;第十二話 現し世の泉
姫様が正式に輿入れなさって、およそ半月。
疾うに梅雨は明け、夏盛りの季節となった。
しかし近頃の空模様は、まるで秋の終わりのよう。
白昼にも空気は肌寒いほどで、空は厚い雲に覆われてばかりいる。
炎節の熱気はどこへやら、久しく太陽を見ていない。
「───姫様。私です」
薄暗い廊下を抜け、もっと薄暗い部屋の前で足を止める。
ひとつ深呼吸をして、障子戸の向こうに呼び掛けると、どうぞと短く返された。
「失礼します」
静かに障子戸を引き、擦り足で部屋に入る。
そこには連日と同じく、ぼんやりと外を眺めておられる姫様の姿があった。
「昼食をお持ちしました、姫様」
「ああ……。もう、そんな時間なのね。ありがとう」
抑揚のない声。
私の呼び掛けに振り向いてはくれるものの、目線は合わせてくださらない。
このところ、姫様は私を、人目を避けるようになった。
以前と比べて妙に態度がよそよそしくなり、お一人の時間を好まれるようになった。
こうして庭の景色を眺めるのも室内からで、気に入っていた縁側にさえ近寄ろうとしない。
自らの意思で部屋を出るのは、廁で用を足すか、湯殿で身を清める時くらいだ。
何をするでもなく、固い畳に座り込み、空の果てを仰いでは、夜の訪れに嘆息する。
覇気も生気も感じられない様は空虚そのもので、失礼ながら私は、不安を越した恐怖を彼女に覚えることがあった。
「また、手を付けておられないのですね」
持参した昼餉を配膳しようとして、はっとする。
今朝の分に手を付けられた形跡が、全く無いのだ。
「ごめんなさい。どうにも、食欲がなくて」
またか。
昨日も一昨日も、姫様は朝餉に手を付けなかった。
私が半ば強引に勧めることで、昼餉と夕餉は食べてくれるが、それも完食できずに残してしまう。
無理をすれば余計に体調を崩し兼ねないし、今朝分も裏で片付けるしかなさそうだ。
「お昼はちゃんと食べるから、心配しないで」
「はい」
「朝の分、そのまま下げてしまうこと、用意してくれた人に、わたしが謝っていたと伝えてくれる?」
「……はい。
お辛いでしょうが、昼食は少しでも、召し上がってくださいね」
「うん。いつも悪いね、サイ」
申し訳なさそうに肩を落とす姫様。
肉体的にも精神的にも、彼女は疲弊している。
無理もない。
初夜を迎えて以来、上様は二晩に一度は姫様を求めている。
よほど恋しいのか、帳が下りて間もない内から召し出し、私室に帰してくれるのは明け方になってから。
朝餉を食べる気がしないのは、当然かもしれない。
「して、姫様。ご気分の程は───」
「サイ、覚えてる?」
「え?」
"ご気分の程は如何でしょう"。
私の質問に被せて、姫様の方も質問を投げてきた。
いつもなら、他に務めがあるでしょうなどと、さりげなく退室を促されるのに。
姫様の方から切り出してくるとは、珍しい。
「すみません。
なんのこと、でしょうか」
質問の意図が読めず、私は眉を寄せた。
姫様は、思いがけない人物の名前を挙げた。
「"染介さん"。
サイの知り合いなんでしょう?
前に、両親からの文を、わたしに届けてくれた」
「ああ……。あやつのことでしたか。
そうですね。城には顔を出しておりませんが、元気にしていると思いますよ」
「そう……。なら良かった」
染介。
愛想のない私にも笑顔を絶やさないでくれた、清濁併せ呑む男。
友人とまではいかないが、彼が城を訪ねた折には、土産話なんかをよく聞かせてもらった。
本当にいいやつで、私にとっては男性で唯一、誼みを結べた存在かもしれない。
姫様が初めてお会いになられたのが三ヶ月前とすると、私が最後に会ってからは一年近く経つ。
目下の所在は知る由もないが、きっとあいつのことだ。
多少の困難はものともせず、どこぞで巧みな話術を披露しているに違いない。
「まさか、ここで染介の名前が出るとは意外でした。
なにか気掛かりでも?」
姫様は、また申し訳なさそうに肩を落とした。
「あんなことがあったから、平穏無事に暮らせているかと、思って……」
「姫様……」
自分と関わったせいで、あいつが不幸に見舞われていないか心配だという。
こんな状況でも、自分より他人を案じるとは、良くも悪くも姫様らしい。
「ご安心を。例の件は内密に済みました。
たとえ露見しても、あやつのことです。そう易々と、捕まったりはしませんよ。なにせ神出鬼没ですから」
軽口を交えて励ましてやる。
姫様は僅かに表情を和らげると、ようやく私と向き合ってくれた。
「染介さんのこと、あれからずっと気になっていたんだけどね?
今朝になって、ふと思い出したことがあるの」
「それは?」
「"現し世の泉"。
染介さんが話してくれたの。サイ知ってる?」
"現し世の泉"。
確かに、ここいらでは有名な風説だ。
一見には然したる変哲のない泉だが、"ある伝説"が語り草となり、やがて聖地へと祭り上げられた。
「時同じくして、現し世の泉で末期を迎えた二人は、来世で再び巡り会い、永久にその絆が分かたれることはない────。
ちょっと暗いけど、夢のある話よね」
「なるほど……。
染介が、そのように説明を?」
「ええ。詳しいことは、遊子の自分より、土着のサイに聞いた方がいいって……。
もしかして、ぜんぶ与太話だったりする?」
「いいえ、現し世の泉は実在します。城からも、さほど遠くありません。
ただ────」
「ただ?」
一昔前までは、伝説を信じた男女が多くそこで命を落としたという。
現世で成就の叶わなかった者らにとって、現し世の泉はまさに最後の楽園と崇めるに相応しい。
だが、所詮は後付けの伝説。
時代が移ろうにつれ風化は進み、神秘性も信憑性も殆ど失せた。
未だ崇めるのは偏人か行人くらいで、直近の村落ではむしろ、泉を入水の名所と敬遠する節さえあった。
「そう、なんだ。そっか……」
私の訂正を受けて、姫様は明らかに残念がった。
「(しまった)」
背筋が凍る。
事実を包み隠さず伝えるべきと考えたが、これでは姫様の幻想を打ち砕いただけじゃないか。
ただでさえ元気をなくされているのに、追い撃ちをかけてどうする。
「……ですが、真偽はどうあれ、彼の伝説に救われた者も、いたんじゃないでしょうか」
「どうして?」
「死に場所に泉を選ぶということは、自暴自棄に命を投げ捨てるのとは、違う。はずです。
もしかしたら、本当に生まれ変わって、来世で一緒になれるかもしれない。
僅かでも、そう望みを懐いたまま死ねたなら、その瞬間だけは、きっと不幸じゃなかった。
───と、私は思います」
静寂。
私は粛々と姫様の反応を待った。
姫様は縁側の引き戸に半身を凭れると、垂れた髪を一房すくって耳にかけた。
「サイは、恋をしたことがある?」
恋。
馴染みのない言葉に、私はつい呆けてしまった。
姫様は凭れた姿勢のまま、こちらを横目で流し見た。
哀愁を帯びた鶯色。
すべてを見透かす瞳に晒されると、うっかり有らぬことまで白状してしまいそうになる。