;第十八話 蛇と鷹 2
「(───殴られない……?)」
ところが、身構えた痛みは襲ってこなかった。
空を切るような気配は一瞬したものの、それだけ。
既に二発も食らったうえ、いつでもどうぞと御膳立てまでしてやっているのに。
今更になって、何をまごついてやがんだ。
「(これだから、喧嘩慣れしてない坊っちゃんは。
やるならさっさとやれってんだ)」
不審に思い、右の瞼だけを薄く開けてみる。
そこには上様と、上様以外の第三者の姿があった。
こちらに背を向けた第三者は、高々と掲げられた上様の腕を掴み、勢いを殺しているようだった。
「(こいつ、いつの間に)」
先程の空を切る気配は、上様が空振りをしたためではなく、ましてや殴ること自体を躊躇ったためでもなく。
どこからともなく、第三者が現れた際のものだったらしい。
こうも目と鼻の先にいて、実際に瞼を開けるまで気付かなかったとは。
投げやりに感情を手放したせいで、最低限の注意力まで散漫になってしまったのかもしれない。
ゆっくりと視線を上げ、第三者の全身を視界に収めていく。
上様より細い腰、上様より薄い背中。
俺と同じ黒装束と、俺と違って艷やかな黒髪。
「(まさか)」
まさか、こいつは。
はっとした瞬間、桜に似た香りが脳天を突き抜けた。
「な、───にを、しているんだ。ギンコ。この手を離しなさい」
「嫌です」
「ギンコ。これは松吉への仕置きであって、そなたには関わりのない───」
「松吉に仕置きなんか必要ない。あなたは勘違いをしている」
ギンだった。
ギンが俺を庇うようにして、上様の前に立ちはだかっていた。
発する声には、微かな怒気が篭もっている。
珍しく情動しているだろうことが、後ろ姿にも分かる。
「(なんで、おまえ)」
なぜ、こいつが此処にいるのか。
俺に代わって、上様とやり合っているのか。
経緯も理由も定かでないが、俺を殴ろうとしていた上様を、すんでのところで止めてくれたのは間違いない。
現に俺は、三発目の殴打を食らっていない。
一体こいつは、ギンはどんな顔をして、上様と向き合っているのか。
確認できないのが口惜しいが、上様の戦きっぷりからして、想像には難くない。
「あの時、あの人は本当に足を痛めていた。傍から見ても、上手に歩けていなかった。
だから、松吉はそれを助けた。
人助けは良いことだ。松吉はなにも悪くない」
「しかしだな、ギンコよ。
殿の側妻に、その手下が気安く触れるなどとは、決してあってはならんことなのだ」
「だったら、私も一緒だ。
松吉がやらなかったら、私があの人を運んだ。松吉が悪いなら、私も同じくらい悪い。
だから、私のことをぶてばいい。
あなたの気が済むまで、松吉の代わりに私がぶたれてやる」
口調が拙い分、却って気迫が増す。
庇われる俺ですら息を呑むのだから、睨まれた上様にしてみれば尚更だ。
きっと、痩せぎすな体とは信じられない力なんだろう。
上様が必死に振り払おうとするのに対し、ギンはびくとも動かない。
むしろ、もがけばもがくだけ、上様が疲弊していく。
「く、───ッ。
……ああ、分かった。分かった、ギンコ。
分かったから、もう離しておくれ。痛とうて適わん」
やがて上様は、うなだれた声で観念した。
ギンは少し考えてから、上様の腕を離してやった。
「いいだろう。興が醒めた。
此度の件は、ギンコに免じて不問とする」
いつの間に落としたのか、例の扇子を拾いながら上様は溜め息を吐いた。
ギンに掴まれていた手首には、ギンの指の形そのままに、赤紫の跡が残っている。
「いいのか?ぶたなくても」
そんな上様を労る素振りもなく、ギンは首を傾げた。
「もうよい。
お前に音を上げさせるとなると、先に私の骨が折れそうだからな。
───が、松吉よ」
いくぶん冷静さを取り戻した上様が、不意にこちらに振り返る。
俺は慌てて背筋を伸ばし、返事をした。
「ギンコの扶けがなければ、私も情けをかけなかった。分かるな?」
「はい」
「お前の実力は、誰より私が知っている。信用もしている。分かるな?」
「はい」
「分かるならば……。
殿の期待を裏切るようなこと、──いかなる理由があろうとも、二度とあってくれるなよ」
「……はい。
今後とも、変わらぬ忠誠を」
最後に衿元を正すと、上様は不機嫌そうに足音を立てて去っていった。
残されたのは、頬に真っ赤な手形をつけた俺と、すっかり大人しくなったギンの二人だけ。
「(気まずい)」
上様はいない。
他の第三者も近くにはいない。
もはや形式ばる必要も、ここに長居する必要もない。
だから、なんだ。どうしろってんだ。
あんなことがあった後で、気の利いた洒落なんぞ出てくるか。
それともなんだ。感謝しろってか。かたじけないって言えってか。
俺が。こいつに。
「(こいつも一緒に出てってくれりゃ良かったのに)」
居た堪れないはずなのに、手も足も口も動かない。
仕切り直しての挙動をどうするべきか、考える時間ばかりが過ぎていく。
するとギンの方から、俺に話しかけてきた。
「ひどい顔だ。気の強い女に振られたみたい」
ギンの指が、未だ熱の引かない頬に触れる。
その手付きは酷く優しく、俺の痛みを案じてくれているのが伝わった。
「ほっとけ。
ンなことより、なんでお前、こんなとこいんだよ。
上様に用があったのか?」
俺が顔を背けると、ギンも指を引っ込めた。
「ない」
「じゃあなんで」
「松吉が、ここに向かっているのが見えたから、付いてきた」
「は……、なんで」
「昨日の。私以外にも、見ていたやつがいた。
だから、良くない予感がしたんだ」
"昨日の"とは恐らく、あれだ。
俺が菖蒲吹姫を縁の間まで送り届けた件を指している。
上様に密告した奴だけじゃなく、こいつにも、あの場面を目撃されていたのか。
念入りに注意したつもりだったんだが、俺も存外、詰めが甘い。
「にしたって、なにも首突っ込むこたねえだろ。
下手すりゃお前まで、とばっちり食ったかもしれないんだぞ」
上の人間に、俺に指示されたこと以外は、殆どやらないくせに。
こんな時に限って、自分から首突っ込んで、引っ掻き回して。
昨日の今日だぞ。
軽蔑されて嫌われて、避けられるようになってもおかしくないって、諦めてたんだぞ。
上様に逆らうのが、どれほど危険なことか、お前も分かってただろ。
身を呈してまで庇うほどの価値は、俺にないことを、お前も分かってるだろ。
「松吉、いろいろ教えてくれた」
「は?」
「わからないこと、いろいろ教えてくれた。
あと、私の怪我、手当てしてくれた」
「……だから、その御返しにってか?」
「そうだけど、そうじゃない。
返すとかじゃなくて、ただ、松吉がぶたれてるの見てたら、なんか、腹立ってきた。
それで、気付いたら体が勝手に……」
おや、とでも言いたげに、ギンはまた首を傾げた。
どうしてそうしたのか、本人としても自覚がないらしい。
理屈でも義理でもなく、とっさに俺を扶けた。
俺が傷付けられるのが、嫌だったから。
「(ああ、くそ)」
散りかけた熱が、再び顔に集まっていくのを感じる。
ギンの真っすぐな眼差しが、急に恥ずかしいものに変わる。
「参るわ、ほんと」
俺は蛇、お前は鷹。
その翼ごと抱き締めてやるには、俺は何者になればいい。
『朧月』