;唯桜姫
命名式。またの名を、背名式。
それは、新たに名を賜るという栄誉。
それは、かつての名に背く、乃至は捨てざるを得ないという侮辱。
蝦夷地・雪竹城が城主、光倉 郷舟の側室として迎えられた乙女は、先様と褥を共にするより前に必ず、この洗礼を受けなければならない。
雪竹城独自の風習にして、いわば通過儀礼。
はじまりは、先代の光倉郷臣が気まぐれに言い放った、ある一言が発祥とされている。
"───我が剛健に抱かれし、うら若き乙女よ。
そなたらに、世の愛寵を印として、美しい花の名を与えよう"。
"我が仁恵に忠を立て、我が畢生に色を添え、その命尽き果てる刹那まで、永久に清らであらんことを───"。
先様に忠実なしもべらは、これを由緒正しき崇高なる儀式と謳うが、実情は全くの逆。
清白の身に印を刻むとは、手篭の鳥に枷を繋ぐと同義。
乙女らから自由と尊厳を奪い、体よく支配することなのだ。
誉とは程遠い。
いっそ罪なき罰にも等しい不条理と言うほか、表現するに適当な言葉を己は持たない。
されど、乙女らは甘受する。
一人は家族のため。一人は友のため。
中には、自らの愛を遂げるため、自らの信念を貫くためと、進んで手を挙げた者もいるという。
銘々に守りたいものがあり、引けないわけがある。
一寸先は闇。塞翁が馬。吉凶は糾える縄の如し。
行く手に光はないと知っていて、乙女らは贄の扉を開けるのだ。
「───これより、第九席・命名式を執り行う」
婚礼の儀を控えた未の刻。
一時的に改装された謁見の間にて、命名式は執り行われる。
列席の関係者に於いては、正装に着替えること、式の最中は私語を慎むこと。
新名を賜った乙女らに於いては、式を終えた直後からそれを名乗ること、それを弁えること。
以上の仕来たりを破れば、誰あれ厳しく処断されるという。
「"桜の座"継承、唯桜姫。神妙に前へ」
乙女らが賜る新名は、十ニ種に及ぶ草花のいずれかに由来する。
十二という数は側室の上限を表し、原則として上様は十二名まで愛妾を召し抱えて良いことになっている。
先代の郷臣によって名付けられた乙女らは、入れ替わり立ち替わりあって計二十六名。
当代の郷舟によって名付けられた乙女らは、正室を含め現段階で八名。
年齢順に、
沙蘭、白百合、梅宮、麻菊、藤丸、菖蒲吹、宵桔梗、澪椿。
いずれも、縁の間にて共存しておられる。
そして本日。
私のお仕えする姫君、千茅 雨希嬢には、新たに"唯桜"の名が授けられた。
上様のみが愛でることを許された唯一つの桜、という意味だそうだ。
「慣例に倣い、口上を述べよ」
桜色の打掛を纏った姫様が、一歩一歩を踏み締めて、謁見の間を進んでゆく。
待ち構えているのは、仲人役を務める上様の側近と、言わずもがな上様本人だ。
私は有象無象の家臣どもと脇に侍りながら、こっそりと上目遣いで姫様の様子を窺った。
「第九席、桜の座。千茅雨希、あらため、唯桜」
前を見据える横顔に憂いはなく、鶯色の瞳には覚悟の火が灯っている。
私に髪結いを任せてくれた時と比べると、まるで別人のよう。
だが私は、彼女の強さや気高さを、素直に称賛する気にはなれなかった。
己の剣は、一体なんのために在るのか。
本当に大切にしたいものが出来た時ほど、己の手は所詮、女の手であることを痛感する。
「今日より、わたくしは、御身の有涯全うされし時まで、御身の傍らにて、御身の支えとなって生きることを、ここに誓います」
せめてひとつ、あのひとに、心を砕いて構わないなら。
彼女に降り懸かるであろう冷雨が、槍の雨でないようにと。
ただの用心棒にして、ただの世話役には過ぎた願いを、どうか。
『挿頭の花』
;才蔵編 開