;第八話 会いたかった 3
縁側に並んで座る。
激しさを増した雨が、針のように屋根を叩く。
ざあざあ、びたびた、かんかん、こんこん。
不規則に繰り返される雨音以外、もはや互いの声しか聞こえない。
「───そうですか。
奥方様に、お会いになられたのですね」
これまでの経緯を搔い摘んで、わたしは話した。
サイさんはときどき相槌を打って、最後に溜め息を吐いた。
「その時に、少し、話をしたんです。
町のこと、お城のこと、上様のこと……。
ここでサイさんが過ごした、二年間のこと」
「なるほど。
奥方様が直にお話しされたのであれば、ほぼ事実と相違ないでしょう。
───さて。どこから始めたものやら」
サイさんが曇天を仰ぐ。
わたしは横から、サイさんの顔を覗き込んだ。
「時間はたくさんあるのですから、最初から、話してほしいです」
「……そうですね」
こちらに一瞥くれたサイさんは、今度は桜木の方に目を向けた。
まだ辛うじて留まってはいるが、じきに全ての花びらが散るだろう。
桜の寿命は短いのだと、かつてサイさんが言っていた。
「では、最初から。
私の出自についてからになりますが、よろしいですか?」
「はい」
わたしに一言断ってから、サイさんは正座を崩した。
片膝を立てた上に腕を乗せて、やや前傾に背中を丸める。
女性には憚られる姿勢かもしれないが、サイさんがやると絵になる。
「私の血筋、なんですが……。
そこはまだ、ご存じないのですよね?」
「はい。初耳です」
「実は、私の両親は……。
というより、私は、純粋な日本人ではないのですよ」
「えっ!
……じゃあ、サイさんは、異国からやって来られたのですか?」
他に誰もいないにも拘わらず、わたしは驚きのあまり声を潜めた。
サイさんは首を振り、訂正してくれた。
「正確には、母が日本人で、父が俄羅斯人でした」
「おろす?」
「オロス、オロシャ。またの名を、魯西亜。
蝦夷とは切っても切れない国ですよ」
「ロシア……」
母親が日本人、父親が魯西亜と呼ばれる異国人。
すなわちサイさんは、巷で忌み嫌われているという、"あいのこ"。
生まれも育ちも日の本でありながら、異なる血筋を持つとなれば、さぞ辛い幼少期を過ごしたことだろう。
しかしサイさんは、心情までは明かさなかった。
なにが悲しかったとも、苦しかったとも零さず、淡々と事実のみを述べた。
きっと、そうやって保ってきたのだ。
腐る前に顔を上げ、倒れる前に一歩を踏み出し、自分で自分を守ってきたのだ。
傷を癒やしてくれる薬も、痛みに寄り添ってくれる相手も、一息つかせてくれる場所さえも。
敢えて多くを語らない主義にこそ、当時の彼女の孤独が表れていると、わたしには感じられた。
「確かにサイさんは、ここいらではあまり見かけないような、彫りの深くて端正な顔をしてらっしゃいますけど……。まさか、異人の血を引いてるなんて……。
髪だって、しっかり黒いのに」
「髪は母譲りでしょうが……。
瞳の色は恐らく、父の遺伝子だ」
上体を屈めたサイさんが、わたしに上目遣いをしてみせる。
わたしからも近寄ってみると、彼女の瞳は青みがかっていた。
夜を閉じ込めたような、深い藍色だった。
「あ、綺麗な藍色……。
ずっと、髪と同じ、黒なんだと思ってました」
「そうですね。こうして、近付かないことには。
せめて目立つ色でなかったおかげで、表向きは普通の日本人でいられましたよ。
遺伝したのが髪ではなく、瞳だったのは幸いでした」
姿勢を戻したサイさんは、伏せた瞼に掌を当てた。
「どうせなら、顔も母に似てくれたら良かったんですがね」
"普通の日本人"。
いやに格式ばった口ぶりから、自らを異端と認識していることが窺える。
人とは違う。普通ではない。
その定義とは、一体なんなのだろう。
普通であるか否かとは、誰が決めることなのだろう。
大人には邪険にされ、年頃の近い童には敬遠される。
明くる日も明くる日も、冷たい視線と蔑む言葉の数々に、幼い彼女は晒されるばかりだった。
容姿が並み外れているというだけで、人間には違いないのに。
体は血が通っているし、心を病めば涙を流すのに。
なぜ、同じ生き物同士で傷つけ合うのか。
等しいはずの命に、差が生じてしまうのか。
「ご両親は、今どちらに……?」
「亡くなりました。母は、私を産んで間もなくに。
父、に当たる男の方は、───どうでしょう。
どこで何をしているやら、そもそも健在なのか。
今となっては、瑣末なことです」
「異人の方と知り合う機会、なんて、滅多にあるものじゃないですよね……?
差し支えなければ、馴れ初めを伺っても?」
「……残念ながら」
ぶっきらぼうに笑って、サイさんはまた首を振った。
「母は薬売りだった、という話は、叔父から聞きました。
恐らくは、行脚の道すがらに出会ったんだろう、とも」
「叔父というのは、母方の?」
「ええ。ですが、本人の口からは何も。
この子の父親は魯西亜人だと、それ以外は決して明かさなかったそうです」
母親については、忘却の彼方に。
父親については、記憶にも記録にも無いという。
"忘れ形見は、魯西亜の血を引く"。
ただそれだけを言い残して、サイさんのお母様は息を引き取ったそうだ。
「身重の女を庇わず、便りの一つも寄越さない。
仮にも情を交わした相手に、そんな仕打ちは有り得ない。
およそ、面倒になる前に追い出したか、あちらが行方をくらましたか。
体よく弄ばれた、なんてところでしょう」
「ひどい……」
見ず知らずの父親とやらに、沸々と怒りが湧いてくる。
当のサイさんを差し置いて、わたしは露骨に態度に出した。
「寄る辺を失い、行く当てもなかった母は、藁にも縋る思いで兄の、私の叔父を訪ねました。
そして、私が産まれた」
「あ……。でも、お母様は……」
「産後すぐ、感染症にかかって、そのまま。
長旅の疲れや、精神的なものも影響したんでしょうね。
栄養失調間際で、よくぞ無事に子を産めたと、医者も驚いていたそうです」
母の没後、サイさんは叔父夫婦に引き取られた。
夫婦はサイさんを、実の子らと平等に育てた。
夫婦の子らも、サイさんを実の兄妹同然に扱った。
裕福ではないが、仲睦まじく、温かな家庭だった。
不穏な影がじりじりと、一家に忍び寄るまでは。
「赤子の頃は良かった。
体つきや、面差しや、多少の違いはあれど、おくるみに包んでしまえば、皆一緒ですから。
……時の流れというのは、どうして、斯くも残酷なのでしょうね」
成長に伴い、サイさんは父の面影を宿すようになっていった。
ついには、秘匿にしてきた出自までもが明るみになってしまった。
「誰に話し掛けても無視をされ、買い物に行けば門前払いに遭い、叔父が営む道場は、みるみる生徒が減っていった。
叔父も奥様も、いつも頭を抱えていましたよ」
「自分たちには馴染みがないからって……」
「仕方ありません。
こちらにしてみれば、理不尽極まりなかったですが、時勢も時勢でしたから。
ただでさえ忌むべき合の子を遠ざけるのは、───ええ。仕方のないことだったのです。
巻き添えを食わされた一家は、とんだ災難でしょうがね」
「みんな、敵のようになってしまったのですか?一人も味方をしてくれなかった?」
「いいえ。
中には、情けをかけてくれる人もいました。間違っているのは世の方だと、声を上げてくれる人も。
私達は、そんな彼らと、繋がりを守って、生きてきたんです」
ようやく救いのある逸話が聞けて、安堵したのは束の間。
"でも"、とサイさんは暗い声で区切った。
「ある日、兄妹が、全身を傷だらけにして、泣きながら帰ってきました」
「叔父さま夫婦の、実のお子さん達?」
「そう。
私を匿っていることを咎められ、近所の子らに苛められたのです」
時同じくして、叔父の営む道場は伽藍堂となった。
あまりに急なことで叔父は驚いたが、どこか諦めた様子でもあったという。
つまるところ、"子らの親"が差し向けたのだ。
道場から一斉に姿を消したのも、兄妹に理不尽な暴力を振るったのも。
"あいのこ"とは蔑まれて当然の存在なのだと、常日頃より言い聞かせていたのだろう。
そうでなければ、年端もいかぬ子らに、知恵も意識もあるはずがない。
「差別されて、迫害されて、収入もなくなって……。
一家の暮らしは、日毎に困窮していきました」
「親切にしてくださる人達も、いた、ですよね……?」
「ええ。彼らのおかげで、首の皮一枚は、なんとか持ち堪えられました。
とはいえ、情けに頼ってばかりもいられない」
先行きの見えない不安。
砕けた矜持、手放した平穏、打ち捨てられた貧しい日々。
残されたのは、首の皮一枚分の生命線だけ。
幼いながらに、あいのこは悟った。
みんなが嫌いなのは自分だと。家族を不幸にしているのは自分だと。
悲観した心は絶望に染まり、慚愧となって外に溢れだした。
やがて、決意した。
私は、ここにいてはいけない。
「八歳でした。
私は、家を出る決心をしたのです」
「い───、八歳!?
そんな小さな頃に……。止められたでしょう?」
「……いいえ」
引き戸に背を預けたサイさんが、下ろした手を床につく。
「気付いていたんですよ、そのずっと前から。
叔父も奥様も、私を見る目が、少しずつ険しくなっていった。時折、苦虫を噛み潰したような顔で、私と口を利いた。無意識だったのでしょうね。
兄妹が怪我をして帰ったあの日から、私は強い疎外感を覚えるようになったのです」
「………。」
「出て行くと告げた時も、叔父は私を、引き留めようとはしませんでした。
ただ一言、すまないとだけ謝って、これを授けた」
"これ"、とサイさんは腰の刀に触れた。
柄も鞘も刀身も真っ白な、類い稀なる彼女の愛刀。
「一族に代々伝わる宝剣だとかで、名を朧といいます。
いざとなったら、これを売って足しにしろ、と叔父は言いたかったのでしょう」
「きらきらして、高値で取り引きされそうだから?」
「と、思います。
ですが、私はそうしませんでした。
鍛冶屋に持ち寄って、実践刀として鍛え直してもらったんです。
生きていくために、必要と思ったので」
「生きていくために……?」
「叔父は私に、二つのものを授けてくれました。
一つは、この朧。そしてもう一つが、剣の心得です」
剣道場の師範だった叔父。
物心つく前から身近にあった、刀の文化。
サイさんに心得を授けたのは、万一のためだろう。
壮絶な命運を負った彼女を、大人になるまで守ってやれる保証はない。
遠からず、自分たちの手を離れる時が、離される時が来る。
どんな未来が待ち受けていようとも、彼女自身で苦難を乗り越えていけるように。
祈りは願いに、願いは予感に、予感は性急に、悪い意味で現実となった。
「路銀を稼いで食い繋いで、時には野宿をしたりして。
繰り返すので精一杯で、伝手も展望もない中で、綱渡りのような日々でした。
そうして、二年ほどが経って、十歳の節目を迎えた頃。
一人の男が、私に声をかけてきたのです────」
追想の果てより、幾星霜。
彼女の胸に、三度の徒花が咲く。
『雨声』