;第十八話 蛇と鷹
翌日。
正午を過ぎてから謁見の間へと向かった俺は、昨夜の出来事を上様に報告した。
山下さんの突然の返り忠。
そして、山下さん擁する一部の反乱分子が、攻城を企てている可能性について。
掻い摘んで説明すると、上様は渋い顔をしながらも承知してくれた。
本当なら、そもそもの発端である"神崎さん"とやらの名前も挙げるべきかもしれない。
だが俺は、あくまで山下さんと、山下さんを抱き込む某の策略とした。
神崎さんの名前を挙げれば自ずと、神崎さんの娘である菖蒲姫にも、火の粉が及ぶと考えたからだ。
上様も上様で、一から十までの詳細は求めなかった。
"たとえ火にくべようとも、あの男は絶対に泥を吐かなかっただろう"。
あの上様をしてそう言わしめるほど、悲しいかな、山下さんは惜しい人物だったというわけだ。
「───委細、承知した。大義であったな」
ひとまずの責務は全うした。
握り締めていた拳を緩め、音なく安堵の息をつく。
しかし、先程からどうにも、妙だ。
なにか違う。なにかが足りない気がする。
上様の反応が、やけに薄いような。
仮にも、臣下に寝首をかかれたのだ。
気性の荒いこの人なら、もっと激昂しておかしくない。
なのに、随分あっさり受け入れた。
深慮あってのことなのか、いつものように高を括っているだけか。
なんにせよ、尋常でないのは明らかだ。
「報告は以上となります。
自分は勤めに戻りますゆえ、これにて失礼を───」
触らぬ神に祟りなし。
用が済んだら立ち去るに限る。
頭を下げて退こうとすると、同時に待ったを掛けられた。
くそ。いよいよ冠を曲げる前に、と思ったのに。
座布団に座り直し、上様の次の言葉を待つ。
「時に、松吉よ。
おぬし、なにか私に、言い倦ねていることがないか?」
「……?いいえ。上様のお耳に入れるべきは既に───」
「件の反乱のことではない」
抑揚のない声で遮った上様は、おもむろに座椅子から立ち上がった。
閉じた扇子を掌に打ちながら、摺り足でこちらへ近付いてくる。
「おぬし」
俺の目の前で立ち止まった上様は、扇子の先で俺の顎を持ち上げた。
俺を見下ろす眼差しは、まるで米びつを荒らす鼠に対するかのようだった。
「よもや、私の女に手を付けているのではあるまいな」
どうやら俺は、酷い誤解をされているらしい。
なにを早とちりしているのか知らないが、そんな事実はこれっぽっちもない。
上様の女に手を出すなんて自殺行為を、誰が好んでやるものか。
「は……。なにを、仰います上様。自分は───」
弁解しようと口を開くと、また途中で遮られた。
上様の空いた右手に、左頬を引っ叩かれたのだ。
衝撃で姿勢が崩れ、頭の中が空になる。
この鋭さは、本気だ。
再び上様を見上げると、今度は硬い手の甲で右頬を殴られた。
容赦のない往復打ちに、息を吸うのも吐くのも忘れてしまいそうになる。
「あれほど道理を言って聞かせたにも拘わらず!白昼堂々、人の物を抱えて歩くなど……。
───ッこの痴れ者めが!!」
わなわなと肩を震わせた上様が、咆哮のごとく捲し立てる。
俺は反射的にやり返したいのをぐっと堪え、弁解に徹した。
「お言葉ですが、上様。
御内室と自分との間に不義は一切ございません。
その節は何やら足を痛めてらしたので、偶然通り掛かった自分が縁の間までお送りし───」
「空々しいことを……!
菖蒲吹はまだ年若く、是非も分からぬ戯けた娘だ。
そこに付け入って、たらしこんだのであろう!?」
怒りで赤く染まった顔。
怒鳴る度に飛び散る唾。
きっと俺がどうしようとも、この人にはどうでもいいんだろう。
激情を露にする上様とは対照的に、俺の感情は露と消えていく。
「(気が抜けてたってことなんだろうなぁ)」
嫌な予感ってやつは、残念ながら、よく当たる。
あの時、彼女に手を差し延べると決めたあの瞬間から、厄介事に発展するかもしれないと覚悟はしていた。
まさか本当に、覚悟の通りになろうとは。
おおかた、彼女とのあれを目撃した誰かが、鬼の首とったりと上様に密告したのだろう。
ついでに有ること無いこと吹き込んでくれたおかげで、今の上様はまさに怒髪衝天。
俺の権威に不満を持つのは結構だが、いい大人の節度は弁えてほしいもんだ。
「(生臭い。口ん中も切れたか。
もらった饅頭、今日までなんだけどな)」
かつて上様の不興を買った者らが、いかなる末路を辿っていったか。
俺は見てきた。対岸の火事と傍観してきた。
追放か、死なない程度の体罰か。
さすがに死刑を言い渡された者は出ていないようだが、無事で済まないのは請け合いだ。
「───いささか町娘の気を引く程度で得意になりおって……。
自惚れも大概にしろ!!」
心底、阿呆らしい。
身内の返り忠を伝えたばかりだというのに。
攻城の危機が迫っているやもしれないのに。
こいつにとっては、自分の色が横取りされる心配こそ有事らしい。
「思えば、お前は元より、色を好むきらいがあったな。
さも篤実かのようにして、甘言使いこそ一級と見える」
ずっと我慢してきた。
波風を立てないよう、逆鱗に触れないよう。
謙虚で従順な臣下として奉公してきた。
その結果が、これか。
くだらなすぎて笑えてくる。
こんなやつに遜って生きている自分が、くだらなくて、泣ける。
「そうまでして女子供に持て囃されようとは、嘆かわしい。親衛隊長様が落ちぶれたものだ。
勇名をどこぞに捨ててきたか?取りに行かせるから申してみよ」
いっそ、山下さんに付いて行けば良かったかもしれない。
悔いたところでもう遅いが、山下さんの天晴れな生き様と死に顔とが、代わる代わるに脳裏を過ぎる。
「おい、聞いているのか。この───!」
上様が扇子を持った手を振りかぶる。
今度は道具を使って殴られるのか。
上様の短気は昔からだが、ここまで怒り狂うのは滅多にない。
殴られた後は、どんな罰を言い渡されることやら。
いいさ。
やるなら好きなようにやりゃあいい。
逆らう気は、もはや失せた。
目を閉じて、身を委ねる。
俺が死んでも、どうせ、悲しむ人はいないのだから。




