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現し世は桜花の化身  作者: 和達譲
;サイ編 桜花の章
38/75

;第十三話 幻であったなら



秋のごとく冷夏から、いよいよ秋本番に移り変わる頃。

姫様の体調に、異変が起きた。


微熱が続き、全身の気怠さに魘され、時には吐き気を訴える。

その典型的な症状ゆえ、晴れてご懐妊の兆しかと、誰も彼もが先走る中。

私はどうしても、例の不安が付き纏ってならなかった。


新たな命の芽生え。

果たして本当にそうだろうか。


発熱や疲労感だけじゃない。

先日より、姫様が苦しげに咳込む姿を見かけるようになったのだ。

季節的に風邪かとも思ったが、ただの風邪にしては様子がおかしい。

悪阻にしても時期が早いし、もっと重要な何かを見落としている気がした。




「───上様。

急ぎ、お伝えしたいことが御座います」




医師の診断を仰ぐべきだと、私は上様に提言した。

上様は二つ返事で聞き入れてくれたが、上様の権力を以てしても、今日明日には難しいそうだった。

なんでも、巷で流行り始めた感染症に応じるべく、ここいらの医師は殆ど出払ってしまったのだという。


姫様の一大事に、なんと間の悪いことだ。

舌を打ったところで、私に医師の役目は務まらない。

感染症とやらを治める術も知らない。


どうか、一刻も早く。

腕に覚えがあるなら、もう誰でも構わないから、彼女を診てやってほしい。

そして、彼女を蝕む影の正体を暴き、それを取り去ってやってほしい。



願いも虚しく、応えてくれる某は、現れてくれなかった。




***


体調を崩されているあいだは湯浴みが出来ないので、私がお体を拭いて差し上げよう。

必要の道具を抱え、姫様の私室へ向かっていた時だった。




「───あ、才蔵!」



ふと、背後から女性に呼び止められた。

振り返ると、神妙な面持ちをした麻菊様が、こちらに歩み寄ってきた。

彼女もまた、馴染みのない包みを抱えている。



「菊姫様ではありませんか。どうされました?」


「……ねぇ才蔵。

あなた今から、あの子のところへ行くのよね?」



辺りを警戒した麻菊様が、声を潜めて尋ねる。

危険を承知で、一人で縁の間から抜け出してきたようだ。



「はい。唯桜姫様の寝所へ伺うところですが……。

何か不都合でも?」


「いえ、大した用ではないのだけど……。

私たち今、あの子には近付くなって言われているじゃない?

だから、代わりにあなたから渡してほしいと思って」




麻菊様の言葉通り、側室の乙女らは、姫様との接触を禁じられている。

詳しい理由は定かでないが、上様が直々に御達示になったのだそうだ。


姫様が患われて以降の措置ならば、双方の身を案じたとも考えられる。

しかし実際は、姫様の輿入れが決まった当初から、交流自体を禁じられていた。


おおかた、古参の側室たちに自分の汚点を告げ口されるのでは、などと危惧したのだろう。

あの男の思い付きそうなことだ。




「荷物を増やしちゃうのは悪いんだけど、───これを」



麻菊様が抱えていた包みを解く。



「これは……」


「作ったのよ。

といっても、私はただ提案をしただけで、仕上げたのはふじ達なんだけどね」


「では、皆さんで協力して……?」


「そう。

───あの子、最近ずっと臥せってるらしいじゃない。だから、せめて何か、してあげられないかと、思って。

私だけじゃないわ。みんな本当に心配してるのよ」




亀甲柄の風呂敷から取り出されたのは、立派な襟巻きだった。

白地に桜の刺繍が施された仕上がりは、まるで雪原に季違いの桜が降り積もっているかのようで、息を呑むほど美しい。


私は持参の桶と手拭いを左手に持ち、空いた右手で襟巻きの桜刺繍に指を這わせた。



「なるほど。唯桜の名に因んで、ですか」



中でも藤丸様と宵桔梗様は、織り物や編み物が達者であると聞く。

とはいえ、ここまでの傑作をとなると、彼女らも骨が折れたはずだ。


相手を労る優しさあればこそ。

長らく孤立していた姫様が、今やたくさんの人から思い、思われている。




「ありがとうございます。

お心遣い、まこと痛み入ります」



私は彼女らの優しさが我がことのように嬉しく、込み上げそうになるのをぐっと(・・・)堪えた。



「こちらは是非、菊姫様てずから、唯桜姫様にお渡しになってください」


「えっ、それは……。

───駄目よ。私には出来ない。才蔵が渡して」



俄に狼狽えだした麻菊様は、私に襟巻きを押し付けた。

私は首を傾げつつ、風呂敷ごと受け取った。



「何故です?見舞い品を届けるくらいは、別に構わないはずでしょう?」


「そう、だけど……。いいのよ。私が行くより、あなたからの方が、きっとあの子も喜ぶ。

それに───」




"私、あの子に会わせる顔がないのよ"。


拳を抱いた麻菊様は、ばつが悪そうに顔を背けた。

私は彼女の言わんとしたことを汲み、掘り下げるのをやめた。


沙蘭様によれば、私が城を離れていた期間に、麻菊様と姫様とで諍いがあったとのこと。

麻菊様としては、姫様への慰労と罪滅ぼし、どちらの意義も強いのだろう。


だったら尚更、直接お会いになれば良いのに。

残念ながら彼女は、こうと決めたら梃でも動かない人だ。

いずれ接触禁止の令が緩和されたら、改めて機会を設けてやるとしよう。




「承知しました。

唯桜姫様には、私から委細、お伝えしておきます」


「そうしてもらえると助かるわ」


「後ほど改めて、皆様にお礼をしに、そちらへ伺いたいのですが……。

よろしいですか?」


「もちろん。

あんたが来るとなれば、桔梗や椿なんかは浮かれて、てんてこ舞いでしょうね。

───あ、あと百合から伝言」


「百合姫様から……?なんでしょう?」



先程とは違う意味で、麻菊様が更に声を潜める。



「もし、本当に子供が出来たんだとすれば、色々と相談に乗ってやれるから、って」


「……そうですか。それは心強い」



白百合様、梅宮様、藤丸様は、上様のご子息・ご息女を出産なさっている。

本当に姫様が懐妊されたとすれば、御三方の存在はとても頼りになる。



「残念ですが、もう行かなくては。

近頃は冷えますので、菊姫様もご自愛なさってくださいね」



失礼ながら、こちらで話を切り上げる。

挨拶を済ませ、踵を返す。



「才蔵」



すると今度は、羽織りの裾を捕まえられた。

私は再び立ち止まり、再び振り返った。



「───ん、はい?」



麻菊様は物言いたげに、そわそわと目を泳がせていた。

僅かに頬が赤らんでいるが、一体どうしたのか。



「あ、の……。

才蔵、は……。あの子のこと、どう、思っているの」


「は───。

どう、と申されますと?」


「言葉通りよ。

随分と親しいようだし、その……。

年頃の男女が、といえば、───あるじゃない。色々と」



そういうことか。

麻菊様は、私の素性をご存知でない。

女同士だからこそ、私が姫様の世話役を仰せつかった経緯も、とうぜん知らない。


つまり麻菊様は、私と姫様が男女の仲(・・・・)ではと。

主従を越えた絆によって、私と姫様は結ばれているのではと、お考えなわけだ。


なぜ彼女が、そんな勘繰りをするのか。

真意は不明だが、誤解されたままでは今後が気まずい。




「もちろん、お慕いしておりますよ。我が君にあらせられますので」


「そう、だろうけど……。

そういうんじゃなくて、もっとこう、私が聞きたいのは───」



形ばかりの問答と悟ったのか、麻菊様は二の句を飲み込んだ。



「なんでもないわ。さっきのは忘れてちょうだい」


「はい」


「あの子のこと、あなたがしっかり支えてあげなさい」


「……はい」




最後に私の背中を軽く押すと、麻菊様は来た道を戻って行った。


彼女の真意は、とうとう明らかにされなかった。

代わりに、私の懸念が一つ解消された。



「急ごう」



麻菊様の心変わり。

いや、心を入れ替えたとする方が正しいか。


一人の女として。同じ苦難を分かつ者として。

姫様を疎んでいたはずの彼女が、対等に姫様と向き合おうとしている。


私以外にも、姫様の味方をしてくれる人ができた。

久方ぶりの吉報に、少しは姫様も元気を取り戻してくださるはずだ。



「(待てば甘露の日和あり。

今が辛くとも、越えればきっと───)」



はやく、はやく教えて差し上げたい。

貴女は孤独じゃないのだと。明日からはきっと、楽しいこともあると。

弾む足取りで、姫様の私室へ。




「───、──、─……!」



障子戸が見えた。

微かな音と、僅かな熱と、本人の気配。

近付くにつれ、壁越しの空気が伝わってくる。


身の毛の弥立つ報せ。姫様が咳込む声だ。

またか。私が目を離した隙に、また発作が始まったのか。

姫様のお側に。強張る背中を摩ってやらねば。


声に焚き付けられるようにして、こちらの歩調も慌ただしくなっていく。



部屋の前に着いた。

入室の許可を得ている暇はない。

入ります、と一方的に告げ、障子戸を引く。




「姫様。だいじょ、う────」




そこにいたのは、姫様だった。

小さな口を両手で覆い、重く湿っぽい咳を繰り返す姫様は、赤い血に濡れていた。

姫様の膝に掛かった布団は、滴る血の受け皿となって、歪な斑模様を描いていた。


ああ、そんな、まさか。




「姫様────!!」




持参の桶が床に落ち、静寂の廊下に響き渡る。

零れた湯が水飛沫となり、不穏と共に拡散されていく。


幻であってほしかった。

意地の悪い冗談であったなら、怒りながら許してやれた。


たった一滴。されど一撃。

齎された不穏が、のちに取り返しのつかない波紋を生じさせてしまうことを、私たち以外にまだ、誰も知らない。



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