;第十五話 銀子 4
「お前、どうして此処に来た」
「なに」
「儲かる始末屋をやめて、用心棒なんぞに下った理由はなんだって聞いてんだよ」
餓鬼の胸元を開き、鎖骨に垂れた髪を横に流す。
首筋が露になると、生々しい吉川線も同時に露になった。
治りかけの消えかけではあるが、明確な殺意を以て締められた痕だ。
それも、餓鬼より一回り以上体格の大きい、恐らくは大人の男の手によって。
一体いつ、どこの誰にやられたんだか。
手首の擦過傷といい、よほどの大事に巻き込まれたと見える。
「お前───。……なんでもない」
"この痕はどうしたんだ"。
喉元まで出かけた言葉を、すんでのところで飲み込む。
こいつの過去がどうあろうと、別に構わない。
俺たちが同僚に求めるのは便宜だけ、上様が臣下に望むのは力と忠誠だけ。
そこを全うしてさえくれれば、たとえ生まれが異国であろうと異形であろうと、咎めはしない。
「不要だろうが、当座は一応、巻いとけ」
治りかけとはいえ、痕が完全に消えるまでには、もう暫くかかりそうだ。
悪目立ちしないよう包帯で隠してやると、施術途中の俺の手首を餓鬼が掴んだ。
「あんたは、人を殺したことがあるか」
相変わらずの無表情。
しかし終ぞなく、意思の感じられる声だった。
「あるよ。
つっても、本職のお前には、遠く及ばないだろうがな」
敢えて先程のやり取りを準えると、更に強く掴まれてから手首は離された。
「あんたの言う通り、おれはたくさん殺した。今さら何をしても、それは消えない。
でも、殺さなくても生きていける方法があるなら、そうしたい」
「……だから用心棒───。
貴人に侍った方が得策だと?」
「そうだ」
驚いた。
些か安堵もした。
人形のように虚ろな面差しをして、心など疾うに死んでいるのかと思いきや。
やれ殺したくないだの、普通に生きたいだのと。
いや、そうか。
こいつだって、刀がなければ、ただの餓鬼だ。
いくつ修羅場を越えようと、始末屋の肩書きが板に付こうとも、根本で割り切れるかは別だ。
"甘んじて受け入れる"を、作業として熟すには、こいつはまだ幼すぎる。
自分を生かすために、誰かを殺す。
割り切らなければ、人形に徹し切らなければ、苦行以外の何物でもなかったはず。
それでもお前は、人でいることをやめずに、人を殺して、生きてきたのか。
「他人の動機なんざ、知ったこっちゃねえけどよ。
人を斬るのが嫌つったって、此処でもそういう機会がないわけじゃないんだぜ?
時と場合によっちゃ斬るし、殺すこともある」
「わかってる。でも、殺すことが仕事じゃないだろ」
「……そうだな。それから───」
首の手当ても完了したところで、餓鬼の無防備な頬を抓ってやった。
というのも、体のあちこちに塗りたくっているこの薬は、よく効く分とても染みるのだ。
なのにこいつときたら、痛がる素振りがないどころか、眉ひとつ動かさずに患部を観察していやがった。
頬を抓ってみたのも単なる仕返しではなく、痛覚が働いているかを確認する目的があったのだ。
「まさか痛みを感じねえ、ってことはないよな」
俺がどんなに引っ張っても爪を立てても、餓鬼は抵抗しなかった。
ムキになってもう一方の手でも抓ってやると、餓鬼は漸くふごふごと異を唱えた。
「痛いのは、感じるけど、慣れてるから。
でも、あんたのやってることは、意味がわからない」
なんだよ、痛いんじゃねえかよ。
餓鬼は餓鬼らしく、痛い時はのたうって泣きゃいいものを。
「ああそうかい。ふてぶてしい餓鬼だぜ、まったく。
ちなみに俺はあんたじゃなくて松吉さんな。目上には敬語くらい使え」
頬を離すついでに、餓鬼の眉間を人差し指で小突いてやる。
餓鬼はぱちぱちと大きく瞬きをしてから、抓られた頬をそっと一撫でした。
「ショウキチ、は今何歳だ?」
「十七。三つ離れてるってことは、お前は十四なんだろ?
目上の相手は敬うのが礼儀だ。特に此処ではな」
餓鬼は"分かった"と返事をすると、乱れた衿と姿勢を正した。
「(こんな調子で、本当にやっていけんのかね)」
馬鹿の割に物分かりはいいようだが、いかんせん態度がな。
誰に対しても物怖じしないというのは、相手によっちゃ邪推されてもおかしくない。
面倒くさい。一から十まで面倒くさい。
こいつが何か問題を起こせば、教育係の俺が責任を問われる。
お前がどこで虐められようが知るか、と放っておくことも出来ないじゃないか。
「───そういやお前、どうしてさっきまで喋らなかったんだ」
「さっき?」
「上様といた時だよ。
あれこれ話し掛けられてたのに、お前てんで無視だからよ。見てるこっちがヒヤヒヤしたぜ」
ああ、と餓鬼は思い出したように目線を下げた。
「あの人、笑った顔が変だった」
「は?」
「優しそうな顔、だったけど、なんか、目が変だった。
だから、気持ち悪くて、口利きたくなかったんだ」
「……俺は。俺は平気なのかよ?」
「ショウキチ、は何も考えてなさそうだから、おれも考えないだけだよ」
「失礼なやつだな。人を能無しみたいに言うんじゃねえ。
あと俺のことは、松吉さんと呼べっつの」
まだ出会って間もないのに、こいつには驚かされてばかりだ。
大抵のやつは、あの優しい笑顔と穏やかな声で、気を許しちまうんだがな。
上様の内なる残忍さ。
みな時間をかけて、それを知った。
虫も殺せないようでいて、実は不遜で野蛮な男だと。
やんごとない血筋が、数多ある欠点を覆い隠しているに過ぎないのだと。
俺とて最初は、無害なお坊ちゃんだと侮ったくらいだ。
"優しそうな顔、だったけど、なんか、目が変だった"。
悪人を見透す一隻眼。
神通力にも等しい洞察力。
始末屋として生きる上で、図らずも養われた才能か。
こいつのこういう非凡さは正直、嫉妬すら覚える。
「お前、名前は?」
「え」
「名前だよ。聞いてなかったと思ってな。
いつまでも餓鬼呼ばわりされんのは嫌だろ」
段々と、こいつに興味が湧いてきた。
腐っても俺が教育するからには、どこへ出しても恥ずかしくない程度には育ててやるさ。
かつて俺が、山下さんにそうしてもらったように。
代わり映えのない城暮らしにも、飽きが回っていた頃だ。
この小さい獣を、俺好みに飼い馴らしてやるのも、存外面白いかもしれない。
「ぎんこ」
「ギンコ……?が、名前か?」
「銀色の子ども、って書いて、ギンコ。
姓は……、ない。親はいないから」
親がいないというのは、死に別れたか、縁を絶たれたか。
いずれにせよ、こいつに帰る家は無しと。俺と一緒だな。
「銀子、か」
銀子。
想像よりずっと美しい名前ではあるが、遠からず上様に改めさせられるだろう。
あの色狂いが、むさい野郎集団の中に、みすみす若い女を放り込むとは考えにくい。
断言する。
今後こいつは、誤解や成り行きからではなく、本人が男として振る舞うことを余儀なくされる。
上様の目の届かないところで、女だからと悪戯されないためにも、女のくせにと疎外されないためにも。
始末屋を始めた時には既に、だったのかもしれないが。
上様に奉公すると決めたのなら、尚更だ。
銀子。免れぬ子よ。
お前は二度と、並みの女として生きることは叶わないよ。
「じゃあ、ギン」
「ギンコ、じゃなくて?」
「ああ、ギンだ。この方が呼びやすい。
まあ、じきに?これとはまた別の名前を用意されるんだろうが……。
それまでの間、な」
「ふうん」
「向こう暫くは俺が、先輩としてお前の面倒をみてやる。
だからお前も、あんまり俺を困らせる真似はしてくれるなよ」
ギンに握手を求める。
不本意とはいえ、けじめはけじめだ。
するとギンは首を傾げ、俺の差し出した手を不思議そうに見詰めた。
今までそんなことを迫られる場面も、教えてくれる人もいなかったのだろうから、困惑するのも無理はない。
「ほら、こうすんだよ」
ギンの手を取り、強引に自分と握手させる。
これは一体なんだと尋ねてくるギンに、俺は握手の意味を教えてやった。
『黄昏月』