;第十五話 銀子 3
「───手拭い、と隊士用の寝巻きな。
風呂桶やら何やらは、置いてあるもん適当に使え」
「………。」
「済んだら、さっき教えた部屋まで来ること。寄り道すんなよ」
「………。」
「あ、あと毎度こうなわけじゃねえからな。
いつもはもっと犇めき合ってるつか、陣取り合戦が基本だ。
一人風呂なんて贅沢は、今度きりの特別扱いだってこと忘れんな」
「………。」
「っとに何でこいつばっかり……」
餓鬼を湯殿まで案内した俺は、厄介払いとばかりに、自分の私室へ戻った。
上様よりお言い付けになったのは、"餓鬼を案内すること"であって、"餓鬼の様子を見守ること"は含まれていないからだ。
着替えやらの道具は渡した。
私室のある場所も道すがら教えた。
目下の務めは果たしたのだから、必要以上の世話を焼いてやる必要はない。
少なくとも、風呂に関しては。
あとは餓鬼が部屋に来るまで、適当に寝っ転がって待ってりゃいい。
どこぞで滞りがあったとして、控えの女中も付いているんだし、平気だろう。
困り事はないか尋ねてやったり、分かりやすく手本を見せてやったり。
骨身を惜しまない親切は、ここじゃ山下さんくらいしか当たりがないんだ。
「あー、めんどくせ」
隊士の多くは持ち家がある。
彼らは宿直が回る日を除き、職務を終えしだい、我が家へと帰っていく。
持ち家のない隊士は、宿直の有無に拘わらず、城で寝泊まりをする。
格下は広間に寄り集まって雑魚寝、格上は割り当てられた私室で過ごす。
上様の親衛隊を率いる俺や、下っ端ながら役職に就く山下さんは後者。
その分野に多く寄与し、上様の眷顧に足ると認められた格上組だ。
おかげで、俺の私室は隊士中随一。
広さも日当たりも、上様の側近たちに次ぐ場所を得た。
あの餓鬼もそこそこ腕が立つというなら、ゆくゆくは同様に私室を与えられるだろう。
時に気に食わないこともあるが、こういう実力主義な面は、俺の望むところだ。
**
餓鬼を湯殿に置き去りにして、およそ四半刻。
部屋の前で三度、拳で床を叩く音が聞こえてきた。
事前に取り決めておいた、餓鬼の到着を知らせる合図だ。
「入れよ」
俺はむくりと上体を起こし、固まった首と背中を解した。
障子の引かれた先には餓鬼がおり、暗い廊下に一人佇んでいた。
枝毛まみれだった髪は艶気を帯び、煤けていた肌は生まれたままの白さを取り戻している。
どうやら滞りなく、風呂を済ませたようだ。
袖を通した蓬色の半襦袢は、渡しておいた隊士用の寝巻き。
餓鬼の体格に合わせて、最も小さい着丈を選んでやったが、まだ大きかったらしい。
輪郭だけをなぞると、半襦袢というより外套だ。
仕方ない。
予備で間に合わないなら、こいつに丁度いいのを、一から拵えてやるしかない。
明日にでも、手隙の女中に頼んでみるか。
「なにンなとこ突っ立ってんだよ。さっさとこっち来い。
教えなきゃなんねえことは、山とあるんだからよ」
虫籠窓を開け、月明かりを部屋に誘い入れる。
夜でもこれだけ明るけりゃ、行灯に火を点すまでもないだろう。
「………?」
餓鬼からの反応がない。
そもそも口を利けないとして、行動で示すくらいは出来るはずだ。
現状に至るまでの指示には、こうして従えているのだから。
今度の指示だけ、わざと無視を極めてやがるんなら、いい度胸だな。
舌を打ちつつ振り返ると、餓鬼は俺のすぐ背後にいた。
「バッ───!」
いつの間に。
こいつ足音どころか、気配すらしなかったぞ。
この俺がこうもあっさり背後を取られるなんざ、生息子だった頃以来だ。
「───ッカてめえ!いきなり背後、に……、立ってんじゃ………」
改めて餓鬼の姿を目の当たりにした瞬間、別の驚きで息が詰まった。
「おまえ……」
先程は暗がりにいたため、風呂に入る前は煤けていたために気付かなかった。
本来の素肌を月明かりに曝したことで、ようやく分かった。
こいつ、全身傷だらけだ。
そこらじゅうに痣やら痂やらが残っていて、酷く痛々しい。
左の頬に走った赤い線は、恐らく刀傷だろう。
どういう経緯かは知らないが、状態からして最近負ったものに違いない。
そして何より、顔だ。
この餓鬼、恐ろしく端整な顔立ちをしている。
大きな目、通った鼻筋、桜色の薄い唇。
よく見りゃ手足もすらりと長く、容姿端麗というのは正にこいつを表すと、脳裏に過ぎった。
「おまえ」
とっさに餓鬼の腕を掴んだ。
骨と皮しかない、痩せこけた腕。
単に栄養が足りていないから、だけではなさそうだ。
「女、か?」
餓鬼はぼそっと一言、"たぶん"と呟いた。
なんだよ、喋れるんじゃねえかよ。
喋りたくても喋れない体質、あるいは、物理的に喉笛を潰された線は消えたな。
ただ、その声は思いのほか低く、掠れていた。
どちらかというと変声期を間近にした少年に近く、うら若い生娘には似つかわしくない響きだった。
「なるほどな」
読めてきたぞ。
上様がやけにこいつに甘かった訳も、俺が教育係に指名された訳も。
この美貌で男に負けない強さとくれば、囲っておきたい気持ちは分かる。
故にこそ、"城一番の兵"にして、"孤舟の鼻摘まみ者"である俺と組ませたんだ。
俺がこいつに手を出せば、こいつを見初めた上様が黙っていない。
俺にこいつを守らせれば、他の奴らもこいつに手を出せない。
まったく、よく出来ている。
臣下として頼られているのか、男として舐められているのか。
ますます以て釈然としないが、まあ、いいさ。
腐っても用心棒というからには、相応の働きをしてもらう。
女だから子供だからと手心を加えてやるつもりは、毛頭ない。
残念だったな、餓鬼。
生憎と俺は、女子供に諂ってやるほど、お気楽様じゃないんでね。
**
ここよりは、具体的な言い付けを受けていない。
餓鬼に何を教えるか、どう育てるかは、俺の裁量にかかっている。
身の回りの作法だけでも、今日中に仕込んでおくか。
今日は挨拶程度に終わらせて、明日に仕切り直すか。
手間を考えると後者を選びたいところだが、餓鬼をこのまま客間にぶち込むのは、さすがに寝覚めが悪い。
生傷も目に余るし、とりあえずは手当てを優先してやることにした。
「傷んだりしてねえよな……」
箪笥の上段から薬籠を引っ張り出し、膏薬と包帯を用意する。
どちらも値の張る高級品だが、俺は滅多なことでは怪我をしない。
餓鬼の傷が後に響くよりかは、使えるうちに使っちまった方が良いだろう。
「先にお前の手当てしてやるから、そこ座れ」
畳に胡座をかき、正面に餓鬼を座らせる。
「袖捲って、腕見せろ」
餓鬼は黙って、右腕の袖を捲ってみせた。
青と赤とが混じって紫に変色した挫傷。
格子縞を描くようにして幾重にも連なった創傷。
荒縄できつく縛られたと思われる擦過傷。
数こそ多いが、いずれの傷も深くはない。
これなら、手元の薬だけで十分だな。
「動くなよ」
患部に薬を塗り、包帯を巻いていく。
すると餓鬼が、初めて自ら言葉を発した。
「あんた、お医者なのか」
俺に医術の心得があるものと勘違いしたらしい。
本物に会ったことがないようだ。
「ちげーよ。
俺は何事もソツがないからな、この程度は朝飯前なんだよ」
「いつもは朝飯を食う前にやるのか?」
「そうじゃねーよ、今のは……。
あー、めんどくせ。なんでもねえ忘れろ」
ぼそぼそと聞き取りにくい喋り方をするうえ、軽い冗談も通用しねえ。
こんな型破りに、俗世のなんたるかを説けってか?俺は母ちゃんじゃねえっての。
「立場上、いざって時のために、持ちうる知識や技術をばって、そんだけだ」
右腕の手当てが完了し、次は左腕を出すよう餓鬼に促す。
餓鬼は右腕を仕舞う代わりに、左腕の袖を捲ってみせた。
「他にも、なにかあるのか」
「まあな。料理、洗濯、繕い物───。大体はなんでも。
つっても、必要最低限だから、本職には劣るがな。
お前は他に何が出来る?」
「え……」
「刀ぶん回す以外に、なんか出来ることはねーかって聞いてんだよ。
唄でも唄えりゃ、勿怪の幸いだぞ」
両腕とも手当てが完了した。今度は首だ。
腕に使ったものより一回り大きい包帯を、新たに薬籠から取り出す。
「うた、はうたえないけど───」
ふと思い付いたように、餓鬼は部屋を出ていった。
程なくして戻ると、なにやら赤い布を抱えていた。
部屋の前に置いていた服らしい。
この赤いのは確か、こいつの私物だ。
まだ風呂に入る前、城を訪れた当初に着ていた半纏。
汚いから捨てておけと念を押したのに、なにを後生大事に持ち歩いてるんだか。
「これ」
「あ?なんだよ。元は見栄えする色だったんだろうが……」
「違う。ここ」
もっとよく確かめろと、餓鬼が俺の顔に半纏を近付ける。やっぱり臭ぇ。
しかし目を凝らすと、衿の部分に縫い針をした形跡があった。
本職がやったにしては雑すぎるので、餓鬼自身で修繕したのだろう。
「あー……。これ、お前がやったのか」
「そう」
「つってもなぁ。下手くそ過ぎて、特技のうちにゃあ入らねえよ」
「………。」
「残念だったな」
餓鬼は本当に残念そうに、半纏を抱えたまま元の位置に座り直した。
「髪結いも、少しなら出来る」
「髪結いね。纏めて結うだけなら、俺だって出来るぜ?」
「たまに、芸者の人とかに頼まれた。やったら食い物くれた」
「……ほー。なら大したもんだな。
人殺す以外にも、少しは能があったわけだ」
"人を殺す"。
明け透けな俺の物言いに、餓鬼の表情が俄に曇る。
「やり方、知らなかったけど。
女の人は優しいから、教えてくれたんだ」
やや刺のある声でそう言うと、餓鬼はばつが悪そうに俯いた。
「(女の人は、ね)」
髪結いだけじゃ食っていけず、結局は人を斬る他なかったんだろう。
それも、巷で評判になるほどだ。芸者に負けじと、儲けは良かったはず。
だとすれば、何故にこいつは、上様の犬と成り下がることを選んだのか。
身の安全?衣食住の安定?
確かに、お膝元で飢えることは、まずない。
雨ざらしで野宿することもなし、獣に食われるなど以ての外だ。
引き換えにお前は、自由という掛け替えのない代償を払わなければならない。
お前の命一つが、上様の駒一つに数えられるんだぞ。
呪いにも似た制限と制約。
己が欲望、幸福のため生きることは、二度と叶わない。
たまには人助けも悪くないと、上様が粋狂を起こすかもしれない、その時まで。
"───なんでもします。
自分が死ぬ以外なら、なんでも"。
俺は選んだ。
追い縋る死を背に、藁にも縋ろうと、雪竹城の門を叩いた。
後悔はしていない。
当時の俺には、他の道など思い付きもしなかったのだから。
お前はどうなんだ。
どうしてお前は、俺と同じ道を選んだ。
形を変えても、お前は救われやしない。
ここにお前の、俺たちの、不幸を雪ぐ術はないんだぜ。