;第十二話 現し世の泉 2
「恋、とは……。いわゆる恋慕の情、ですよね?
ひとえに契りを結ぶのではなく、もっと複雑で、真心を尽くした……」
「そうね。
今までに一度でも、───この人となら、共に身投げをしても構わないと思えるくらい、焦がれた相手はいる?」
身投げをしても、というのは恐らく、現し世の泉に準えての暗喩と思われる。
今の姫様が口にするには、如何せん生々しい表現だった。
「いませんよ。私にそのような相手は、後にも先にも現れない」
「本当に?
一度でも、一瞬でも、この人なら、って感じたことはない?」
「残念ながら。
露命を繋いで手一杯の日々でしたから、色事に現をぬかす余裕なんて、とても」
「そう……。そうよね。
ごめんなさい、不躾なことを聞いて」
「いいえ。姫様の方こそどう────」
"姫様の方こそ、どうなのですか"。
聞き返そうとして、私は口をつぐんだ。
人柱同然で嫁がされた姫様に、恋い焦がれる相手はいるか、などと。
それこそ、不躾も甚だしい。
「……駄目ですね。慣れない話をすると、変に浮わついてしまって。
お恥ずかしい」
「………。」
どうしてしまったんだ、私は。
何事にも動じぬ、冷血さが売りだったはずなのに。
姫様を側でお支えできれば、他には望まなかったはずなのに。
「(馬鹿者が)」
お一人で虚空を仰がれる姿には、どうしても。
胸が痛んで、心が乱れて、平静ではいられなくなる。
何事も手に付かなくなるほど、私的な感情に揺さぶられる。
肝心な時に限って、私は。
「───いるよ」
「え?」
「わたしの方はどうかって、さっきの。
わたしは、いるよ」
私の濁した茶を、一息で飲み干すように。
いずこに御座す人へ、想いを馳せるように。
響きの良い低い声で、穏やかな笑みを湛えながら、姫様は語りだした。
「正しくは、いた、かな。
この人になら、わたしの全てを捧げていいと思った。この人さえいてくれるなら、他には何もいらなかった。
……わたしも経験ないから、これが本当に恋なのかは、自信を持って言えないけど。
それでも、それくらい、大切で、かけがえのない人だったわ」
驚いた。
姫様は、恋をなさっていた。
聡明な姫様をして言わしめるのだから、相手はさぞ出来た男なのだろう。
しかし、"かけがえのない人だった"と、口振りは過去を指している。
姫様の輿入れが決まって、やむなく引き裂かれたか。
元より、姫様の傍惚れに過ぎなかったのか。
いずれにせよ、その恋が別離に終わったことは、ここにいる彼女自身で証明されている。
「初恋は実らないって、小さい頃、お隣りのお姉さんが言っていたんだけどね?あれ、本当だったみたい。
その人とわたしは、どうあっても、結ばれない運命なの」
「……その御仁とやらは、今どちらに?」
「さあ……。どうでしょう。
わたしの手の届かないところにいるのは確かね」
恋慕う相手が別にいながら、割り切った相手と形だけの夫婦を演じなければならない。
齢十五の少女には耐え難い仕打ちとして、どこか引っ掛かる。
「(この感じは、いったい……?)」
先程の、動揺や憐憫とも、また違う。
姫様の恋した逸話を聞いて、少なからず私は、落胆している。
姫様が悪いのではない。
姫様が恋慕ったという御仁が悪いのでもない。
誰も悪くないのが却って気色悪く、そんな己の座りが悪くなっていく。
形容しがたい、むず痒さ、苛立たしさ。
姫様のお立場に同情を禁じ得ないせいと、例えてみても腑に落ちない。
「その人と結ばれることは叶わなかったけど、でも、いいの。
その人はわたしに、素晴らしいものを与えてくれた。授けてくれた。
だから、もう、いいの」
流るる雲の切れ間から陽光が差し、畳の上を一筋の川が渡る。
それは姫様と私とを線引きしているかのようで、彼女が俄に遠い存在に感じられた。
私が彼女に触れたならば、彼女は塵と消えてしまいそうだった。
「どうか、わたしの分まで幸せになってほしい。自由に生きてほしい。
────願うのは今、それだけ」
上様に花を散らされることで、多少なり変化があるだろうとは想定していた。
姫様と周囲の関係を含め、落ち着くには時を要するだろうとも。
ただ、なにか、変だ。
確かに彼女は変わったかもしれない。
表情も所作も雰囲気も、大人の女性として塗り替えられていく。
ただ、なにか違う。なにかがおかしい。
ひどく、嫌な予感がする。不吉な影が、じりじりと忍び寄ってくるような。
『花の浮き橋』