;第八話 会いたかった
六月上旬。昼下がり。
昨夜から降り始めた雨が、一夜明けた今もなお、絶えず町を濡らし続けている。
湿った匂い、生ぬるい風、雫が屋根に落ちる音。
長雨ともなると、有り難がる者は少ないらしい。
「───もぉー、誰よー?こんなとこに置きっぱなしにして〜」
「どうしたの、忘れ物?」
「傘よ、傘。
誰がやったか知らないけど、連帯責任にされちゃうじゃない」
「ごめんなさーい、それ私ですー!」
「───放っていて大丈夫でしょうか?」
「念のため、場所を移すべきかもしれませんね。
紙は湿気に弱いですから」
「分かりました。
手隙の者がいないか、声をかけてきます」
「頼みます」
城のあちこちで、長雨の対応に追われる中。
手伝いを断られたわたしは一人、私室から縁側に出た。
あんなに美しかった桜が、もはや見る影もない。
薄暗い空の下、本来の輝きは損なわれてしまった。
散らされた花びらなど、かつてのようには、誰も拾わないだろう。
まるで、世の縮図だ。
花めく時は一瞬で、朽ちる時もまた一瞬。
萎んだ枝葉にそれでも触れてくれる人は、残念ながらここにはいない。
わたしの辿る末路、そのものかもしれない。
「───やれやれ。どうせ降るなら、こっちの都合に合わせてほしいもんだ」
「見ろよこれ、裾が汚れちまった。一張羅だってのによぉ」
「この時期の雨は、とんと参るよなぁ。
ベタベタして、気色悪ィったらねぇ」
外からも、慌ただしい気配が近付いてきた。
複数人の足音と、不機嫌そうな話し声は、男性のそれ。
出張を終えた隊士達か。
彼らも道中に降られたようで、雨への不満ばかり零している。
「───雨には仕事を増やされるわ」
「───雨とは仲良くなれませんね」
「───だから雨は嫌いなんだ」
里にいた頃は、どんなに願っても、応えてくれなかったのに。
ここでは恵みを通り越して、いっそ害だと、人々に貶されている。
この雫が一滴でも、里の方へ気まぐれを起こしてくれたなら。
空が泣き、町が濡れては、そんなことを考える。
「───おーい、帰ったぞー」
「あら!?いつの間に!」
「皆様お揃いで?」
「お揃いもお揃いだ。
じきに上様も到着なさるぞー」
「てっきり表からいらっしゃるものと……」
「お生憎サマ。こっちのが近かったんでな」
「たいへん!
お迎えの準備、仕切り直し急いで!」
「はい!」
先程の隊士達が、続々と城に入ってきた。
羽織りを広げて傘代わりとした者、泥跳ねを嫌がって裾を持ち上げた者。
既に全身ずぶ濡れで、開き直ったように髪を掻きあげる者。
十人十色の反応を示しながらも、我先にと急く者はいない。
後列に控えているという、上様を蔑ろには出来ないからだ。
「───裏門が見えました、上様」
「そろそろ下馬のご用意を」
「うむ。
誰ぞ、足場を整えてくれるか。泥を踏みたくない」
「私めが!」
「───本当に、寒くはないのですか?」
「皆さま用にも、手持ちがあれば良かったのですが……」
「構わん。
どのみち、傘と刀で二刀流はできん」
「お前らにはお前らの仕事があるんだ。黙って歩け」
少し遅れて、後列の気配も近付いてきた。
馬に跨がった上様がいて、その脇を固めた集団がいる。
傍らで傘持ちをしているのが、側近や小姓たち。
あくまで護衛に徹しているのが、残りの隊士達と思われる。
いずれにせよ、上様が裏の長屋門をお使いになるとは珍しい。
表の高麗門へは遠回りになるので、急遽こちらに進路を変えたようだ。
平素通りにお出迎えの準備をしていた女中さんは、今頃てんてこ舞いに違いない。
「───あ、おい!」
「いいって。ほっとけ、あんなやつ」
すると、傘持ちから逸れる者が現れた。
体の線がすっかり分かる黒服を纏い、手入れの行き届いた蛇の目傘を差し、真っ直ぐにこちらへ向かって歩いてくる、その人。
わたしは走り出した。
特に理由はない。頭の中は空っぽだ。
なのに、どうしてか涙が溢れて、気付けば足が動いていた。
草履を履く暇さえ惜しく、縁側からそのまま地面に降りる。
泥が足袋に染みても、裾に跳ねても、構わなかった。
冷たくても、汚れても、どうでもよかった。
今はただ、一秒でも早く先へ。
覚束ない足取りで、それでも懸命に前へ。
あと少し。
あと五歩か六歩を数えれば、彼の人に手が届く。
そう脳裏に過ぎった刹那、がくんと上体が傾いた。
前方ばかりを意識したせいで、ぬかるみに躓いてしまったらしい。
為す術なく倒れるわたしに、彼の人が駆け寄ってくる。
腕を伸ばした彼の人は、下から掬うようにして、わたしを抱き止めてくれた。
柔らかい衝撃と、視界いっぱいの黒。
雨の匂いに紛れて、桜の香りが宙を舞う。
「───ぃ、たかった」
わたしは彼の人の胸に顔を埋め、彼の人の香りで自分の胸を満たした。
彼の人は抵抗することなく、黙ってわたしを支え続けた。
「ずっと───」
放られた蛇の目傘が、視界の端で揺らめく。
灰色の景色に眩しい赤は、わたしの心変わりを映しているかのようだった。
「会いたかった、サイさん」
六月上旬。梅雨入り。
孤独だった、十二日。
泣きながら見上げるわたしを、彼の人も泣きそうに見下ろしていた。




