;第十一話 これで其方は私のものだ
打掛を脱ぎ、髪を解き、長襦袢のみとなった姫様が、上様に連れられて褥に入る。
私は屏風越しに二人の会話を耳にしながら、立て膝を着いてその場に忍んだ。
チリチリ、カラカラ。
風が吹くたび涼を奏でてくれるのは、縁側に吊るされた硝子風鈴。
一昔前までは魔除け厄除けの道具に過ぎなかったこれも、今や夏の風物詩だ。
しかし私は、用心棒の私には、涼を愉しむ余裕がない。
暑さに喉が渇こうと、汗が滲もうとも、措置に一計を案じてはならず、不快に舌を打ってもならない。
私は用心棒。主に仕え、主を守る者。
こと夜枷に於いては風鈴など、気を散らす雑音に他ならない。
"───怖いか?"。
"───いいえ"。
とうとう、この時が来てしまった。
彼女が城へ招かれた日から、すべては決まっていたというのに。
「(いい加減、往生際が悪いにも程がある)」
当の姫様が気丈でおられるのだ。
私は私で、与えられた職務を全うすればいいのだ。
万が一にも刺客が入り込まぬよう、警戒に務める。
二人が恙無く朝を迎えられるよう、神妙に徹する。
「(集中しろ。邪念を払え)」
私が姫様にしてやれるのは、
できるだけ最中の様子を記憶しないでおくことと、
翌日には何事もなかったように接してやることだけだ。
"───、……、…"。
空気が揺れる。汗の匂いが香に混じる。
屏風越しに漏れる姫様の声が、段々と切なさを帯びていく。
「(駄目だ、聞くな。
考えちゃ駄目だ。覚えるな)」
頭で分かっていても、心頭滅却に至れない。
破裂しそうな己が心音の陰に、小さく蹲った姫様が透けて見える。
"───平気か?"
"───はい"。
姫様の声に重なって、上様の声もまた響く。
幼子をあやすような、いかにも育ちの良い風な、整えられた低音。
私は思わず朧の柄を握り締め、込み上げる怒りを抑えんと膝を抱いた。
叫べない代わりに奥歯を噛めば、苦い唾液が口いっぱいに広がった。
"───唯桜"。
この男はいつも、同じ恰好で女を抱く。
一番に愛しているのはお前だと。一生をかけて愛でてやると。
その言葉を信じ、ひたむきに耐えて尽くして、文目も分かず腐っていった哀れな子らが、何人いたことだろう。
欲すれば是非とも手に入れ、飽きが回れば見向きもしない。
自分からは容易に棄てるくせをして、相手から棄てられるのは我慢ならない。
反抗する者、愚弄する者、余所に靡いて戻らぬ者。
忠義にそぐわぬ不届き者は、斬って捨てて良しとする。
大事にはしてやらないが、大事にされるのは当然と権力を振り翳し。
思い通りにならないのなら、いっそ無くしてしまった方がいいと殺意を撒き散らす。
和顔愛語を装ってはいるが、実体は酷く放逸で残忍。
底の浅い見栄を張り、片生いな支配欲ばかりを満たそうとする。
それがこの男、光倉郷舟の本性であり、
誰よりこの私が、骨身に沁みているはずなのに。
"───雨希"。
姫様の決意を前に、私は無力だ。
彼女が受け入れることを受け入れた以上、私に異を唱える筋はない。
彼女がじわじわと毒牙にかけられていくのを、私はただ黙認するしかない。
「(ちくしょう。はらわたが煮えそうだ)」
彼女の真っさらな肌に、穢れた手が触れているのか。
彼女の美しかった日々に、今夜が上塗りされてしまうのか。
悔しい。虚しい。忌々しい。
偽りの甘言を囁く口を、せめて縫い付けてやりたい。
"───うえさま"。
否。最も赦せないのは、私自身だ。
怨敵ほど恨めしい相手に、結局はこうして遜るしかないのだから。
上様の甘言が嘘であるなら、私は存在そのものが嘘だ。
「───くそ、」
姫様、辛いのでしょう。泣きたいのでしょう。
本当は逃げ出してしまいたいのでしょう。
縋ってください。頼ってください。
貴女が一言、助けてと、私に言ってくれたなら。
たとえ命を賭してでも、貴女を連れて逃げますよ。
貴女が望むなら、たとえ黄泉であろうとも、喜んでお供いたします。
姫様。貴女の苦しむ姿を、私は見たくない。
貴女の嘆きを、押し殺した悲鳴を聞かされるのは、我が身を裂かれるより辛い。
終ぞ、こんな気持ちになったことはないのに。
屏風の向こうにいるのが貴女だと思うと、どうして私は、こんなにも。
"これで其方は私のものだ────"。
昼間の晴天は、幻だったのかもしれない。
突如として降り始めた冷雨は、まるで彼女の心を映し出しているかのようだった。
『花明かり』