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現し世は桜花の化身  作者: 和達譲
;ウキ編 めざめの章
30/75

;朧



粗末な身なり、貧弱な体つき。

一見すると浮浪児か物乞いかという、哀れな少女。


そんな少女を前にして、通りすがりの男は厭らしく笑った。




"坊主、ひもじいだろう"。

"いい仕事(・・・・)を紹介してやるから、ひとつ頼まれてはくれないか"。




"坊主"。

男は少女の性別を、誤って認識していた。


少女は気にしなかった。

金さえ払ってくれるなら、力仕事でも汚れ仕事でも、なんでも構わないつもりだった。




"割がいいなら、頼まれる"。




少女が了承すると、男は声を潜めて言った。




"始末してほしい奴がいるんだ"。




いい仕事(・・・・)とは、殺しの依頼だった。

ひもじい(・・・・)少女の持つに、男は目を付けたのだ。




"人を、殺すのか"。


"帯刀をするからには、覚えくらいはあるのだろう"。




刀は持っている。剣の心得もある。

とはいえ、殺意をもって振るったことはない。

叔父の元を離れてからは、鞘から抜くことさえしていない。


ましてや標的は、働き盛りの男性だという。

自分より一回り以上も逞しい相手を倒すなど、無謀である。


思ってもみなかった男の依頼に、少女は迷った。

だが、もっと少女の本能に訴えるものが、他にあった。




"牢に入れられるとか、しないのか"。


"心配無用。代わりを立てる"。




旅籠や飯処で給仕をしたり、芸妓や遊女の髪を結ったり。

悪くない評価を貰えた仕事も、正規の雇用には至らなかった。

時には野宿を余儀なくされて、塩むすび一個で二晩を賄うこともあった。


雀の涙で、暮らしは買えない。

こんな調子でいては、いつ死んでもおかしくない。

剣が峰の飢えを味わえば、少女とて獣に成り下がるしかなかった。




"元気、ないから、失敗するかも"。


"前払いだ。飯代と風呂代くらいは工面してやる"。




殺生。生き物の命を奪うということ。

それが如何に罪深く、赦されざる行いか、分かっていなかった。

世間知らずの少女は、純粋で正直で、そして愚かだった。




**




空は夕焼け。町は夕餉どき。

静まり返った夜半ではなく、あえて人々の営みが盛んな頃に、少女は動いた。


夜道で奇襲をかける手は、不馴れな自分には難しい。

反撃をされては一溜まりもなし、助けを呼ばれても詰みとなる。


だったら邪魔の入りにくい場所で、ここぞの好機を狙うべし。

標的の男性が一人で住むとされる平屋に、堂々と正面を切って訪ねにいった。




"ある人から、お届けもの"。




嘘をくるんだ風呂敷を携え、少女は男性に迫った。

男性は始めこそ怪しんだが、すぐに警戒を解いた。




"わざわざ、ご苦労だったね"。




約束もしていなかったのに、男性は少女を信じた。

むしろ、働きもので感心なことだと、少女を誉めてくれた。




"せっかくだから、お茶の一杯でも飲んでいきなさい"。




招き入れる男性の背中を、少女はぼんやりと眺めた。




"(今から自分は、この人を殺すのか)"。




霞む視界、騒ぐ鼓動、俄に震えだす息と指。

喉は乾き、肩は竦み、風呂敷の中身が急に重く感じられる。


これはなんだ。

どうしてか、たまらなく、胸が苦しい。

怪我もしていないのに、頭が目が、疼いて痛い。


なにが起きている。

自分の体は、どうなってしまったんだ。

土壇場で湧いた感情の名前を、少女はまだ知らなかった。




"お茶請けに、甘いお菓子があるんだけど、君の口に合うかな"。




あと一歩で、男性が居間の敷居を跨ぐ。

少女も大きく一歩を踏み込み、風呂敷に包んでいたを取り出した。


仕事用にと、依頼主から借り受けた小刀。

鋭く研がれたその切っ先を、少女は男性の背中に突き刺した。




"きみ、は───"。




苦しげに呻きながら、男性は後ろに振り返ろうとした。

少女はすかさず、もう一歩を踏み込み、男性の心臓あたりを抉った。


絶命の瞬間、男性は膝から崩れ落ちた。

支えを失った少女も釣られて転倒し、男性の上に俯せになった。




"(あつい)"。



男性の赤い血が、少女の白い頬をべっとりと汚した。

それは皮膚が爛れるほどに熱く、骨までもを焼き尽くさんとした。



"(おもい)"。



男性の命が尽きて、少女の緊張もぷっつりと切れた。

それは絡繰を抜かれた人形が如く、自力ではもはや動けなかった。




"(にげなくちゃ)"。




外で烏が鳴いている。

はやく、ここを去らなければ。

誰かが来る前に、はやく。誰にも見付からないところへ。


小刀を風呂敷に包み直し、男性の腰から帯を抜き取って、少女は平屋を出た。

道ゆく人に無様を晒しても、引き攣った肺が潰れかけても、少女は走り続けた。


やがて人気ひとけのない川原に辿り着いた少女は、男性のように膝から崩れ落ちた。




"(きもちわるい)"。




なんだこれは。

なんだこれはなんだこれはなんだこれは。


自分が自分じゃないみたいで、自分で自分を制御できない。

誰もいないはずなのに、誰かに覗かれている気がする。


小枝のさざめきや、小川のせせらぎでさえ、この時の少女には糾弾に聞こえてならなかった。




"(けさなきゃ)"。




少女は小川に飛び込んだ。

何度も何度も全身を擦って、こびり付いた痕を水で灌いだ。


けれど、どんなに綺麗に濯いでも、赤い染みが消えてなくなっても。

血の臭いだけは永遠に取れないんじゃないかと思えて、恐ろしかった。




**



約束の時間、約束の場所。

町はずれの丘にて、少女と依頼主は落ち合った。


依頼主は、預かっていた朧を少女に返した。

少女は、例の帯を依頼主に渡した。




"本当にやってのけるとは"。




期待を越える成果に、依頼主は大喜び。

手提げ袋いっぱいの銭に加え、仕事用にと貸し与えた小刀も、おまけの報酬とした。


少女は受け取った小刀を握り締め、自らを戒めた。




"(もう二度と、こんな仕事は引き受けない)"。

"(もう二度と、人を殺さない)"。




少女が初めて、人を殺めた日。

澄んだ星空の下、虚ろに涙を流しても、犯した罪まで流れてくれることは、決してなかった。






たきとし』



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