;第九話 半分こ
「───この手で人を殺めたという事実が恐ろしくなり、私はまた、路銀を稼ぐ生活に戻りました。
あんな思いをするくらいなら、ひもじい方がマシだと」
「それで……?」
「あいにくと、それも長くは持ちませんでした。
飯屋も女郎屋も、もっと優秀な働き手を見付けたとかで、御払い箱。なけなしの貯えも、あっという間に底を着いた。
……このまま自分は、虫のように死ぬのだろうと。もはや、木の根を齧る余力もありませんでした」
殺しの依頼から二月ほどが経った、満月の夜。
あてどなく町を流離った末に、少女は弥増しの不運と出会った。
"辻斬り"。
人の身にありながら、人の道に唾吐くという、畜生にして化生の類だった。
「いるんですか、蝦夷にも」
「時勢によって、出たり出なかったり、ですね。
大きな町ともなると、特に」
「じゃあ、この町にも……?」
「いえ。隊士が目を光らせているせいか、少なくとも辻斬りの話は聞いたことがありません。
私が遭遇したのは、ここよりずっと南方の、港町の近くです」
刀を持った某が、通りすがりの某に、有無を言わさず襲いかかる。
斬って刺して八つ裂きにして、骸となれば足蹴にする。
理由はない。慈悲もない。
ただ、手元に刀があったから、近くを人が通ったから。
刀の切れ味を試すため、人に憂き目を見させるめに、辻斬りとは殺生を好むのだ。
「直感しました。ここにいては、私も巻き添えを食い、死ぬと。
しかし、その場を離れるより先に、男と目が合った。獣のような目でした」
少女の存在に気付くや否や、辻斬りの男は脇目も振らず、少女に迫った。
血塗れの顔で嗤い、狂気の雄叫びを上げながら。
辺りには他に誰もいない。
騒ぎを聞いて駆け付けてくれる者もいない。
状況が状況だけに、我関せずを通されるのは無理からぬこと。
助けを呼んだところで、きっと無意味だろう。
覚悟した少女は逃走を諦め、辻斬りに相対すると決めた。
勝算はなかった。
空腹で力は出ず、疲労で膝も笑っていた。
それでも少女は、辻斬りに背を向けなかった。
どのみち自分は、こいつに殺される。
ならば、せめて痛み分けにしてやる。
相討ちとまではいかずとも、一撃でいい。
二度とこいつが刀を振るえぬよう、その腕に一太刀浴びせるだけでいい。
悲劇を繰り返させてなるものか。
正しい誰かを見殺しにするくらいなら、愚かな自分が身代わりになるべきだ。
どうせ、自分が死んでも、悲しむ家族はいないのだから。
たとえ逃げ場があったとしても、少女は辻斬りに立ち向かったかもしれない。
「思いのほか接戦でした。
男はとても興奮した様子で、足元は覚束ず、太刀筋も荒削りで隙だらけ。
懐に入るのは簡単だった」
「勝ったんですか?」
「勝った、というより、ただ殺したんですよ。例の小刀で。
男を手負いにして、余裕があれば逃げようと算段したはずなのに。
気が付くと、私は男の心臓を貫いていた。無意識でした。
同時に悟ったのです」
"己には、殺しの才がある"。
初めて人を殺めた時は、あれほど動揺し、苦悩したはずなのに。
辻斬りを殺した時の少女は、恐ろしいまでに冷静だった。
呼吸に乱れはなく、手足に震えもない。
汗も出ない。涙も出ない。罪の意識もさほど湧かない。
むしろ、奸賊を討ち果たしてやった、という達成感すらあった。
一体なにが違うのか。
以前の彼と、今度の男、どこに差がある。
自らの変貌ぶりに驚いた少女は、ひとつひとつ思い当たる節を辿っていき、ある答えを導き出した。
「叔父の家を出て、三年目。
齢は十二を数え、私は始末屋として生きる決心をしました」
幼いながらに、少女は悟った。
殺生をしても辛くならないための方法、条件を。
以前の彼とは、口を利いてしまった。のが、いけなかった。
少女は知ってしまった。えらいと誉めてくれた優しい声を、頭を撫でてくれた温かい手を。
あの瞬間から少女は、ただの標的として、彼を認識できなくなった。
少女にとって彼は、赤の他人ではなくなってしまったのだ。
一時でも触れ合えば、少なからず情が芽生えるもの。
少女は彼を、優しそうな人だと思った。そんな彼を、刺して殺した。
彼に途方もない苦しみを与え、彼の生涯に一方的な終止符を打った。
罪を犯せば、罰を受ける。
少女を蝕んだ毒とは即ち、慚愧の念であった。
片や、今度の男は違った。
男とは口を利くどころか、出会い頭すぐに戦闘が始まった。
なぜ辻斬りになったのか、なぜ人を殺すのか。
男の事情など、少女には知る由もなかった。
"吐き気を催す奸賊"。
"目の前で殺された青年の仇"。
"みんなが迷惑してる奴なら、別に殺したって構わない"。
男の狂気に当てられて、少女の内なる狂気もまた、呼び起こされてしまったのだ。
「運良く落ち延びて、でも生き残ったとは言えない。
死にかける度に死に損なって、それだけ。与えられた役目をそつなく熟して、食って寝て、それだけ。
なにも考えず、なにも感じない。
歩く屍も同然ですよ」
少女は心を閉ざした。
生きていく上で必要がない、あれば煩わしいからと切り捨てた。
ただ、仕事をした。
僅かばかりの報酬と引き換えに、醜い指が指し示した的へ、刃を向けた。
元気そうな若人は、扱いやすい小刀で。
か弱そうな老人は、練習がてらの朧で。
女子供以外は誰でも、何でも。
年齢、体格、身分に問わず、依頼を請け負った。
"お前が名うての始末屋か?"。
やがて、三年の月日が過ぎた頃。
手腕を見込まれたサイさんは、上様より雪竹城に招かれた。
十四歳。
悲しくも、今のわたしと同じ年齢で。
「朧はとても美しい刀です。私が持つには上等すぎるほど。
でも、時おり匂うんですよ。どんなに綺麗に拭っても、濯いでも、何度鍛え直しても。
染み付いて落ちないんですよ、人の血の匂いが」
朧を掲げたサイさんが、鞘から僅かに抜いてみせる。
隙間に覗く刀身は、角度をつける毎に鈍い光を放った。
「こいつで何人斬ったかも、もう忘れてしまった。
相手の死に様は、今もはっきりと覚えているのに。数は記憶にないなんて」
刀身に映る自分を見たのだろうか。
抜いた分を鞘に納め直し、サイさんは深く項垂れた。
「私は知っていた。知っていたのに知らないふりをした。
誰にでも人生があり、どんな悪党にも家族はいる。
人を殺せば、悲しむ人が別にいる」
朧の鞘に、サイさんが額を合わせる。
朧の白さに負けないほど、サイさんの肌も青白くなっていく。
「私は彼だけでなく、彼と縁ある全員の生涯を狂わせた。
それが如何に罪深く、赦されざる行いか、本当は知っていたはずなのに───」
早口で捲し立てると、サイさんは朧を床に叩き付けた。
がしゃんと激しい音が木霊して、わたしは肩をびくつかせた。
「ぁ、の────」
サイさんの纏う空気が、ヒリヒリと逆立っている。
なにか言葉をかけてやろうにも、相応しい寸言は出てこない。
「私は生きるために殺してきた。何人も、何人も何人も……!
あどけない童子を装って、騙して、裏切って殺して、次の朝には何食わぬ顔で町を歩いた。
なにもかも嘘だ。名前も性別も出生も。その気になれば依頼に来た奴を殺すことも出来たのに、なのに私はそうしなかった。
誰が悪いかも分からない。恨む奴が悪いのか、恨まれるやつが悪いのか分からない。
なにも考えなかった。殺した。金をもらった」
サイさんが、おかしい。
こんな彼女は、見たことがない。
「あんなに優しく笑う人が、悪人のはずないのに、私は殺した。
なんの咎もない人を私は────」
怯えるように、サイさんは自らの肩を抱いた。
強張った首筋には、血管と脂汗が浮かんでいる。
「サイさ────」
わたしは彼女の名を呼び、彼女の肩に触れようと手を伸ばした。
「───触るな!!!」
鋭く怒鳴ったサイさんが、わたしの手を払い除ける。
わたしを突き飛ばさない代わりに、サイさんの方から離れていく。
「サイさん、」
もう一度、名を呼ぶ。
呼吸を整えたサイさんは、居た堪れなさそうに顔を背けた。
「申し訳、ありません。姫様。どうも、頭が混乱して……。
でも、駄目です。私に触らないで」
「サイさん」
サイさんが目を伏せ、奥歯を噛み、自らの胸倉を握り締める。
「私は呪われているんですよ。
この身に触れれば、貴女まで汚してしまう」
先程までとは打って変わって、消え入りそうな細い声で、サイさんは呟いた。
「あの時、───貴女の前で、失態を晒してしまった時。思い出したんです。あの日のことを。
初めて仕事をした日も、あの小刀を使った。だから、当時の情景が、まざまざと蘇ってきた」
「………。」
「心に蓋をして、ずっと、あってないものと、言い聞かせてきたのに。溢れてしまえば、もう止められなかった。
誰を殺しても、なにも思わなかったはずなのに。貴女に見られたことが、なにより恐ろしかった。
すべて見透されるようで、私の醜い本性を、貴女に知られたらと思うと、たまらなく、怖かった」
胸の内の奥底に、封じてきたもの。
とても重く、熱く切なく、叫びたいほどに目まぐるしく、混沌としていて、掛け替えのないもの。
切り捨てたはずの心が、あの日を境に蘇った。
心を取り戻すということは、自らが犯した罪をも取り戻すということ。
自分の正体は紛うなき罪人であったことを、思い知らされることでもあった。
「姫様。私は悪人なんです。
貴女が信じてくれるような人間じゃ、ない」
サイさんの声が途切れる。
ひときわ大きな雨粒が、真上の屋根に落ちた音がする。
わたしは身を乗り出した。
彼女の頬に見えない涙が伝っている気がして、見ていられなかった。