;第十四話 また一緒に、二人で、あの桜を見たいね 2
「これを巻くとね、驚くほど元気が湧いてくるのよ。片手で岩を持てそうなくらい」
姫様が頂き物の襟巻きを首に巻く。
外に出るたび、部屋の換気をするたびに、彼女はこれを欠かさず身に付けている。
「それはそれは。世話役も形無しですね」
「あら、サイの存在は岩どころじゃ済まないわ」
くすくすと笑いながら、姫様は自らの合羽にも腕を通そうとした。
私は彼女に待ったをかけ、己の外套と交換するよう申し出た。
「せっかくなら、人肌で温まったこちらをと思いまして」
姫様は嬉しそうに頷き、こちらに背を向けた。
私が姫様の服を、姫様が私の服を着る。
なんだか照れ臭い気もするが、姫様が喜んでくれるなら良かった。
「へへ。サイのにおいがする」
小さな肩に己の外套をかけてやると、姫様は袖口を鼻に当てがって小躍りした。
「照り返しがきついかもしれないので、光に慣れるまでは、顔を覆っているのがよろしいかと」
「ううん、いいの。
目の前がぱっと開ける感じが、好きだから」
「左様ですか。では───」
互いの準備が整ったことを確認し、出口の戸前を左右にこじ開ける。
眩いまでの陽光が差すと、暗かった室内はたちまち照らし出された。
「寒くはないですか?」
「だいじょうぶ」
新鮮な空気を胸いっぱいに吸い、姫様はうっそりと目を細めた。
「サイは?寒くない?」
「平気です」
「よかった。早速いきましょう」
「おっと。おみ足ではなりませんよ」
「ええー?今日も?」
「今日も明日も、明後日もです」
自力で歩きたがる姫様を宥め、一足先に段差を下りる。
姫様は残念そうにしながらも、いつものように私に負ぶさってくれた。
「いつもごめんね。重くはない?」
耳元で無邪気な声、肩に添えられた手。
背中越しに伝わる心音と、指が回りそうに華奢な太もも。
負ぶさった瞬間、かけられた彼女の体重に、私は息が止まった。
「全然。私の使っている蕎麦殻枕の方が重いくらいですよ」
「また、おかしいこと言って」
軽い。
三日前より、更に軽くなっている。
まるで綿のようだ。
「えいっ、それっ」
姫様が虚空に向かって腕を伸ばす。降る雪を捕まえたいらしい。
やっと手中に収まった頃には、どんなに大きな結晶も形を失っていた。
「だめね、こんなことをしたら。
わたしのせいで、みんな溶けてしまったら可哀相だわ」
「そんなことありませんよ。
踏みつけられて泥になるより、姫様のぬくもりで水になった方が、雪も幸せかもしれない」
「まあ、素敵な考え方。雪が大好きになりそう」
出会った当初は、陽に焼けた肌をしていた。
丸みを帯びた指は、畑仕事の名残で荒れていた。
けれど、今は。
この雪のように白く、透き通っていて。
骨と血管の浮き出た四肢は、少し握れば粉々に崩れてしまいそうで。
差し引かれた重さの分だけ、確実に彼女の命は削られている。
解っていたこととはいえ、改めて実感するのが、辛い。
「そういえばサイ、あれきりまた和装に戻っちゃったけど、洋装はもうしないの?」
「ええ。こちらの方がしっくりきますので。
ですが、姫様のお望みとあらば別です。あとで着替えて参りましょうか?」
「ううん、いい。
わたしも、お着物を着てるサイの方が、───好き、だから」
「左様ですか。
では、これからも、そうします」
後ろから抱き締めるように、姫様の腕が私の首に回る。
「ごめんね、サイ。
わたしが病気になんてなったせいで、あなたにまで辛い思いをさせて。
いつもいつも、世話をかけるばっかりで、うんざりじゃない?」
私の項に額を埋めながら、姫様が消え入りそうに呟く。
「なにを仰いますか。
私の意思でこうしているのですから、姫様が責を感じる謂れはないのですよ」
「でも、周りからも、色々言われたりするでしょう?
それに、近くにいたら、あなたも……」
「まったく。聞き分けのない方ですね。
私が、貴女といたいんですよ。何度もそうお伝えしたでしょう」
何度目になるだろう。
この状況も、このやり取りも。
数えきれないほど謝罪をされた。
自分が至らなかったばかりにと、自分のせいで迷惑をかけてと、姫様は愁いた。
数えきれないほど説得をした。
これは己の意志だからと、これが己の幸せだからと、私は断じた。
何度も、何度でも。
姫様が落ちれば必ず、私が拾いにいった。
「ご心配なさらずとも、私は丈夫が取り柄ですから。
この鉄の体は、ちょっとやそっとでは壊れませんよ」
おかげで、僅かながら明るさが戻った。
"ごめんね"よりも、"ありがとう"を多くくれるようになった。
それでも、どうしても、どうあっても。
きっと姫様は、二度と、心の底から笑うことは出来ないのだろう。
「ねぇ、サイ。ひとつ聞いてもいい?」
「はい、姫様」
「サイは、わたしのこと、……嫌いじゃ、ない?」
"嫌いじゃない"、か。
好きかどうかではなく、嫌われていないかを気にするあたりが、なんとも姫様らしい。
「嫌いなはずないでしょう。好きですよ、もちろん。
好きだからこそ、共にありたいと思っております」
「……ありがとう、サイ。
本当に、あなたは優しい人。わたしも、サイが大好きよ」
好き。
私は、姫様が好き。
そんな風に口にするのは初めてだが、嘘偽りはない。
姫様が私に想ってくださる以上の好きを、私は姫様に想っている自信がある。
ただ、なんだろう。なにか引っ掛かる。
好きと言って、言われて。妙に、胸がざわつく。
**
懐かしい場所に足が向いた。
以前までの姫様の私室。私と姫様が出会った場所だ。
未だ記憶に新しい。
縁側から臨む庭の景色を、姫様はとても気に入っておられた。
美しかった桜木は雪に隠れてしまったが、冬が明ければまた蕾をつけてくれるだろう。
ちょうど人通りの少ない時分だ。
外からこっそりと眺める分には、隊士や上様の側近たちに露見しないはず。
「姫様、姫様」
庭から一定の距離を置いたところで、歩みを止める。
夢うつつに微睡んでおられた姫様は、私の呼び掛けに顔を上げるなり、はっと恍惚の吐息を漏らした。
「ああ、懐かしいわ。
あそこで過ごした毎日が、やけに遠いものに感じる」
「そうですね。幸せな一時でした。
貴女と出会ったあの日のことを、今も鮮明に覚えていますよ」
「わたしもよ。
はじめてサイを見た時、お伽噺の中から飛び出してきたのかと思った」
「はは。姫様のお手にかかれば、森羅万象に幽玄ありですね」
首周りが白い布地で覆われる。
ご自分の襟巻きを解いた姫様が、余りを分けてくれたようだ。
「冷えたでしょう」
姫様の体温の移った襟巻きは、火鉢よりも温かかった。
「ありがとうございます。とても、あたたかいです」
今が、永遠に続けばいいのに。
刹那的な感傷に浸りながら、姫様の香りに包まれる。
春でも、冬でも。
私にとって姫様は、不易の万年桜だ。
「───そろそろ戻りましょうか。長居はお体に障ります」
「そうね」
庭を後にし、帰途に就く。
すると姫様は、いっそう強く、私を抱き締めた。
「サイ。
また一緒に、二人で、あの桜を見たいね」
希望と諦めが入り混じった声だった。
また一緒に、桜を見たい。
無論、私とて同じ気持ちだ。
あの庭で、あの縁側で、二人で。
木漏れ日に踊る花びらを慈しんだ、あの頃に戻れたなら、どんなに良いか。
同じだとも。
希望も、諦めも、両方。
姫様の抱く気持ちと、寸分違わず。
"玉月さん"。
また一緒に、二人で、本物の桜を。
その時まで、果たして姫様は無事でいられるだろうか。
次の春まで、生きていられるだろうか。
医師の見立てによれば、猶予はある。
だが、近頃の病状を鑑みるに、楽観はできない。
きっと大丈夫と、いつか治ると、嘘でも嘯いてやることさえ。
「─────、」
頬に涙が伝う。
両手が塞がっているせいで拭えず、溢れた涙は顎から滴り、雪原を濡らしていく。
いけない。
姫様に私の泣き顔を見られてはいけない。悟らせてはいけない。
俯いて奥歯を噛み、徒歩に意識を集中させる。
鶯色の瞳が覗き込んでくれるなと、傍らに願いながら。
"───桜、というのですよ"。
熱くなった目頭が、つんと痛み始める。
止めようのない鼻水が、だらだらと垂れてくる。
口を噤み、息を殺し、ぐしゃぐしゃになった顔のまま、歩き続ける。
他の誰に見付かってもいい。
指を差して笑われようともいい。
姫様が目を瞑っていてくれるなら、腑抜け腰抜けと謗りを受けて構わない。
"はじめて見たけれど、とても綺麗な花───"。
どうして。
どうして、彼女なのですか。
この世には、悪行の限りを尽くす奸物どもが、蔓延っているというのに。
そやつらは今なお、人々の上で胡座をかき、私腹を肥やしているというのに。
なぜ、姫様なんだ。
なぜ、病は姫様を選んだ。
これは一体なんの罰で、だとすれば一体なんの罪だというのか。
もっと業深く、人ならざる者が、すぐ側にいるだろう。
呪うなら私を呪えばいい。殺すなら私を殺せばいい。
不幸になるべきは私だ。
私が代わりに苦しむことで姫様を救えるのなら、喜んで嬲られよう。
私の寿命を姫様に分け与えることが叶うのなら、感謝して首を差し出そう。
ああ、神よ。仏よ。
終ぞ、あなたに祈りはしなかったけれど。
本当にそこで、天から我々を見下ろしておられるのなら。
どうか、この人を殺さないで。連れて行かないで。
私から姫様を、奪わないでください。
「ええ、姫様。
来年も、再来年も、その先もずっと、ずっと。
また二人で、一緒に、桜を見ましょうね」
時が経てば整理もつくなんて、嘘だ。
時が経つほど、終わりが迫るほどに、姫様への執着は増していく。
覚悟なんてできない。姫様と離れたくない。
私は姫様を、ウキさんを、失いたくない。
『高嶺の花』