;第十話 この身が朽ちるまで
七月の七日。
雪竹城に召し上げられて、およそ三ヶ月。
わたし千茅 雨希は、約束の十五歳となった。
「───さ、本番は既に始まっていますよ!」
婚礼の儀を目前に控えた昼下がり。
いつもなら昼食時とされる時分だが、本日ばかりはそうもいかない。
ただ今の雪竹城は、慶祝の空気に満ちている。
大広間では会場の準備が、厨では佳肴の用意が進められている。
わたしの私室では、女中さん達が手分けして、花嫁衣装を着付けてくれているところだ。
「"姫様をもっとお綺麗にし隊"、出動!」
「おー!」
耳に届くは、可愛らしい雀の声。
鼻を抜けるは、青々とした葉桜の匂い。
夏空の割に暑すぎず、時おり吹く風が汗を攫ってくれる。
まさに、祝い事には持ってこいな良き天気、良き日取りである。
「今の姫様を御覧になれば、きっと上様も、その美しさに惚れ直されることでしょう」
「私達でさえ、うっとりしてしまうほどですもの」
「女の夢ですわ」
背後で帯を整える一人が呟き、他二人も作業の片手間に同意する。
"惚れ直す"とは、また大仰な。
元より、上様がわたしに惚れている確証など、有りはしないのに。
「ありがとうございます。
皆さんが綺麗に仕立ててくださったおかげです」
「またご謙遜を!」
「私たちは介添えを務めたに過ぎません」
「美人さんをもっと美人にするのは、実に腕が鳴ります~」
なぜ、自分のような小娘に関心を持たれたのか。
ここまで執心するに至ったのか。
もはや是非を問うことも、問われることもない。
本日を以て、わたしは正式に、上様の女となる。
そのために、わたしはここにいて、それだけ分かれば、十分なのだ。
「お化粧の方はどう?崩れてない?」
「大丈夫!」
「よしよし、順調ね。
では姫様、次は御髪に移りますね」
「はい、お願いします」
はじめの頃は、それはそれは恐ろしかった。
迫る期日に鳩尾を痛め、指折り数えて夜を明かしたものだ。
今は違う。
十四歳だったわたしが遥か昔に感じられるほど、十五歳になったわたしは落ち着いている。
緊張はあれど、現実を受け止められている。
僅かでも成長した表れならば、僅かばかり自分が誇らしい。
「───姫様、私です。お加減の程は如何でしょうか」
着付けの仕上げに取り掛かろう、という時だった。
障子戸の向こうから、壁を叩く音と、こちらを窺う声が聞こえてきた。
「はい、ただいま。
───すみません、一度外して頂けますか?」
緩みそうになる口元を引き締め直し、女中さん達に下がるようお願いする。
察してくれた女中さん達は、わざわざ縁側の方から遠回りで退室していった。
「どうぞ」
ひとつ咳払いをして、声の主に入室を許可する。
声の主は"失礼します"と断ると、静かに障子戸を引いた。
さあ、この姿を見て、どんな反応をしてくれるだろうか。
驚く顔を想像して、わたしは胸を躍らせた。
「こちらの準備、は────」
わたしを視界に入れるなり、声の主は固まってしまった。
ぽかんと口を開けて、大きく目を丸めて、その場に立ち尽くす。
まるで鳩が豆鉄砲を食ったような、信じられないものを見たとでも言いたげだ。
「ね、サイ。どうでしょ?どこか、おかしなところはない?」
仕立ててもらった打掛を自慢しようと、振袖を軽く翻してみせる。
声の主ことサイは、はっと我に返ると、慌てて障子戸を閉めた。
「驚きました。なんだか別人のようで……。
一瞬、我が目を疑った」
サイがこちらに歩み寄り、わたしに触れるか触れないかの距離で立ち止まる。
「そうよね。こんなに大変な服を着たのは、生まれて初めてだもの。
わたしも、今の自分は、自分でないみたい」
「………。」
右手で口元を覆いながら、わたしの全身をまじまじと眺めるサイ。
自慢をしたくせに恥ずかしくなったわたしは、誤魔化すように再び咳払いをした。
「それで、サイはどう思う?
わたし、ちょっとでも綺麗になった?」
あの雨の日を境に、サイは本当の自分を出してくれるようになった。
尋ねれば何でも偽りなく答えてくれて、わたしの冗談に腹から笑ってくれるようにもなった。
わたしの方も、サイさんと、敬称付きでは呼ばなくなった。
古い馴染みのような口調で話して、不服がある場合には怒ったり抗ったりする。
わたしとしては畏れ多い部分もあるが、遠慮されるより嬉しいとサイは喜んでくれた。
今度こそ、親密な仲になった。
そう感じているのは、わたしだけじゃないと信じたい。
「綺麗です。───綺麗だ、本当に」
うっそりと、サイは破顔した。
気の利いた返しが浮かばなかったわたしは、赤面するしかなかった。
「あ、ありが、と……」
"綺麗"。
言葉自体は世辞や皮肉じゃなく、本心を述べてくれたものと思う。
でも、声は。
様々な感情が入り混じった、複雑な音をしていた。
「(綺麗、か)」
ただ着飾って、終わりじゃないから。
わたしの行く末を憂うあまり、手放しでは誉められないのだろう。
親しくなったからこそ、彼女はわたしを、寂しげな目で見る。
「あとは、御髪を整えるだけですか」
「あ……、うん。結って纏めて、簪とかで飾るんだって。
じきに女中さん達が戻ってくるだろうから────」
「姫様」
「うん?」
「僭越ながら、そのお役目、私に任せてくださいませんか」
「え……」
サイから意外な提案を持ち掛けられる。
「もちろんいいけど……。大丈夫?
わたし、そういうの全然だから、やり方とか教えてあげられないけど……」
「ご安心ください。心得ております。これでも評判の腕だったんですよ?」
そうか。
女中さん達は、わたしとサイの睦言を邪魔しないようにと慮ったのではない。
サイに髪結いの技術があることも承知していたから、任せられると引き払っていったんだ。
どうりで、なかなか戻ってくる気配がないわけだ。
「ほんとにー?初耳ね~」
「おや、疑っておられるのですか?
でしたら尚のこと、披露して差し上げませんとね」
軽口を交え、くすくすと笑い合う。
「それに、気疲れも溜まると厄介です。
本番までには、まだ時間がありますから。今のうちに一息入れておきましょう」
そう言ってサイは、縁側の引き戸を半開から全開にした。
わたしは外の空気を胸一杯に吸い込み、強張った肩と腰を解した。
「さあ、姫様。どうぞこちらへ」
冗談めかしたサイに導かれ、慣れ親しんだ縁側へ。
**
「───わー、本当に上手ね!
これだけの腕があれば、お店を開けるんじゃない?」
「買い被りですよ。
よほどの不器用でない限りは、三度も見聞きすれば習得できます」
「へー……。すごいなぁ。サイの新しい特技を発見したわ」
「痛くはありませんか?」
「ぜーんぜん」
「お尻の方は?」
「そっちもぜーんぜん。
サイは?お膝、痛くない?」
「ぜーんぜん、です」
纏めて、捻って、結い上げて、全体を装飾品で飾る。
あれよあれよという間に、サイはわたしの髪を整えていった。
最中に違和感なども無く、いかに彼女が手慣れているかが分かった。
「いかがでしょう」
最後に渡された手鏡で、わたしは自分の化けた姿を確認した。
「す───っ、すごい。本当にすごいよサイ!まるでお姫様みたい!」
「ふふ。貴女は元からお姫様でしょう?」
「あ、そっか。一応はそうなんだもんね。
角隠しは被らなくていいの?」
「ええ。不要になったそうです」
「そもそも、あれって何のために被るんだろうね?お洒落のため?」
「妻が鬼に化けないように、との願いを込めているとか、なんとか。
娶る側としては、いつまでも貞淑でいてほしいってことですね」
「へぇー、だから"角を隠す"……」
「ここにはもう、名実ともの鬼がいますから。
化けるものでも、隠せるものでもないらしいと、慣わし自体が消えたわけだ」
「え、あ、わたしはそんな───」
背後で立ち上がったサイが、縁側を下りて草履を履く。
わたしが余計なことを聞いたせいで、気を悪くさせてしまったか。
身構えるわたしを余所に、サイはどこへも行かなかった。
「怖くは、ないですか」
正面に立ったサイが、真剣な表情で問う。
この状況、この質問には、俄に覚えがあった。
「("怖くないか"……)」
怖くない、とは、やっぱり言えない。
不安は尽きないし、恐怖も残る。
回避できるものなら、そうしたいと思う。
されど、拒絶はしない。観念するでもない。
きっとこれが、わたしの運命。生まれた時からこうなることが決まっていたのだと、何時しかそんな風に考えるようになった。
「ありがとう、サイ。わたしは大丈夫。
緊張はするけど、今日まで三ヶ月も猶予を貰ったんだもの。
いいかげん、胆が据わったわ」
「……左様ですか。姫様は、お強い仁だ」
「そうね。強くありたい」
太陽が雲に隠れ、辺りが一時的に暗くなる。
「わたしね、自分一人では、ちっとも強くなんかないのよ。
悲しいことがあると直ぐ、ご飯が喉を通らなくなって、誰とも会いたくないって気持ちになる。
でも、サイにだけは、悲しい時も楽しい時も、いつでも会いたいって思う。どんなに小さな話でも、サイの話なら、聞きたいって思うの。
サイが側にいてくれる間だけ、わたしは元気な、強い人間でいられるのよ」
「……勿体ない御言葉です」
「ふふ、相変わらず真面目。そういうとこ素敵よ」
サイに向かって右手を差し延べ、握手を求める。
「サイ。今日までわたしを支えてくれて、ありがとう。
どうか、これからも側にいて。わたしに元気をちょうだいね」
「……貴女という人は。
感謝申し上げるのは、私の方だ」
自らの両手でわたしの右手を掬うと、サイは地面に跪いた。
深く頭を垂れる姿は、出会った時と同じ。
「御身のご厚情の数々に、私がどれほど救われてきたか。
御身にしては、思案の外なのでしょうね」
太陽を隠した雲が晴れ、辺りに白昼の光が戻る。
サイは首だけを動かして、照らされたあちこちに目を配った。
「この空が、草木花が、移ろいゆく全てが、こうも美しいとは知らなかった。
共に眺めた桜は光り輝いていて、私は初めて、慈しむという感情を得たのです。
貴女と出会ってから、私の世界はがらりと色を変えました」
「サイ……」
サイの指先が、わたしの手の甲を撫でる。
「あれ以来、私は一度も泣きませんでした。痛くとも悲しくとも、決して泣くことはなかった。
己の涙は涸れてしまったに違いないと、そう思ったほど」
いずこの自分を懐かしむように、サイは瞼を伏せた。
また自責の念に駆られているのでは、とわたしは心配になったが、彼女の手は温かかった。
「ですがあの日、あの雨の日。
私は貴女の前で、心の底から泣きました。
そして悟ったのです。今までずっと、私は、人の温もりにこそ、飢えていたのだと」
出会った時と同じ場所、同じ立ち位置。
淑やかな撫子色は、鮮やかな萌木色に。
たゆたう彼女の髪の後ろで、風に散らされた若葉が舞う。
「きっと私は、貴女と出会い、貴女を想い、貴女に寄り添うため、そのために、この世に生を受けたのでしょう」
サイの手が離れる。
彼女の瞳に映る自分自身と目が合う。
「これからもずっと、なにがあっても、私は貴女を守り抜く。
貴女と共に生き、願わくは、貴女に尽くし果てたい。
───どうか末永く、いっそこの身が朽ちるまで、お側に置いて下さいませ。姫様」
サイと過ごした三ヶ月。
長いようで短かった、二人だけの日々。
明日からも止まらずに、時は流れてゆくけれど。
わたしはもう、かつてのようには笑えないかもしれない。
わたし達の関係は変わらない。
変わってしまうのは、わたしだけ。
「(馬鹿ね、わたし)」
ああ、人の心とは、なんと酷だろう。
最後の最後で芽を出してしまうなんて、わたしはなんて愚かな女なのだろう。
「(初恋は実らないって、知っていたはずなのに)」
ごめんなさい、サイさん。
この締め付けるような、甘くほろ苦く、切ない想いの正体を、わたしは知っている。
わたしは、あなたを。
『酒涙雨』
;雨希編 結