;朧
粗末な身なり、貧弱な体つき。
一見すると浮浪児か物乞いかという、哀れな少女。
そんな少女を前にして、通りすがりの男は厭らしく笑った。
"坊主、ひもじいだろう"。
"いい仕事を紹介してやるから、ひとつ頼まれてはくれないか"。
"坊主"。
男は少女の性別を、誤って認識していた。
少女は気にしなかった。
金さえ払ってくれるなら、力仕事でも汚れ仕事でも、なんでも構わないつもりだった。
"割がいいなら、頼まれる"。
少女が了承すると、男は声を潜めて言った。
"始末してほしい奴がいるんだ"。
いい仕事とは、殺しの依頼だった。
ひもじい少女の持つ刀に、男は目を付けたのだ。
"人を、殺すのか"。
"帯刀をするからには、覚えくらいはあるのだろう"。
刀は持っている。剣の心得もある。
とはいえ、殺意をもって振るったことはない。
叔父の元を離れてからは、鞘から抜くことさえしていない。
ましてや標的は、働き盛りの男性だという。
自分より一回り以上も逞しい相手を倒すなど、無謀である。
思ってもみなかった男の依頼に、少女は迷った。
だが、もっと少女の本能に訴えるものが、他にあった。
"牢に入れられるとか、しないのか"。
"心配無用。代わりを立てる"。
旅籠や飯処で給仕をしたり、芸妓や遊女の髪を結ったり。
悪くない評価を貰えた仕事も、正規の雇用には至らなかった。
時には野宿を余儀なくされて、塩むすび一個で二晩を賄うこともあった。
雀の涙で、暮らしは買えない。
こんな調子でいては、いつ死んでもおかしくない。
剣が峰の飢えを味わえば、少女とて獣に成り下がるしかなかった。
"元気、ないから、失敗するかも"。
"前払いだ。飯代と風呂代くらいは工面してやる"。
殺生。生き物の命を奪うということ。
それが如何に罪深く、赦されざる行いか、分かっていなかった。
世間知らずの少女は、純粋で正直で、そして愚かだった。
**
空は夕焼け。町は夕餉どき。
静まり返った夜半ではなく、あえて人々の営みが盛んな頃に、少女は動いた。
夜道で奇襲をかける手は、不馴れな自分には難しい。
反撃をされては一溜まりもなし、助けを呼ばれても詰みとなる。
だったら邪魔の入りにくい場所で、ここぞの好機を狙うべし。
標的の男性が一人で住むとされる平屋に、堂々と正面を切って訪ねにいった。
"ある人から、お届けもの"。
嘘を包んだ風呂敷を携え、少女は男性に迫った。
男性は始めこそ怪しんだが、すぐに警戒を解いた。
"わざわざ、ご苦労だったね"。
約束もしていなかったのに、男性は少女を信じた。
むしろ、働きもので感心なことだと、少女を誉めてくれた。
"せっかくだから、お茶の一杯でも飲んでいきなさい"。
招き入れる男性の背中を、少女はぼんやりと眺めた。
"(今から自分は、この人を殺すのか)"。
霞む視界、騒ぐ鼓動、俄に震えだす息と指。
喉は乾き、肩は竦み、風呂敷の中身が急に重く感じられる。
これはなんだ。
どうしてか、たまらなく、胸が苦しい。
怪我もしていないのに、頭が目が、疼いて痛い。
なにが起きている。
自分の体は、どうなってしまったんだ。
土壇場で湧いた感情の名前を、少女はまだ知らなかった。
"お茶請けに、甘いお菓子があるんだけど、君の口に合うかな"。
あと一歩で、男性が居間の敷居を跨ぐ。
少女も大きく一歩を踏み込み、風呂敷に包んでいた嘘を取り出した。
仕事用にと、依頼主から借り受けた小刀。
鋭く研がれたその切っ先を、少女は男性の背中に突き刺した。
"きみ、は───"。
苦しげに呻きながら、男性は後ろに振り返ろうとした。
少女はすかさず、もう一歩を踏み込み、男性の心臓あたりを抉った。
絶命の瞬間、男性は膝から崩れ落ちた。
支えを失った少女も釣られて転倒し、男性の上に俯せになった。
"(あつい)"。
男性の赤い血が、少女の白い頬をべっとりと汚した。
それは皮膚が爛れるほどに熱く、骨までもを焼き尽くさんとした。
"(おもい)"。
男性の命が尽きて、少女の緊張もぷっつりと切れた。
それは絡繰を抜かれた人形が如く、自力ではもはや動けなかった。
"(にげなくちゃ)"。
外で烏が鳴いている。
はやく、ここを去らなければ。
誰かが来る前に、はやく。誰にも見付からないところへ。
小刀を風呂敷に包み直し、男性の腰から帯を抜き取って、少女は平屋を出た。
道ゆく人に無様を晒しても、引き攣った肺が潰れかけても、少女は走り続けた。
やがて人気のない川原に辿り着いた少女は、男性のように膝から崩れ落ちた。
"(きもちわるい)"。
なんだこれは。
なんだこれはなんだこれはなんだこれは。
自分が自分じゃないみたいで、自分で自分を制御できない。
誰もいないはずなのに、誰かに覗かれている気がする。
小枝のさざめきや、小川のせせらぎでさえ、この時の少女には糾弾に聞こえてならなかった。
"(けさなきゃ)"。
少女は小川に飛び込んだ。
何度も何度も全身を擦って、こびり付いた痕を水で灌いだ。
けれど、どんなに綺麗に濯いでも、赤い染みが消えてなくなっても。
血の臭いだけは永遠に取れないんじゃないかと思えて、恐ろしかった。
**
約束の時間、約束の場所。
町はずれの丘にて、少女と依頼主は落ち合った。
依頼主は、預かっていた朧を少女に返した。
少女は、例の帯を依頼主に渡した。
"本当にやってのけるとは"。
期待を越える成果に、依頼主は大喜び。
手提げ袋いっぱいの銭に加え、仕事用にと貸し与えた小刀も、おまけの報酬とした。
少女は受け取った小刀を握り締め、自らを戒めた。
"(もう二度と、こんな仕事は引き受けない)"。
"(もう二度と、人を殺さない)"。
少女が初めて、人を殺めた日。
澄んだ星空の下、虚ろに涙を流しても、犯した罪まで流れてくれることは、決してなかった。
『滝落とし』