;第十七話 誰も傷付けずに生きられるのは 3
「どけ、松吉。お前を斬りたくねえ」
「こっちの台詞だっつんだよ。俺にあんたを殺させんな」
「お前にオレは殺せねえよ」
「どうだか」
「……なあ、どうだ?松吉。
お前なら、オレ達の仲間に加えてやってもいいんだぜ?」
「冗談。
負け戦に飛び込むなんざ、気が違っても御免こうむるね」
「ヘッヘ。
武士道だの大和魂だの、ガラじゃねえくせによ」
山下さんの呼吸が浅くなり始めた。いよいよ臨戦態勢ってわけか。
残念ながら、俺の説得に耳を貸してくれる気は毛頭ないらしい。
「全部、芝居だったのかよ。
この薄汚ぇ世で、なんとか扶け合って生きていこうぜって、あんた俺に言ってくれただろ。
あれも、嘘だったのかよ」
「……悪いな、松吉。
出来ることなら、お前もきっちり、丸め込んでやりたかったよ」
「山下さん、俺は───」
「お前のことは、嫌いじゃなかったんだがなあ!!」
山下さんの目が、かっと見開かれる。
俺と話すための間合いから、俺を殺すための間合いへと、迷いなく走ってくる。
その瞬間、俺の中で辛うじて保たれていた何かが、音を立てて崩れていった。
ああ、もう駄目だ。
もう、見逃してやれねえ。
俺の言葉は、この人に届かない。
俺には、この人の心を変えられない。
この人の目に映る今の俺は、ただの。
"───こりゃあまた、随分と若ェのが来たもんだ。
悪いこた言わねえ、引き返すんなら今だぜ、ボウズ?"
山下さんが腕を振り被り、俺に斬り掛かる。
だが、遅い。
あいつと比べると、あんたの攻撃なんて、止まって見えるよ。
俺は反射で斬撃を避け、山下さんの背後に回った。
勢いを失った山下さんは、前のめりによたよたと足を着いた。
"───我が家のように、とは流石にな。
けどまぁ、オレが世話するからには、親戚のおじさん家と思えるくらいにはしてやるよ。
今日からここが、お前の帰る場所だ。"
相変わらず貧乏臭いナリで、どことなく哀愁を感じさせる後ろ姿。
それでも初めて会った時には、圧倒されるほど頼もしく見えたもんさ。
そうさ、頼もしかったんだ。
父のように兄のように、時に優しく時に厳しく接してくれた山下さんに、俺は憧れていた。
なのに、今はもう、こんなに小さい。
背中の広さも、背丈の高さも、あっという間に俺が追い越しちまった。
腕相撲も早食い競争も、飲み比べも我慢比べも。
昔は一度も勝てなかったが、今では。
"───よ、おはようさんボウズ。
なんだ、顔色悪いな。よく眠れなかったのか?
しょうがねえ、今夜はオレの枕、特別に貸してやるよ。
どんな神経たかりも一発快眠の優れものだ。"
"───そら餓鬼んちょ、飯食い行くぞ。
腹が減っていようがいまいが、時間になったら食うんだよ。
でなきゃ、いつまでもヒョロヒョロのまんまだぞ。先輩命令。"
"───おかえり、松吉。
いや、いい。遠征帰りに無理しちゃいけねえ。困った時はお互い様だ。
色々と思うところはあるだろうが、オレはお前のそういう、知らんぷり出来ねえ不器用なとこをさ、結構好きなんだよ。
お前もあんまり、自分のこと、嫌いになってやらんでくれな。"
"いざとなったら、頼りにしてるぜ。相棒───。"
本当に、馬鹿だな。山下さん。
あんた、剣で俺に勝ったことなんか、一度もないくせによ。
「か───ッ!」
山下さんの細い腰に、下から上へ抉るようにして太刀の切っ先が入る。
刃はそのまま硬い腹筋を破り、彼の体をほぼ縦に貫いた。
「ぁぐ、ゥ………ッ!」
山下さんの苦しげな呻き声が響く。
刃から伝ってきた血が柄に触れ、俺の指先に触れる。
駄目押しにもう一突きして刃を引き抜くと、体の芯まで抜かれたように山下さんは頽れた。
「ハァ、ハ……。は───」
あっけない。
あいつとの激戦が幻だったんじゃないかと錯覚するほど、いとも容易く山下さんとは決着してしまった。
俯せに倒れた山下さんを中心に、じわじわと血溜まりが広がっていく。
思えば、俺にとって親しい人を斬るのは、初めてのことだった。
「あーあ。やる前に色々吐かせるべきだったな」
これから、どうするかな。
とりあえず、亡骸はどこか別の場所に移動しよう。
上様への報告は、夜が明けてからでもいいだろう。
手に付いた返り血を裾で拭いながら、考えるのは後始末の段取り。
悲しくはない。
ただ、明日から一人、少なくなる。
俺の周りが、前より少し、静かになる。
それだけだ。
「枯れた草木にゃ花は生らねえ。
あんたが教えてくれたんだぜ、山下さん」
俺の空しい独り言に誘われてか、第三者の気配が突として現れた。
気配のした方へ振り向くと、いつの間にいたのか、寝間着姿のギンが濡れ縁に立っていた。
「お前───。
なにしてんだよ、こんな時間に」
話し掛けると、掠れた声が出た。
山下さんと無駄なお喋りをしたせいで、すっかり喉が渇いてしまったようだ。
「なんか、変な気配、したから、目が覚めた。
松吉は、なんで」
裸足のまま地面に下りたギンは、辺りを窺いながらこちらへ歩いてきた。
「見りゃ分かんだろ。
お前の言う変な気配ってのを、たった今鎮めたんだよ」
「この人……」
俺のすぐ側で立ち止まったギンが、俺から山下さんに視線を移す。
「よく松吉と一緒にいた人だ」
そう言うとギンは、再び俺の顔を見上げた。
言葉にせずとも、どうしてこうなったのか、と目が問うている。
どこから話せばいいのやら。
状況証拠は揃っているとはいえ、暗黙の了解が通じる相手ではない。
よりにもよって、一番説明が面倒臭いやつに目撃されちまったもんだ。
「ほら、あっちこっちに散らばってんだろ、本」
「ほん」
「ありゃ、どれも重要な書物でな。
ましてやそれを、身内の人間が盗ったとなれば、な」
「だから斬ったのか」
「考え直すように説得はした。が、聞く耳持たずで剣を抜かれた。やむを得なかったんだ。
……まぁ、なんにせよ?上様の忌諱に触れれば相応の罰を受けるし、この場合は反逆罪も加わるから首が飛んでもおかしく───。
って、おい」
説明の途中、ギンは俺から刀を奪った。
山下さんに用があるらしく、血溜まりも厭わず近付いていく。
今さら死体に何をしようというのか。
ギンの突飛な言動はいつものことなので、敢えて制止はせずに続きを見守る。
ギンは山下さんの横で刀を構えると、山下さんの背中に切っ先を宛がった。
背面からで分かりにくいが、あの位置は恐らく心臓だ。
ギンが刃を突き立てる。
肉の裂ける音と、くぐもった悲鳴と、蚊の鳴くような、萎んでいく息遣い。
ギンによって齎されたものであれ、ギン自身が発したものではない。
既に事切れたと思いきや、命までは潰えていなかったようだ。
反動で小刻みに手足を痙攣させた山下さんは、本当の意味で絶命して、二度と動かなくなった。
「なにも、殺すことない」
刃を引き抜いたギンは、血に濡れた切っ先を払いながら呟いた。
「あ?」
「この人、松吉にとって大事な人だったんじゃないのか。
別に殺さなくたって、他に───」
「チッ。甘っちょろいこと抜かすなよ新人。
時と場合によっちゃ殺すって、前にも教えただろ」
「じゃあ、せめて、殺すなら一息に、やってやらないと。
長く苦しませたって、なにも変わらない」
"罪人あれば捕えよ"。
"抵抗すれば捻じ伏せよ"。
"背く果てには殺して良し"。
先代上様が定めたしきたり。
我らが雪竹城に於ける、掟のひとつだ。
核当した場合、たとえ相手が知人であっても仲間であっても関係ない。
どんな事情があろうと経緯があろうと、手心は一切加えられない。
山下さんにしたって、そうだ。
上様に知れれば、きっと酷い拷問の末に斬首されただろう。
盗みを働いただけならまだしも、謀反を企てた上でとなれば、死罪は免れない。
俺が直に手を下さずとも、山下さんにはいずれ、凄惨な最期が待っていたに違いないのだ。
一隊士として、刀を帯びる者として、尤もな行いだった。
非難される覚えなどない。
ない、のに。
「───はーあ。
結局は女の感性ってことだよ」
やり場のない怒りと苛立ちが込み上げる。
どうして、よりにもよって、こいつに。
お前には、見られたくなかったのに。
「お前さ、やっぱ甘ェよ。
殺さなくても、なんて一々考えてたら、そのうち足掬われるぞ」
「甘くなんて……」
今度は俺からギンに近付く。
山下さんの残した温もりを、足に鼻に肌に浴びながら。
「剣を抜いたやつが自分に向かってきたら、もう何も考えるな。
生かすべきか殺すべきかなんて迷うな、選ぶな。
直前まで悩むってことはな、本気でかかってくるそいつを、格下と見下げてるってことなんだよ」
「違う!」
ギンが怒声を上げる。
俺は淡々と言い返した。
「いいや違わないね。
なんならお前は、自分が死んだって構わないと思ってる。
負けない自信があって、それでいて万一刺し違えることになっても、別にいいと無意識に思ってる。
だからそんな悠長に構えてられんだよ。呑気なもんさ」
「わたしは、───そんな風に思ったことは、一度もない」
こいつは強い。とにかく強い。
そこらの剣士が束になっても、歯が立たないだろう。
故にこそ、こいつには弱者の気持ちが分からないんだ。
到底敵わないと承知でなお、決死と挑んでいく凡人の覚悟が、こいつには理解できないんだ。
強さとは、余裕があることだ。
対する相手の生死を選ぶ権利、人の一生を左右させる仕業。
凡人には持ち得ないもの、弱者には成し得ないものが、当たり前に手元にあるということだ。
お前とは違うんだよ。
殺すつもりならば、死ぬつもりでなくてはならない。
大抵のやつは、そうやって戦うんだよ。
お前と違って、みんなが選べるわけじゃないんだよ。
お前みたいに、死なせてくれと殺すやつは、普通じゃないんだよ。
「仮に、今度の相手がお前だったとして、俺はきっと同じことをしたぜ。
俺にあって、お前にない強さがあるとすれば、覚悟だ」
「かく、ご……」
「お前はまだ、どこかで怖がってる。
殺したくない、背負いたくないと逃げ腰でいる。
それは躊躇いを生み、躊躇いはいつか、お前自身の命取りになる。
今すぐ捨てろ。他人のことなんか気にするな。自分の身を最優先にしろ。
俺はいつもそうしてる」
ギンの端正な顔に、珍しく歪んだ表情が浮かぶ。
俺はギンの左胸を拳で叩き、力強く言った。
「誰も傷付けずに生きられるのはな、望まれて生まれたやつだけなんだよ」
お前は強い。ひたすら強い。
だが、お前の強さの裏にあるものは、非常に脆い。
強さの分だけ、危うさが伴う。
ひとたび歪みが生じれば、遅かれ早かれ決壊する。
ひとたび始まった決壊は、もはや誰にも止められない。
はやく俺のようになれ、ギン。
いつかお前の心が砕けちまうような気がして、たまらなく不安になる時がある。
『月の客』