手すりゃお前まで、とばっちり食ったかもしれないんだぞ」




上の人間に、俺に指示されたこと以外は、殆どやらないくせに。

こんな時に限って、自分から首突っ込んで、引っ掻き回して。


昨日の今日だぞ。

軽蔑されて嫌われて、避けられるようになってもおかしくないって、諦めてたんだぞ。


上様に逆らうのが、どれほど危険なことか、お前も分かってただろ。

身を呈してまで庇うほどの価値は、俺にないことを、お前も分かってるだろ。




「松吉、いろいろ教えてくれた」


「は?」


「わからないこと、いろいろ教えてくれた。

あと、私の怪我、手当てしてくれた」


「……だから、その御返しにってか?」


「そうだけど、そうじゃない。

返すとかじゃなくて、ただ、松吉がぶたれてるの見てたら、なんか、腹立ってきた。

それで、気付いたら体が勝手に……」



おや、とでも言いたげに、ギンはまた首を傾げた。

どうしてそうしたのか、本人としても自覚がないらしい。


理屈でも義理でもなく、とっさに俺を扶けた。

俺が傷付けられるのが、嫌だったから。



「(ああ、くそ)」



散りかけた熱が、再び顔に集まっていくのを感じる。

ギンの真っすぐな眼差しが、急に恥ずかしいものに変わる。




「参るわ、ほんと」



俺は蛇、お前は鷹。

その翼ごと抱き締めてやるには、俺は何者になればいい。






朧月おぼろづき




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