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現し世は桜花の化身  作者: 和達譲
;ウキ編 めざめの章
29/75

;第八話 会いたかった 3



縁側に並んで座る。

激しさを増した雨が、針のように屋根を叩く。


ざあざあ、びたびた、かんかん、こんこん。

不規則に繰り返される雨音以外、もはや互いの声しか聞こえない。




「───そうですか。

奥方様に、お会いになられたのですね」



これまでの経緯を搔い摘んで、わたしは話した。

サイさんはときどき相槌を打って、最後に溜め息を吐いた。



「その時に、少し、話をしたんです。

町のこと、お城のこと、上様のこと……。

ここでサイさんが過ごした、二年間のこと」


「なるほど。

奥方様がじかにお話しされたのであれば、ほぼ事実と相違ないでしょう。

───さて。どこから始めたものやら」



サイさんが曇天を仰ぐ。

わたしは横から、サイさんの顔を覗き込んだ。



「時間はたくさんあるのですから、最初から、話してほしいです」


「……そうですね」



こちらに一瞥くれたサイさんは、今度は桜木の方に目を向けた。


まだ辛うじて留まってはいるが、じきに全ての花びらが散るだろう。

桜の寿命は短いのだと、かつてサイさんが言っていた。



「では、最初から。

私の出自についてからになりますが、よろしいですか?」


「はい」



わたしに一言断ってから、サイさんは正座を崩した。

片膝を立てた上に腕を乗せて、やや前傾に背中を丸める。

女性には憚られる姿勢かもしれないが、サイさんがやると絵になる。




「私の血筋、なんですが……。

そこはまだ、ご存じないのですよね?」


「はい。初耳です」


「実は、私の両親は……。

というより、私は、純粋な日本人ニッポンジンではないのですよ」


「えっ!

……じゃあ、サイさんは、異国からやって来られたのですか?」



他に誰もいないにも拘わらず、わたしは驚きのあまり声を潜めた。

サイさんは首を振り、訂正してくれた。



「正確には、母が日本人で、父が俄羅斯オロス人でした」


「おろす?」


「オロス、オロシャ。またの名を、魯西亜ロシア

蝦夷とは切っても切れない国ですよ」


「ロシア……」




母親が日本人、父親が魯西亜と呼ばれる異国人。

すなわちサイさんは、巷で忌み嫌われているという、"あいのこ"。

生まれも育ちも日の本でありながら、異なる血筋を持つとなれば、さぞ辛い幼少期を過ごしたことだろう。


しかしサイさんは、心情までは明かさなかった。

なにが悲しかったとも、苦しかったとも零さず、淡々と事実のみを述べた。


きっと、そうやって保ってきたのだ。

腐る前に顔を上げ、倒れる前に一歩を踏み出し、自分で自分を守ってきたのだ。


傷を癒やしてくれる薬も、痛みに寄り添ってくれる相手も、一息つかせてくれる場所さえも。

敢えて多くを語らない主義にこそ、当時の彼女の孤独が表れていると、わたしには感じられた。




「確かにサイさんは、ここいらではあまり見かけないような、彫りの深くて端正な顔をしてらっしゃいますけど……。まさか、異人の血を引いてるなんて……。

髪だって、しっかり黒いのに」


「髪は母譲りでしょうが……。

瞳の色は恐らく、父の遺伝子だ」



上体を屈めたサイさんが、わたしに上目遣いをしてみせる。

わたしからも近寄ってみると、彼女の瞳は青みがかっていた。

夜を閉じ込めたような、深い藍色だった。



「あ、綺麗な藍色……。

ずっと、髪と同じ、黒なんだと思ってました」


「そうですね。こうして、近付かないことには。

せめて目立つ色でなかったおかげで、表向きは普通の日本人でいられましたよ。

遺伝したのが髪ではなく、瞳だったのは幸いでした」



姿勢を戻したサイさんは、伏せた瞼に掌を当てた。



「どうせなら、顔も母に似てくれたら良かったんですがね」




"普通の日本人"。

いやに格式ばった口ぶりから、自らを異端と認識していることが窺える。


人とは違う。普通ではない。

その定義とは、一体なんなのだろう。

普通であるか否かとは、誰が決めることなのだろう。


大人には邪険にされ、年頃の近い童には敬遠される。

明くる日も明くる日も、冷たい視線と蔑む言葉の数々に、幼い彼女は晒されるばかりだった。


容姿が並み外れているというだけで、人間には違いないのに。

体は血がかよっているし、心を病めば涙を流すのに。


なぜ、同じ生き物同士で傷つけ合うのか。

等しいはずの命に、差が生じてしまうのか。




「ご両親は、今どちらに……?」


「亡くなりました。母は、私を産んで間もなくに。

父、に当たる男の方は、───どうでしょう。

どこで何をしているやら、そもそも健在なのか。

今となっては、瑣末なことです」


「異人の方と知り合う機会、なんて、滅多にあるものじゃないですよね……?

差し支えなければ、馴れ初めを伺っても?」


「……残念ながら」



ぶっきらぼうに笑って、サイさんはまた首を振った。



「母は薬売りだった、という話は、叔父から聞きました。

恐らくは、行脚の道すがらに出会ったんだろう、とも」


「叔父というのは、母方の?」


「ええ。ですが、本人の口からは何も。

この子の父親は魯西亜人だと、それ以外は決して明かさなかったそうです」




母親については、忘却の彼方に。

父親については、記憶にも記録にも無いという。


"忘れ形見は、魯西亜の血を引く"。

ただそれだけを言い残して、サイさんのお母様は息を引き取ったそうだ。




「身重の女を庇わず、便りの一つも寄越さない。

仮にも情を交わした相手に、そんな仕打ちは有り得ない。

およそ、面倒になる前に追い出したか、あちらが行方をくらましたか。

体よく弄ばれた、なんてところでしょう」


「ひどい……」



見ず知らずの父親とやらに、沸々と怒りが湧いてくる。

当のサイさんを差し置いて、わたしは露骨に態度に出した。



「寄る辺を失い、行く当てもなかった母は、藁にも縋る思いで兄の、私の叔父を訪ねました。

そして、私が産まれた」


「あ……。でも、お母様は……」


「産後すぐ、感染症にかかって、そのまま。

長旅の疲れや、精神的なものも影響したんでしょうね。

栄養失調間際で、よくぞ無事に子を産めたと、医者も驚いていたそうです」




母の没後、サイさんは叔父夫婦に引き取られた。

夫婦はサイさんを、実の子らと平等に育てた。

夫婦の子らも、サイさんを実の兄妹同然に扱った。


裕福ではないが、仲睦まじく、温かな家庭だった。

不穏な影がじりじりと、一家に忍び寄るまでは。




「赤子の頃は良かった。

体つきや、面差しや、多少の違いはあれど、おくるみにつつんでしまえば、みな一緒ですから。

……時の流れというのは、どうして、斯くも残酷なのでしょうね」




成長に伴い、サイさんは父の面影を宿すようになっていった。

ついには、秘匿にしてきた出自までもが明るみになってしまった。




「誰に話し掛けても無視をされ、買い物に行けば門前払いに遭い、叔父が営む道場は、みるみる生徒が減っていった。

叔父も奥様も、いつも頭を抱えていましたよ」


「自分たちには馴染みがないからって……」


「仕方ありません。

こちらにしてみれば、理不尽極まりなかったですが、時勢も時勢でしたから。

ただでさえ忌むべき合の子を遠ざけるのは、───ええ。仕方のないことだったのです。

巻き添えを食わされた一家は、とんだ災難でしょうがね」


「みんな、敵のようになってしまったのですか?一人も味方をしてくれなかった?」


「いいえ。

中には、情けをかけてくれる人もいました。間違っているのは世の方だと、声を上げてくれる人も。

私達は、そんな彼らと、繋がりを守って、生きてきたんです」



ようやく救いのある逸話が聞けて、安堵したのは束の間。

"でも"、とサイさんは暗い声で区切った。



「ある日、兄妹が、全身を傷だらけにして、泣きながら帰ってきました」


「叔父さま夫婦の、実のお子さん達?」


「そう。

私を匿っていることを咎められ、近所の子らに苛められたのです」




時同じくして、叔父の営む道場は伽藍堂となった。

あまりに急なことで叔父は驚いたが、どこか諦めた様子でもあったという。


つまるところ、"子らの親"が差し向けたのだ。

道場から一斉に姿を消したのも、兄妹に理不尽な暴力を振るったのも。

"あいのこ"とは蔑まれて当然の存在なのだと、常日頃より言い聞かせていたのだろう。

そうでなければ、年端もいかぬ子らに、知恵も意識もあるはずがない。




「差別されて、迫害されて、収入もなくなって……。

一家の暮らしは、日毎に困窮していきました」


「親切にしてくださる人達も、いた、ですよね……?」


「ええ。彼らのおかげで、首の皮一枚は、なんとか持ち堪えられました。

とはいえ、情けに頼ってばかりもいられない」




先行きの見えない不安。

砕けた矜持、手放した平穏、打ち捨てられた貧しい日々。

残されたのは、首の皮一枚分の生命線だけ。


幼いながらに、あいのこは悟った。

みんなが嫌いなのは自分だと。家族を不幸にしているのは自分だと。

悲観した心は絶望に染まり、慚愧となって外に溢れだした。


やがて、決意した。

私は、ここにいてはいけない。




「八歳でした。

私は、家を出る決心をしたのです」


「い───、八歳!?

そんな小さな頃に……。止められたでしょう?」


「……いいえ」



引き戸に背を預けたサイさんが、下ろした手を床につく。



「気付いていたんですよ、そのずっと前から。

叔父も奥様も、私を見る目が、少しずつ険しくなっていった。時折、苦虫を噛み潰したような顔で、私と口を利いた。無意識だったのでしょうね。

兄妹が怪我をして帰ったあの日から、私は強い疎外感を覚えるようになったのです」


「………。」


「出て行くと告げた時も、叔父は私を、引き留めようとはしませんでした。

ただ一言、すまないとだけ謝って、これを授けた」



"これ"、とサイさんは腰の刀に触れた。

柄も鞘も刀身も真っ白な、類い稀なる彼女の愛刀。



「一族に代々伝わる宝剣だとかで、名をおぼろといいます。

いざとなったら、これを売って足しにしろ、と叔父は言いたかったのでしょう」


「きらきらして、高値で取り引きされそうだから?」


「と、思います。

ですが、私はそうしませんでした。

鍛冶屋に持ち寄って、実践刀として鍛え直してもらったんです。

生きていくために、必要と思ったので」


「生きていくために……?」


「叔父は私に、二つのものを授けてくれました。

一つは、この朧。そしてもう一つが、剣の心得です」




剣道場の師範だった叔父。

物心つく前から身近にあった、刀の文化。


サイさんに心得を授けたのは、万一のためだろう。

壮絶な命運を負った彼女を、大人になるまで守ってやれる保証はない。

遠からず、自分たちの手を離れる時が、離される時が来る。


どんな未来が待ち受けていようとも、彼女自身で苦難を乗り越えていけるように。

祈りは願いに、願いは予感に、予感は性急に、悪い意味で現実となった。




「路銀を稼いで食い繋いで、時には野宿をしたりして。

繰り返すので精一杯で、伝手も展望もない中で、綱渡りのような日々でした。


そうして、二年ほどが経って、十歳の節目を迎えた頃。

一人の男が、私に声をかけてきたのです────」




追想の果てより、幾星霜。

彼女の胸に、三度みたびの徒花が咲く。






雨声うせい



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