;第十七話 誰も傷付けずに生きられるのは 2
同日、夜更け。
皆が寝静まった頃合いを見て、俺はひとり私室を抜け出た。
昼間の件がちらついて寝そびれたのもあるが、何やら虫の知らせがあったのだ。
寝間着のまま城内を徘徊し、夜風を求めて屋外にも足を向ける。
やや肌寒いが、日盛りと比べれば心地よい。
おかげで体温が下がり、頭も幾分冷えた。
まだ眠気はやって来ないが、これなら少しは休めるだろう。
踵を返し、行きとは別の経路で私室に戻る。
その帰途に、今は無人であるはずの離れ蔵から、何者かの気配が感じられた。
姿は見当たらない。物音も特にしない。
だが近付いてみると、戸前の錠が解放されていた。
ということは、中にいるのか。
無理にこじ開けた形跡がないのは、正規の鍵を用いた証拠。
何者か、もとい不審人物は、鍵の在り処を把握している、城の関係者である可能性が高い。
「(なんだって、こんな夜半に……)」
いやに怪しい。
離れ蔵の中には、多くの蔵書がある。
この町のこと、この城のこと。
歴代上様が重ねてきた、数々の暴虐の歴史のこと。
町人向けの医術や料理関係の本なんかも、一通り揃っていると聞く。
蔵の鍵番に交渉すれば、上様を通さずとも、それらの蔵書を閲覧可能だ。
献立の参考にするためか、料理本目当てに女中が出入りすることも少なくない。
ただし。
上様を通さない場合は鍵番が見張りにつく決まりで、単独での立ち入りは原則禁じられている。
こんな夜半に手前だけ忍び込む時点で、疚しい動機があるのは明白なのだ。
どうせ杞憂だろうと、高を括っていたんだが。
虫の知らせってやつは存外、侮れないらしい。
「(余計な手間増やしやがって。そこ動くなよクソったれ)」
音が立たないよう蔵を後にし、武器庫から太刀を一本拝借して、再び蔵へ。
目を離した隙にとんずらされていたら元も子もなかったが、幸いにも気配は残っていた。
お目当てを探すのに難儀しているようだ。
蔵の陰に身を潜め、刀を構え、息を整える。
どこの誰かは知らないが、こそ泥を働いたとなれば、何人たりとも逃がすわけにはいかない。
最悪、体裁のため持ってきた刀も、実際に抜く羽目になるかもしれない。
「(これ以上煩わせてくれるな)」
こんな面倒が起きると分かっていたなら、帰りの経路を変えることも、私室を抜けること自体もしなかったのに。
後の展開をぼんやりと想像しながら、不審人物が現れるのを待つ。
程なくして、一人分の足音が近付き、内側から戸前が開かれた。
頭を低くして現れた不審人物は、何冊かの書物を大事そうに抱えて、きょろきょろと辺りを窺った。
どこからどう見ても、盗人の挙動。
それも、大人の男の体格だ。
しかし、ご丁寧に頬被りなぞしていやがるせいで、男の顔も髪型も識別できない。
黒装束を着ているので、隊士なのは間違いなさそうだが、こう暗くては自慢の遠目も半減だ。
正体を暴くには、やはり対峙するしかないか。
「───止まれ。
抵抗するなよ。ゆっくりこちらを向け」
刀を抜き、男の背後から待ったの声をかける。
男は驚いたように肩をびくつかせて、恐る恐るとこちらに振り返った。
振り返った男の顔に、今度は俺が驚かされた。
「なに、やってんすか」
チッ、とばつの悪そうな舌打ち。
頭に手拭いを被り、両腕に書物を抱えた男こそは、山下さんだった。
「まったくオメーは……。
間の悪いというか察しの良いというか。
あンでこんなところに居やがんだ?今は丑三つ時だぜ?」
刀を抜いた俺に怯む様子はなく。
常と変わらぬ飄々とした態度で、山下さんは応じた。
「そりゃこっちの台詞だよ。
こそこそと盗っ人のような真似をして、なに企んでやがる」
「おいおい、他人行儀をしなさんな。
これはオレの私欲じゃねえ。ひいては、世のため人のために繋がる第一歩なんだよ」
「なに?」
辺りには他に誰もいない。
山下さんと俺の二人だけ。
つまり山下さんの犯行を知っているのは、まだ俺しかいないってことだ。
せめて、騒ぎになる前に。
これ以上、山下さんが妙な気を起こす前に。
どうにか彼を、俺が諭さなければならない。
何故って、俺で山下さんだからだ。
上司だろうが同僚だろうが、違反者は首根っこ捕まえて上様に差し出す俺だが、山下さんが相手となれば話は別だ。
俺にとって数少ない理解者を、みすみす罪人にさせてなるものか。
「悪いが山下さん。
おっさんの言葉遊びに付き合ってやるほど、俺は優雅な男じゃねえ。
まともに話せる内に、本当のところを白状してくれ」
刀は抜いたまま、山下さんを問い質す。
山下さんは急に真剣な表情になると、被っていた手拭いを後ろに脱いだ。
「この本はな、ぜんぶ雪竹城に関するモンなんだよ」
山下さんの荒れた指が、抱える書物を下から順に指し示していく。
「えー、城の見取り図に、緊急避難時要項、隊士のしきたり帳と名簿と、収蔵武器内訳資料、近侍奉公記録……。
してこれは、───お前も一度は見たことがあるだろう?
光倉家の系譜と、奴らが今日まで犯し続けた、罪の証拠だ」
一番上に積まれた黄色の書物を爪先で弾いて、山下さんは不愉快そうに鼻を鳴らした。
"奴ら"。"罪の証拠"。
上様の一族を軽んずる物言いということは、反旗を翻すつもりなのだろうか。
なんでそんな、山下さんが。
「ああ知ってるよ。あの方が今までどう生きたか、その軌跡を。
だからなんだってんだ?それを持ち出して、一体なんに使うつもりだよ」
「なんだよ松吉。今はオレとお前の二人っきりだぜ?殊勝な建前は抜きにしようや。
お前だって、あの呪われた一族に、いい感情は持ってないだろ?」
「……チッ。はぐらかすなよ。もっとはっきり言え。
あんたは今なにを考えてるんです、山下さん」
焦った俺は、脅すように一歩、山下さんに詰め寄った。
山下さんは目を伏せると、軽くて重い溜め息を吐いた。
嫌な予感しかしねえ。
頼むから山下さん、あんまり可笑しなことを言わないでくれよ。
この先は、さすがの俺でも擁護しきれねえ。
俺はあんたを、敵に回したくないんだよ。
「菖蒲姫、っているだろ」
腹に抱えた書物を脇にずらしながら、山下さんは天を仰いだ。
菖蒲姫。
前触れなく出てきた名前に、俺は全身が粟立った。
昨日の今日で彼女の話題を振られるのは、偶然にしても生々し過ぎる。
「あれな、オレの恩人の娘なんだ」
「は……?」
「神崎さんつってな、若い頃にはそりゃあ世話になった人なんだよ。あの人がいなけりゃ、今のオレはねえ。
……その神崎さんの愛娘が、あの子なんだよ」
虚ろに語る山下さんが、さりげなく一歩引き下がる。
すかさずこちらももう一歩詰め寄ると、山下さんは小さく笑った。
「オレはここでの暮らしが長い。古参である分、信用もされてる。
今じゃ、蔵の鍵番を任される一人だ」
「だから?」
「だから、これはオレにしか出来ねえことなんだよ。
神崎さんからの、一生に一度のお願いを、オレは断れねえ」
「だ───、んで、ッ……。
なにも、あんたまで、危ねぇ橋渡るこたねえだろ。
ここが如何に守りに堅いか、おいそれと落とせる相手じゃねえくらい、あんただってよく分かってるはずだ」
「ハッハ。松吉よ。
───そのために、こいつが必要なんだろ?」
太い声で唸ると同時に、山下さんは自ら書物を投げ捨てた。
代わりに手にしたのは、いつの間にやら抜かれた脇差。
俺たち隊士にとっての護身用、いわゆる懐刀と同じものだ。
俺の太刀と山下さんの脇差、互いの刃が月を映して光る。
俺の太刀が借り物だからか、山下さんが脇差を重宝しているのか。
同じ高さに掲げても、俺より山下さんの光の方が、強く激しい。
まるで、相手に対する殺意の差を表すかのように。