;第八話 会いたかった 2
わたしの抱擁を受けたあと、サイさんは無言のまま体を離した。
わたしはもう一度サイさんを見上げたが、今度の視線は交わらなかった。
「中へ、入りましょう」
落ちた傘には目もくれず、わたしの肩を抱いて、サイさんは一歩を踏み出した。
促されるようにして、わたしも自然と一歩が出る。
無理に歩けと強制される感じはない。
わたしの歩幅と歩調に合わせ、また転ばないよう導いてくれる。
城の案内をしてもらった日、松吉さんと別れた時が懐かしい。
俯いた先には、馴染みのある刀と、見覚えのない靴。
前者の刀は必携として、後者の洋靴や洋服は、彼女の私物に含まれていただろうか。
西洋からの舶来品に触れる機会など、写真屋での一件が最初で最後とばかり思っていた。
サイさんの横顔を、ちらりと覗く。
装いの他に、変わった点はない。はずなのに、どうしてだろう。
数日前とは、まるで別人に感じられるのは。
サイさんであって、サイさんじゃないみたい。
ふと湧き上がったそれに、気まずさとは別の緊張を覚える。
「そこへ」
「あ、───はい」
縁側に腰掛けたわたしの足袋を、サイさんが屈んで脱がせてくれる。
サイさんも自らの靴を脱ぎ、順に敷居を跨いだ。
「けっこう濡れましたね」
「ごめんなさい、わたしが足止めをしたせいで……」
「構いません。
姫様こそ、寒くはないですか」
「はい。着替えるほどじゃないです」
「でしたら、髪だけでも乾かしましょう。座って」
わたしが正座、サイさんが立ち膝で、畳の上に向かい合わせになる。
サイさんは懐から手ぬぐいを取り出すと、わたしの髪を乾かし始めた。
「じっとして」
「はい」
これくらいは自分で、と遠慮する余裕はなかった。
会えたら話したかったこと、聞きたかったことも、どこかへ飛んでしまった。
ただ、サイさんに触れてもらえるのが嬉しくて、心地好くて。
こうして二人でいられる時間が、愛おしくて堪らなくて。
破裂してしまわないよう堪えるだけで、今のわたしには精一杯だった。
「痛いところはないですか」
「……はい」
そして思い知る。
いつからか、この人こそが、一番だと。
わたしにとってサイさんが、最も離れがたい存在となっていたことを。
「肌が冷たい……。
やはり、このままでは風邪を召しますね。
替えの衣をお持ちしますので────」
「待って」
立ち上がろうとしたサイさんの袖を、わたしは咄嗟に捕まえた。
「あなたも、濡れたでしょう。拭かないと」
わたしのせいで巻き添えを食った彼女とて、冷えてしまったのは同じ。
心配なのも本当だが、引き留める口実になるなら、どんな理由でも良かった。
「私は平気です。この程度なら自然に────」
「いいから。
あなたが良くても、わたしが気になるの」
仕方なさそうに座り直すサイさん。
立ち膝から正座に姿勢が変わったのを、観念した証拠とわたしは受け取った。
「これ、借りますね」
「……どうぞ」
自分がしてもらった遣り方を真似て、サイさんの髪を乾かしていく。
わたしの陽に焼けた髪と違い、彼女の髪は一本一本に艶と腰がある。
櫛など無くとも、指で梳かせば十分整う。
「もう、いいです。大丈夫。お手数をかけました」
一段落したところで、サイさんから制止をかけられた。
完全にはまだ足りないが、しつこくすると却って迷惑になる。
わたしは借りた手ぬぐいを畳み、膝元に置いた。
「さっきは、取り乱してごめんなさい。
ともあれ、お怪我がなくて良かったです。
おかえりなさい、サイさん」
「ただいま戻りました、姫様。
長らくお一人にさせてしまい、申し訳ありません。
帰途に酷い土砂崩れがありまして、遠回りを余儀なくされた次第です。
ご心配をおかけしました」
何も悪いことはしていないのに、サイさんは深々と頭を下げた。
律儀なのは相変わらずだ。
「大事ないなら、わたしはいいんです。
それで、懇親会とやらは?上様はどうされていました?」
「先方とも、たいへん親しげなご様子で。楽しい時間を過ごしたと、上機嫌に申されていました。
今は、熱い湯に浸かって、旅の疲れを癒している頃でしょうか」
「そうですか。サイさんは?」
「え?」
「旅先で、なにかありました?」
「私ですか?」
「その服。洋装も、よく似合いますね」
「ああ……。これですか。
親睦の証にと、先方が用意してくださったものだそうです。
上様と自分と────」
サイさんの表情が俄に曇る。
「それから、松吉にも」
黒に近い鉄紺の上下。
どういった経路で入手された物かは別として、サイさんの引き締まった体型が際立つ衣装である。
面識のない人からすれば、異国の貴族と見紛われても、おかしくないだろう。
まさか女性で、用心棒の立場にあるとは、一見して分かるまい。
加えて、この風格だ。
割り切ったというか、吹っ切れたというか。
まるで、戦に臨む武士が、腹を決めたかのような。
たった数日会わなかった間に、いっそう大人びたのが分かる。
城を発つ前は、むしろ挙動不審だったほどなのに。
ひょっとすると、本当に旅先で何かあったのかもしれない。
「姫様の方は、如何でしたか?
お一人の時間を過ごされてみて、不便を感じた点などあれば改善させますが、どうです?」
ひとつ咳ばらいをして、サイさんは論点を掏り替えた。
わたしは胸の内で、やっぱりなと肩を落とした。
話し上手で聞き上手で、尋ねれば何だって答えてくれる、物知りなサイさん。
そんな彼女が唯一、是が非でも伏せ続けているのが、いわゆる身の上話だ。
自らでは語らないどころか、必要に迫られた場面でも、言葉巧みに躱してしまう。
そうならそうと、わたしは構わなかった。
いつか彼女の閊が取れたなら、改めて耳を傾けるつもりでいた。
今は違う。今は構う。
閊が取れるまでなどと、悠長にしていたら手遅れを招く。
近い将来、わたしの追い付けない彼方へと、彼女は行ってしまう気がする。
だから、ごめんねサイさん。
わたしはもう、待たない。
「先日、わたし宛てに文が届きました」
「……ふみ?」
「はい」
「差出人は?」
「両親から。
染介さんという行商の方が、ここまで届けてくださったんです」
「染介が……」
サイさんの眉が寄る。
"染介"の名前に引っ掛かったらしい。
サイさんとは知己の間柄だと、染介さん本人の口から聞いたのだ。
惚けさせてなんかやらない。
「"ここまで"とは、姫様のもとへ直接、訪ねて来たということですか?」
「サイさんを介するべきか、悩んだそうですが、生憎と不在でしたので」
「だ、からって、そのような……。
違反行為と知っているはずなのに……」
「心配せずとも、内密に上手くやれました。現物も処分しました。
絶対に他言しないと、染介さんは約束してくれて、両親も……。
同じようなことは、今後、二度とないはずです。
どうか、あの人を責めないであげてください」
「ですが────」
「だから。
此度の件を知っているのは、わたしと染介さんと、───もう二人だけです」
含みのある言い方をしてやれば、サイさんはぐっと息を呑んだ。
"───といっても、玉月さんからご両親に宛てられた書簡は、アタシが届けたんじゃあないんですけどねぇ?"
"もう二人"とは。
言わずもがなサイさんと、サイさんが両親に宛てた書簡を届けてくれた者を指す。
極秘の重役を任せたほどだから、サイさんにとっては分身にも等しい人物なのだろう。
何方かは存じ上げないが、無事に役目を果たしてくれたこと、此度のきっかけを与えてくれたこと、大いに感謝したい。
「条件にあった通り、たくさんの物資と人材が送られてきたそうで、日々の暮らしが楽になったと書かれていました。
ずっと気になっていたので、里の様子が、皆がどうしているか分かって、良かったです」
「……申し訳、ありません、姫様。
掟に背くと知りながら、差し出がましい真似を───」
「謝らないで。咎めるつもりで言っているんじゃないです。
それに、返事を寄越した両親や、受け取ったわたしにも責はあります」
「それでも……!
結局はこうして、御身にまで、危ない橋を渡らせてしまった。
此度は、たまたま、運が向いただけで……。もし、どこかで抜かって、上様の耳に入っていたら───」
サイさんの顔から、みるみる血の気が引いていく。
サイさんに煩わされたのではなく、わたしが自分で立ち入ったことだ。
わたしの勝手を叱るならまだしも、サイさんが負い目を感じる必要はない。
"───ただの一度も、声を上げなかった。
じっと歯を食い縛って、耐えていたというわ"。
沙蘭さんの言葉が蘇る。
安逸に呆けたわたしを、我に返ったわたしが平手打ちする。
"あの子を助けられなかった自分を恥じるように、戒めるように───"。
ああ、そうか。
これは彼女が、自らに課した戒めなんだ。
きっと、自分が辛いのは平気でも、周りの誰かが傷付くのは、我慢ならないんだ。
たとえ濡れ衣を着せられ、烙印を押されて、八つ裂きの刑に処されたとしても、我が身なればと甘んじて受けるのに。
わたしの身に僅かでも危険が及ぶと、すぐさま抗議の声を上げるんだ。
この人は、そういう人だ。
残酷なほど優しくて、でも意地っ張りで。
わたしのことは大事にしてくれるのに、自分のことはどうでもいいんだ。
「そんな顔をしないで。あなたは何も悪くないわ。
すべて丸く収まったのだから、それで良いじゃありませんか」
「だけど────」
「わたしを見て、サイさん」
俯くサイさんの顔を両手で持ち上げ、強引にわたしと目を合わせる。
「わたし、とても嬉しかったんです。
両親から文が届いたことも、サイさんが両親に文を書いてくれたことも」
「姫様」
「不思議ですね。
自分は天涯孤独の身の上と、両親は既にないものと、言い聞かせていた頃より。
離れていても、元気に暮らしていると、分かった今の方が、吹っ切れた気がします」
「ひ────」
「父さんも母さんも、心から、サイさんに感謝していました。
同封された写真のことも、喜んでた。どちらが子供かってくらいに」
サイさんの反論を無視し、一方的に捲し立てる。
「───サイさん、ありがとう。
守ってくれて、支えてくれてありがとう」
「そして、ごめんなさい」
「わたし、なにも知らなかった。あなたのこと」
「いつも自分のことで手一杯で、あなたが笑顔の裏に何を隠しているか、知ろうともしなかった」
「泣きたい時もあったはずなのに、無理に笑わせてしまってごめんなさい」
「でも、もういいんです。どうか隠さないで」
「わたしはあなたを知りたい。サイさんの全部を知りたい」
「なにがあっても、ぜんぶ、受け止めてみせるから───」
だから、どうか教えて。
あなたの真実を、わたしにちょうだい。
サイさんは、小さく頷いた。




