;第十三話 幻であったなら 2
姫様の吐血事件より六日後。
一刻千秋と待ち侘びた医師が、ようやく城へ罷り越した。
念入りの診察を終え、気付けば逢魔が時。
早くも床に就かれた姫様は、久しく穏やかな寝息を立てている。
私は離れの別室にて、先んじて結果を聞かせてもらうことにした。
上様にお知らせするのは、もう暫く後回しだ。
「───労、咳……?」
「うん。
これまでの症状といい、今度の吐血といい。
ほぼ、間違いないと思う」
どうか、先日の出来事が偶然でありますように。
必然性があっても、一過性であってくれますように。
猛る心臓に鞭打ち、私は何度も祈った。
医師から突き付けられたのは、容赦のない現実だった。
「労咳のこと、君は知っているかい?」
「……大要の、ところは」
「そうか……。
今はまだ初期の段階だが、彼女の場合、酷く進行が速いようなんだ」
「ど、して……っ。何故これほど急に!?
姫様の周りに労咳を患う者はいなかった。なのにどうして……!」
「当節でなくとも、過去にはあったんだろう。無症状の保菌者が身内にいたとかね。
そこで彼女も、知らず知らずと……」
「だったら───。だったら、その時に発症していないのは何故ですか?どうして今頃になってそんなもの……!」
「逸らないで。ちゃんと説明するから」
狼狽のあまり、私は医師に詰め寄った。
医師は尚も落ち着いた調子で、詳しい見立てを教えてくれた。
「玉月くん、だったね」
「はい」
「君は彼女のお世話役、なんだよね?」
「はい」
「世話をするのが仕事なら、常に、彼女の側にいたわけだ」
「はい、毎日」
「だから聞くが……。
ここ最近になって、彼女自身に、変わったことは無かったかい?」
「いつから体調を崩されていたか、ということですか」
「それもだけど、もっと広い範囲の……。
何か、彼女がとても落ち込んだり、悲しんだりするようなことは無かったかな」
落ち込んだり、悲しんだりするようなこと。
医師の核心的な物言いに、私ははっとさせられた。
ここ最近で姫様を苦しめた原因といえば、他にない。
「(上様と、褥を共にした時から……?)」
思えば、あの日から様子がおかしかった。
ひだまりのようだった笑顔は暗雲に翳り、鶯色の瞳には覇気が宿らなくなっていった。
それを私は、気持ちが沈んでいるせいだろうと解釈した。
時が経てば、本来の明るさを取り戻してくれるだろうと浅慮していた。
あの頃には、終わらない悪夢が始まっていたというのか。
あれほど近くにいながら、察することも出来なかったというのか。
私は、あれほど、近くにいながら。
「───なるほど。
確かに、十五歳の女の子には、酷だったかもしれないね」
「私は気付いていました。彼女の様子が妙だと。
気付いていたのに、それが兆候であることに気付けなかった……!」
「自分を責めちゃ駄目だ、玉月くん。
初めて性交渉をした女の子が、それをきっかけに体調を悪くしたり、精神的に不安定になるのは、よくあることだ。
今までの彼女だって、そう思われても不思議じゃない」
「でも、でも……。
もっと早くに判明していれば、もっと───」
「いずれにせよ、避けられなかった事態だ。
嘆くよりも、今後どうすべきかを第一に考えよう」
全身が氷のように冷たい。
優しく宥める医師の声が、耳に入って頭に入らない。
逸るな。喚くな。冷静になれ。
なってしまったものは、もう取り消せない。
医師の言うように、嘆くよりもまず、今後どうすべきか。
どうすれば姫様の病を、一日でも長く食い止められるかを、第一に考えなくては。
そう、頭では理解しているのに。
溢れ返る雑音に邪魔されて、悪い想像ばかりを繰り返してしまう。
姫様が、労咳。労咳、労咳。
じゃあ、近い将来、彼女は────。
「元々は、田舎の生まれなんだよね?
お城へ嫁ぎに来たのは何時頃?」
「初めて、お見えになられてからは……。
およそ五ヶ月、でしょうか」
「うーん、なるほど……」
医師いわく、病の発症が遅れたのには、ふたつの理由が考えられるという。
ひとつは、環境の変化。
慣れない城暮らしで気が休まらず、延いては、菌に対抗する力も衰えてしまったのではないか。
故郷や家族との別離が、本人の自覚以上に心痛であったかもしれない、ということだ。
もうひとつが、急激な体力の摩耗。いわゆる過労だ。
日増しに窶れていく姫様を無視し、上様は我欲で彼女を求め続けた。
やがて彼女は疲れ果て、あげく陰部に炎症まで起こしてしまった。
これを過労とせず、なんとする。
初めての晩以来、私は二人の褥に立ち会っていない。
控え役は、他の者に任せてある。
まさか、愛籠しているはずの彼女にさえ、手心を加えてやらなかったなんて。
あの男の狼藉には、つくづく反吐が出る。
「まともに食事も、休息もとれていなかったようだし……。
誘因を上げだしたら切りがないよ」
「彼女は、───姫様は、ずっと、隠しておられたということですか。
本当はずっと苦しかったはずなのに、耐えて……」
「そうだね。彼女は強い子だ。
けど、いくら我慢しても、進行は止められない。
今の医学じゃ、労咳は治せないんだ」
私はごくりと生唾を飲み込み、叶うなら聞きたくない答えを医師に促した。
「余命は?」
「……経過にもよるけど、二年、ってところかな。
栄養のあるものをしっかり食べて、安静にすれば、あるいはもっと長く」
二年。
そのうち、彼女が元気でいられるのは、あとどのくらいだろう。
労咳は、治らない。決して癒えることのない病だ。
天寿が削れていくのを感じながら、いずれ来たる死をただ待つしかない。
当人も、周りの誰も彼も。
おまけにそれは、人に感染する。
姫様の処遇が目に浮かぶようで、私は胸が引き裂かれる思いがした。
"───サイさんが側にいてくれて、わたしを見ていてくれるから、だから、こうして笑っていられるんです"。
"───わたし、サイさんが好きよ。
サイさんがわたしを嫌いでも、わたしは好き"。
"───サイ。今日までわたしを支えてくれて、ありがとう。
どうか、これからも側にいて。わたしに元気をちょうだいね"。
姫様が、死んでしまう。
いつか、彼女の笑顔を見られない日が、彼女の声を聞けない日がくる。
こわい。
どうして彼女なんだ。
天はなぜ、彼女を見放してしまったのか。
「いいかい、玉月くん。
分かっていると思うが、労咳は感染する病だ。
彼女の側に居続ければ、遠からず、君もそうなってしまうかもしれない。
それでも君は────」
「構いません。誰がなんと言おうと、私は姫様のお側にいます」
「……絆が深まるほど、後が辛いよ?」
医師が私の肩を強く掴む。
「あの子の運命を見届ける覚悟が、君にあるかい?」
覚悟はあるか、などと。
そんなもの、あるに決まっている。
きっと彼女には私が必要で、私にも彼女が必要なのだ。
果てに待ち構えるは、たとえ地獄でも。
語り草にもならない悲劇に終わるとしても。
私は変わらず姫様の、ウキさんの側にいたい。
「私は、私のすべてを、あの人に捧げたい」
たった今この瞬間から、私の生きる目的が変わった。
単にお仕えするだけでは足りない。
私の全身全霊を懸けて、彼女の残り少ない日々を豊かにする。
短くとも実りある人生だったと、温かな最期を迎えられるように。
ありったけの愛情と幸福を、彼女に注いでやりたい。
「あの人は、私のすべてなんです」
私は、姫様に救っていただいた。
今度は私が、その恩に報いる番だ。
二度と、迷いはしない。
『零れ桜』




