;第十四話 また一緒に、二人で、あの桜を見たいね
十二月、冬。
外ではしんしんと雪が降り積もり、息を吐けばこんこんと白い靄が舞う。
骨の髄まで凍てつくような、蝦夷では最も厳しいとされる季節こそが、冬だ。
私は今、姫様の寝所へと向かっている。
以前とは別の、新しい彼女の部屋である。
本丸の離れ、長い渡り廊下の先に設けられた見世蔵。
何人も寄り付かない、暗く冷たく淋しい場所。
人呼んで、"開かずの間"。
安政の終わりまでは、罪人を軟禁する座敷牢として使われていた其処で、彼女は過ごしている。
「───私です」
入口の戸前を叩き、中に向かって声をかける。
返事を聞いて、中に入る。
「失礼します」
完璧な静寂。
家事に勤しむ女中たちの足音も、広間で語らう上様の話し声も。
あらゆる音が、ここには届かない。
まるでこの世には、姫様と私の二人しかいないような錯覚を覚えるほどに。
「替えの布団をお持ちしました。火鉢の具合はどうです?」
「ふふ、サイったら本当に心配性。
さっき確認してくれたばかりじゃない」
「そうですよ。私は心配性なんです。
私が鈍いばかりに、姫様を水火に取り残すようなことがあっては大変だ」
「もう、大袈裟なんだから。
……暖かくて、とても心地いいわ。ありがとう」
「それは良かった」
すべてが夢か幻だったのでは。
こうして何気ない言葉を交わすたび、己に都合の良い錯覚もまた覚えそうになる。
姫様が病に冒されていることも、私が姫様の世話役でなくなったことも。
目には見えないだけで、着実に刻まれているというのに。
***
あの時、私は初めて、上様の命に逆らった。
「───そなたが唯桜の世話をする必要はなくなった。
城を護る用心棒として、本来の務めに戻れと、そう言っているだけではないか」
「致しかねます」
説得を無視し、隷従を拒否し、何度も噛み付き食い下がった。
聞き入れてもらえないのであれば、この場で自決すると啖呵まで切った。
無論そんなつもりはなかったが、当時の上様の様相といったら、それはそれは見物だった。
所有物としか思っていない臣下に手向かわれる、ましてや自面尽くで撥ね付けられるなど、いずれにしても前代未聞だ。
その衝撃たるや、私の想像の更に上をいったことだろう。
「難儀だな。
そうまでして無駄骨を折りたい理由が、私には解せん」
雪竹城はじまって以来の珍事。
これで上様の怒りを買えば、当日の晩には私の首は落とされていたかもしれない。
「───火の粉を浴びるは元より承知。
ですが私は、あの御方に付き従っていたいのです」
「───誅罰をお与えになるのでしたら、どうぞ。
いかなる仕打ちも甘んじて受けます」
「───私の望みはただ一つ。
最期を迎えられるその時まで、あの御方の目に映っていたい。
それだけです」
私以上に姫様を労れる者はいない。
私以外に姫様の世話役は務まらない。
こちらの我を通すためには、上様の感情は度外視するしかなかった。
「そんな顔をしてくれるな。
そなたに腹を切られては、私も寝覚めが悪い」
"本業の片手間とするなら、唯桜姫への奉仕を許す"。
頑として譲らない私に呆れてか、最後には上様も観念してくれた。
とはいえ、名目での任は解かれてしまった。
私が姫様にお仕えする義務はなくなり、姫様も私に世話をかけることを良しとはしていない。
むしろ、私を突き放す大義名分ができたと、快諾さえするかもしれない。
「空威張りでないこと、働きで証明してみせよ」
「……必ずや」
だが、物は考えようでもある。
義務でなくなった以上、今後は規範に則らずとも良い。
本業を疎かにしない範囲でなら、私の意思で姫様のお側に居られるというわけだ。
たとえ、当の姫様が離隔を望むとしても。
姫様のためにならない望みには、耳を貸してやらない。
私を神妙にさせたくば、こちらも大義名分を要求するまでだ。
「(あの男の業突張りも、たまには役に立つ。
姫様の負い目が薄まるよう、せいぜい憎まれ役に励んでくれよ)」
ちなみに姫様は、裏でそのような悶着があったことを露知らない。
義務を果たしているだけと誤解されたままで、私は一向に構わない。
***
「───サイが戻るまでにね、麻菊さんがこちらに見えていたのよ」
「菊姫様が?お一人でですか?」
「ううん、小姓の人を連れて。
いろいろ話を聞かせてくれてね、楽しかった。
……といっても、面と向かって会うことは出来ないから、そこの戸を隔てて、なんだけど」
「そうですか。
姫様が楽しかったのであれば、私も嬉しいです」
「お見舞い品もいくつか頂いてね、みんなからって。
あ、それと────」
「なんです?」
「このところ、わたしに付きっ切りで寂しいから、たまには縁の間にも顔出しなさい、だって。
愛されてるわね、サイ」
「からかわないでください。
いい手遊びにされているだけですよ」
「数少ない娯楽に、サイとの交流を選ぶなら、やっぱり愛されてる証拠ではなくて?」
「……そうですね。機会があれば、あちらにも参上するとしますよ。
姫様に構ってもらえなかった時にでも」
「ふふふ」
"───肺病を患った女なんて、置いていても得はないわ"。
"用済みと追い出されなかっただけ、むしろ有り難いこと。
"おかげで、わたしは生きている。
上様の情けに、感謝しなくてはね───"。
本日を以て、貴女の待遇は変わります。
今後の方針をお伝えした際にも、姫様は落ち着いた様子でそう答えた。
情け?感謝?有り難いこと?
あの男に、人の心が理解できようものか。
病気をもらうのは恐ろしいが、姫様ごと手放すのも惜しいからと、差し当たり講じた措置に過ぎないのだ。
仮にも一度は、寝食を忘れるほどに熱を上げた相手なのだから。
しかし、姫様は嘆かない。
家畜にも等しい扱いを受けてなお、彼女は誰のことも恨もうとしない。
「今朝は気分がいいの。
久しぶりに外を歩いてみたいんだけど、だめかな?」
どうしてそんなに、真っさらでいられる。
この聡明さは、達観ぶりは、あどけない少女のそれではない。
大人になった。違う。大人にならざるを得なかったのだ。
ひとたび嘆いてしまえば、沼に足を取られるように、身動きが出来なくなる。
それを姫様は分かっていた。だから姫様はよく笑う。
心は泣いていても、無理にでも笑顔を作る。そうして自分を保っている。
姫様は強い。姫様は賢い。
私にとって最も尊敬すべき人で、最も感心ならない生き方をしようとする。
私は、姫様を泣かせたい。
抱える毒を余さずぶちまけて、声を上げて泣きじゃくってほしい。
史上最も醜い貴女を、私だけに晒してほしい。
「いいですよ。
しっかり防寒して、二人で雪原を歩きましょうか」
ねえ、姫様。
どうすれば貴女の痛み苦しみを、私に分けてくださいますか。