;第十三話 幻であったなら
秋のごとく冷夏から、いよいよ秋本番に移り変わる頃。
姫様の体調に、異変が起きた。
微熱が続き、全身の気怠さに魘され、時には吐き気を訴える。
その典型的な症状ゆえ、晴れてご懐妊の兆しかと、誰も彼もが先走る中。
私はどうしても、例の不安が付き纏ってならなかった。
新たな命の芽生え。
果たして本当にそうだろうか。
発熱や疲労感だけじゃない。
先日より、姫様が苦しげに咳込む姿を見かけるようになったのだ。
季節的に風邪かとも思ったが、ただの風邪にしては様子がおかしい。
悪阻にしても時期が早いし、もっと重要な何かを見落としている気がした。
「───上様。
急ぎ、お伝えしたいことが御座います」
医師の診断を仰ぐべきだと、私は上様に提言した。
上様は二つ返事で聞き入れてくれたが、上様の権力を以てしても、今日明日には難しいそうだった。
なんでも、巷で流行り始めた感染症に応じるべく、ここいらの医師は殆ど出払ってしまったのだという。
姫様の一大事に、なんと間の悪いことだ。
舌を打ったところで、私に医師の役目は務まらない。
感染症とやらを治める術も知らない。
どうか、一刻も早く。
腕に覚えがあるなら、もう誰でも構わないから、彼女を診てやってほしい。
そして、彼女を蝕む影の正体を暴き、それを取り去ってやってほしい。
願いも虚しく、応えてくれる某は、現れてくれなかった。
***
体調を崩されている間は湯浴みが出来ないので、私がお体を拭いて差し上げよう。
必要の道具を抱え、姫様の私室へ向かっていた時だった。
「───あ、才蔵!」
ふと、背後から女性に呼び止められた。
振り返ると、神妙な面持ちをした麻菊様が、こちらに歩み寄ってきた。
彼女もまた、馴染みのない包みを抱えている。
「菊姫様ではありませんか。どうされました?」
「……ねぇ才蔵。
あなた今から、あの子のところへ行くのよね?」
辺りを警戒した麻菊様が、声を潜めて尋ねる。
危険を承知で、一人で縁の間から抜け出してきたようだ。
「はい。唯桜姫様の寝所へ伺うところですが……。
何か不都合でも?」
「いえ、大した用ではないのだけど……。
私たち今、あの子には近付くなって言われているじゃない?
だから、代わりにあなたから渡してほしいと思って」
麻菊様の言葉通り、側室の乙女らは、姫様との接触を禁じられている。
詳しい理由は定かでないが、上様が直々に御達示になったのだそうだ。
姫様が患われて以降の措置ならば、双方の身を案じたとも考えられる。
しかし実際は、姫様の輿入れが決まった当初から、交流自体を禁じられていた。
おおかた、古参の側室たちに自分の汚点を告げ口されるのでは、などと危惧したのだろう。
あの男の思い付きそうなことだ。
「荷物を増やしちゃうのは悪いんだけど、───これを」
麻菊様が抱えていた包みを解く。
「これは……」
「作ったのよ。
といっても、私はただ提案をしただけで、仕上げたのは藤達なんだけどね」
「では、皆さんで協力して……?」
「そう。
───あの子、最近ずっと臥せってるらしいじゃない。だから、せめて何か、してあげられないかと、思って。
私だけじゃないわ。みんな本当に心配してるのよ」
亀甲柄の風呂敷から取り出されたのは、立派な襟巻きだった。
白地に桜の刺繍が施された仕上がりは、まるで雪原に季違いの桜が降り積もっているかのようで、息を呑むほど美しい。
私は持参の桶と手拭いを左手に持ち、空いた右手で襟巻きの桜刺繍に指を這わせた。
「なるほど。唯桜の名に因んで、ですか」
中でも藤丸様と宵桔梗様は、織り物や編み物が達者であると聞く。
とはいえ、ここまでの傑作をとなると、彼女らも骨が折れたはずだ。
相手を労る優しさあればこそ。
長らく孤立していた姫様が、今やたくさんの人から思い、思われている。
「ありがとうございます。
お心遣い、まこと痛み入ります」
私は彼女らの優しさが我がことのように嬉しく、込み上げそうになるのをぐっと堪えた。
「こちらは是非、菊姫様てずから、唯桜姫様にお渡しになってください」
「えっ、それは……。
───駄目よ。私には出来ない。才蔵が渡して」
俄に狼狽えだした麻菊様は、私に襟巻きを押し付けた。
私は首を傾げつつ、風呂敷ごと受け取った。
「何故です?見舞い品を届けるくらいは、別に構わないはずでしょう?」
「そう、だけど……。いいのよ。私が行くより、あなたからの方が、きっとあの子も喜ぶ。
それに───」
"私、あの子に会わせる顔がないのよ"。
拳を抱いた麻菊様は、ばつが悪そうに顔を背けた。
私は彼女の言わんとしたことを汲み、掘り下げるのをやめた。
沙蘭様によれば、私が城を離れていた期間に、麻菊様と姫様とで諍いがあったとのこと。
麻菊様としては、姫様への慰労と罪滅ぼし、どちらの意義も強いのだろう。
だったら尚更、直接お会いになれば良いのに。
残念ながら彼女は、こうと決めたら梃でも動かない人だ。
いずれ接触禁止の令が緩和されたら、改めて機会を設けてやるとしよう。
「承知しました。
唯桜姫様には、私から委細、お伝えしておきます」
「そうしてもらえると助かるわ」
「後ほど改めて、皆様にお礼をしに、そちらへ伺いたいのですが……。
よろしいですか?」
「もちろん。
あんたが来るとなれば、桔梗や椿なんかは浮かれて、てんてこ舞いでしょうね。
───あ、あと百合から伝言」
「百合姫様から……?なんでしょう?」
先程とは違う意味で、麻菊様が更に声を潜める。
「もし、本当に子供が出来たんだとすれば、色々と相談に乗ってやれるから、って」
「……そうですか。それは心強い」
白百合様、梅宮様、藤丸様は、上様のご子息・ご息女を出産なさっている。
本当に姫様が懐妊されたとすれば、御三方の存在はとても頼りになる。
「残念ですが、もう行かなくては。
近頃は冷えますので、菊姫様もご自愛なさってくださいね」
失礼ながら、こちらで話を切り上げる。
挨拶を済ませ、踵を返す。
「才蔵」
すると今度は、羽織りの裾を捕まえられた。
私は再び立ち止まり、再び振り返った。
「───ん、はい?」
麻菊様は物言いたげに、そわそわと目を泳がせていた。
僅かに頬が赤らんでいるが、一体どうしたのか。
「あ、の……。
才蔵、は……。あの子のこと、どう、思っているの」
「は───。
どう、と申されますと?」
「言葉通りよ。
随分と親しいようだし、その……。
年頃の男女が、といえば、───あるじゃない。色々と」
そういうことか。
麻菊様は、私の素性をご存知でない。
女同士だからこそ、私が姫様の世話役を仰せつかった経緯も、とうぜん知らない。
つまり麻菊様は、私と姫様が男女の仲ではと。
主従を越えた絆によって、私と姫様は結ばれているのではと、お考えなわけだ。
なぜ彼女が、そんな勘繰りをするのか。
真意は不明だが、誤解されたままでは今後が気まずい。
「もちろん、お慕いしておりますよ。我が君にあらせられますので」
「そう、だろうけど……。
そういうんじゃなくて、もっとこう、私が聞きたいのは───」
形ばかりの問答と悟ったのか、麻菊様は二の句を飲み込んだ。
「なんでもないわ。さっきのは忘れてちょうだい」
「はい」
「あの子のこと、あなたがしっかり支えてあげなさい」
「……はい」
最後に私の背中を軽く押すと、麻菊様は来た道を戻って行った。
彼女の真意は、とうとう明らかにされなかった。
代わりに、私の懸念が一つ解消された。
「急ごう」
麻菊様の心変わり。
いや、心を入れ替えたとする方が正しいか。
一人の女として。同じ苦難を分かつ者として。
姫様を疎んでいたはずの彼女が、対等に姫様と向き合おうとしている。
私以外にも、姫様の味方をしてくれる人ができた。
久方ぶりの吉報に、少しは姫様も元気を取り戻してくださるはずだ。
「(待てば甘露の日和あり。
今が辛くとも、越えればきっと───)」
はやく、はやく教えて差し上げたい。
貴女は孤独じゃないのだと。明日からはきっと、楽しいこともあると。
弾む足取りで、姫様の私室へ。
「───、──、─……!」
障子戸が見えた。
微かな音と、僅かな熱と、本人の気配。
近付くにつれ、壁越しの空気が伝わってくる。
身の毛の弥立つ報せ。姫様が咳込む声だ。
またか。私が目を離した隙に、また発作が始まったのか。
姫様のお側に。強張る背中を摩ってやらねば。
声に焚き付けられるようにして、こちらの歩調も慌ただしくなっていく。
部屋の前に着いた。
入室の許可を得ている暇はない。
入ります、と一方的に告げ、障子戸を引く。
「姫様。だいじょ、う────」
そこにいたのは、姫様だった。
小さな口を両手で覆い、重く湿っぽい咳を繰り返す姫様は、赤い血に濡れていた。
姫様の膝に掛かった布団は、滴る血の受け皿となって、歪な斑模様を描いていた。
ああ、そんな、まさか。
「姫様────!!」
持参の桶が床に落ち、静寂の廊下に響き渡る。
零れた湯が水飛沫となり、不穏と共に拡散されていく。
幻であってほしかった。
意地の悪い冗談であったなら、怒りながら許してやれた。
たった一滴。されど一撃。
齎された不穏が、後に取り返しのつかない波紋を生じさせてしまうことを、私たち以外にまだ、誰も知らない。