;第十五話 銀子 2
じき夕闇の下りる火点し頃。
上様が呼んでいるから早く行けと、否応なしに駆り出された。
どういうわけか用向きは伏せられたが、駆り出したのは先程の側近。
そして彼の隣には、先程まであった始末屋の姿がなかった。
となれば、おおよその見当はつく。
厄介事はご勘弁と内心で祈りながら、俺は急ぎ、謁見の間へと向かった。
「───教育係、ですか」
「せっかくだ、若衆揃いが良かろうと思ってな」
よもやこの俺に、あの始末屋のお守りをさせる気ではあるまいな。
懸念された厄介事は、ものの見事に現実となった。
嫌な予感ってやつは、残念ながら当たる方が多い。
柄にもなく祈るなんて真似をして、ど真ん中で的中しやがるとは。
ツキがないにも程がある。
「こやつの名は松吉という。
私の親衛隊を率いる男でな、ここいらでは最も腕の立つ剣士だ。
年の頃は確か、そなたより二つ三つ先だったか」
"そなた"、と隣で縮こまっている始末屋に、上様が話し掛ける。
始末屋もとい餓鬼は受け答えをせず、頷くだけで応じた。
そんな二人のやり取りを見て、俺は一抹の違和感を覚えた。
野郎相手に優しい上様が稀であるのは無論のこと、餓鬼の様子が妙だからだ。
「(怯えてはいない、臍を曲げた風でもない……)」
油断しているのか、はたまた警戒しているのか。
手を伸ばせば触れられる距離にいる上様を、ちらとも窺おうとしない。
膝を抱えて身動きを制し、髪を垂らして表情を隠し、どこに視線を送っているかも悟らせまいとする。
「(俺を、見てる……?)」
俺が広間に入った時から、餓鬼は同じ姿勢でいる。
この状態でずっと、恐らくは一点に、前を見据えている。
今、こいつの正面にあるのは俺だ。
こいつの視線の先にあるのも、俺なのか?
一城の主である上様を差し置いて、なぜ俺を注視する?
「……まあ、なんだ。
とまれかくまれ、童といえども立派な戦力だ。
申し出を呑んでくれたこと、感謝しているよ」
さすがに痺れを切らしたのだろう。
上様はひとつ咳ばらいをして、恐る恐ると餓鬼の頭を撫でた。
餓鬼は変わらず無言に徹し、その手を払いのけようともしなかった。
まるで睦まじい親子のそれだと、通りすがりの旅人なら云うかもしれない。
だが上様をよく知る俺達にとっては、また俄かに信じがたい光景だった。
あの短気を極めた上様が、餓鬼の無礼を咎めもせず、童として扱ってやるなんて。
珍事どころか一大事だ。明日は雪でも降るんじゃないか。
「して、松吉よ」
「はい」
「早速だが、この者を風呂に入れてやってくれるか」
「お、───自分が、ですか?」
突拍子のない注文が次々と。
動揺のあまり、丁寧語を崩しかける。
「教育係としての初仕事だ。
なに、湯殿まで案内をするだけでいい。垢を落とすくらいは、手前一人でできるだろう」
「……承知しました。
風呂が済んだ後は、どのように?」
「任せる」
「は」
「今後どうしていくかは、お前に一任する。
この者をどう育てるか、どう向き合うか。お前自身で考えて決めるが良い」
つまりは丸投げってことかよ。
上手くいけば全体の益、下手を打てば俺個人の責。
ただでさえ煩わしい役目だってのに、餓鬼と進退まで一緒にされて堪るか。
「ですが上様、自分は後輩を持ったことがありません。
仕込むにしても、ある程度の筋道を────」
「そこを含めて一任すると言ったのだ。
お前は私に、あれこれをそうしろと、一から十まで教えを請わねば得心がいかぬか?
独活の大木、柱にならぬと?」
「……いえ」
「お前の目利きならば、こやつの得手不得手を見定めるも易しかろう。
武芸にして学門にして、極みに近いお前だからこそ適任と、私は思い至ったまで」
上様が俺に微笑みかける。
「どうだ?松吉。
殿の頼み、引き受けてくれるか?」
口元は弧を描いていても、瞳の奥が暗く冷たい。
この男の笑顔はいつもこうで、不気味だ。
「承知、しました」
それでも、一応の会話が成り立つのは、俺が厚遇されている証だ。
平隊士相手には、もっと辛辣で、もっと非情で、もっと取り付く島がない。
上様の眷顧に与れるのは、若く美しい女か、格別の才ある傑士だけ。
どちらでもない者は、不用意に上様にお声がけしてはならないし、不用意に上様の視界に入ってもならない。
雪竹城に身を置く以上は、誰もが避けて通れぬ不条理だ。
「他ならぬ上様の命とあらば、この松吉、慎んで拝命いたします」
引き受けてくれるか、などと。
回りくどい言い方をせずとも、断れないと分かっているくせに。
「うんうん。
さすがは、誉れ高き親衛隊長さまだ。まこと、心強い」
「身に余るお言葉です」
「銘銘の更なる躍進を期待する。
手抜かりは心配せぬが、なにかあれば逐次、上申に参るのだぞ」
「心得ております」
俺が立ち上がると、餓鬼も顔を上げた。
やっぱりこいつ、上様じゃなく、俺の動向を探っていやがった。
「おい、お前」
「………。」
俺に対しても返事はなしか。
聞こえてはいるんなら、まあ良しとしてやるか。
「湯殿まで連れてってやるから、来い。
まさか風呂に入ったことがない、なんて言わないよな?」
いそいそと立ち上がった餓鬼が、こちらに駆け寄ってくる。
思いのほか従順な姿に、まるで野良犬でも拾ってきたみたいだと絆されかける。
が、いかんせん臭いぞ、こいつ。
単に形が汚いから、だけじゃねえな。
血と肉と脂の臭い。
人の死の臭いが、こいつの草臥れた着衣から滲み出ていやがる。
ああ、えらいことになった。
野良犬なんて、とんでもねえ。蛇か鷹か、いや獅子か。
この小さい猛獣に首輪を繋げるのは、いくら俺でも骨が折れそうだ。




