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現し世は桜花の化身  作者: 和達譲
;ウキ編 めざめの章
27/75

;第八話 会いたかった



六月上旬。昼下がり。

昨夜から降り始めた雨が、一夜いちや明けた今もなお、絶えず町を濡らし続けている。


湿った匂い、生ぬるい風、雫が屋根に落ちる音。

長雨ともなると、有り難がる者は少ないらしい。




「───もぉー、誰よー?こんなとこに置きっぱなしにして〜」


「どうしたの、忘れ物?」


「傘よ、傘。

誰がやったか知らないけど、連帯責任にされちゃうじゃない」


「ごめんなさーい、それ私ですー!」



「───放っていて大丈夫でしょうか?」


「念のため、場所を移すべきかもしれませんね。

紙は湿気に弱いですから」


「分かりました。

手隙の者がいないか、声をかけてきます」


「頼みます」




城のあちこちで、長雨の対応に追われる中。

手伝いを断られたわたしは一人、私室から縁側に出た。


あんなに美しかった桜が、もはや見る影もない。

薄暗い空の下、本来の輝きは損なわれてしまった。

散らされた花びらなど、かつてのようには、誰も拾わないだろう。


まるで、世の縮図だ。

花めく時は一瞬で、朽ちる時もまた一瞬。

萎んだ枝葉にそれでも触れてくれる人は、残念ながらここにはいない。

わたしの辿る末路、そのものかもしれない。




「───やれやれ。どうせ降るなら、こっちの都合に合わせてほしいもんだ」


「見ろよこれ、裾が汚れちまった。一張羅だってのによぉ」


「この時期の雨は、とんと参るよなぁ。

ベタベタして、気色悪ィったらねぇ」




外からも、慌ただしい気配が近付いてきた。

複数人の足音と、不機嫌そうな話し声は、男性のそれ。


出張を終えた隊士達か。

彼らも道中に降られたようで、雨への不満ばかり零している。




「───雨には仕事を増やされるわ」


「───雨とは仲良くなれませんね」


「───だから雨は嫌いなんだ」




里にいた頃は、どんなに願っても、応えてくれなかったのに。

ここでは恵みを通り越して、いっそ害だと、人々に貶されている。


この雫が一滴でも、里の方へ気まぐれを起こしてくれたなら。

空が泣き、町が濡れては、そんなことを考える。




「───おーい、帰ったぞー」


「あら!?いつの間に!」


「皆様お揃いで?」


「お揃いもお揃いだ。

じきに上様も到着なさるぞー」


「てっきり表からいらっしゃるものと……」


「お生憎サマ。こっちのが近かったんでな」


「たいへん!

お迎えの準備、仕切り直し急いで!」


「はい!」





先程の隊士達が、続々と城に入ってきた。


羽織りを広げて傘代わりとした者、泥跳ねを嫌がって裾を持ち上げた者。

既に全身ずぶ濡れで、開き直ったように髪を掻きあげる者。


十人十色の反応を示しながらも、我先にと急く者はいない。

後列に控えているという、上様を蔑ろには出来ないからだ。





「───裏門が見えました、上様」


「そろそろ下馬のご用意を」


「うむ。

誰ぞ、足場を整えてくれるか。泥を踏みたくない」


わたくしめが!」



「───本当に、寒くはないのですか?」


「皆さま用にも、手持ちがあれば良かったのですが……」


「構わん。

どのみち、傘と刀で二刀流はできん」


「お前らにはお前らの仕事があるんだ。黙って歩け」




少し遅れて、後列の気配も近付いてきた。


馬に跨がった上様がいて、その脇を固めた集団がいる。

傍らで傘持ちをしているのが、側近や小姓たち。

あくまで護衛に徹しているのが、残りの隊士達と思われる。


いずれにせよ、上様が裏の長屋門をお使いになるとは珍しい。

表の高麗門へは遠回りになるので、急遽こちらに進路を変えたようだ。

平素通りにお出迎えの準備をしていた女中さんは、今頃てんてこ舞いに違いない。




「───あ、おい!」


「いいって。ほっとけ、あんなやつ」




すると、傘持ちからはぐれる者が現れた。

体の線がすっかり分かる黒服を纏い、手入れの行き届いた蛇の目傘を差し、真っ直ぐにこちらへ向かって歩いてくる、その人。


わたしは走り出した。

特に理由はない。頭の中は空っぽだ。

なのに、どうしてか涙が溢れて、気付けば足が動いていた。


草履を履く暇さえ惜しく、縁側からそのまま地面に降りる。

泥が足袋に染みても、裾に跳ねても、構わなかった。

冷たくても、汚れても、どうでもよかった。


今はただ、一秒でも早く先へ。

覚束ない足取りで、それでも懸命に前へ。



あと少し。

あと五歩か六歩を数えれば、の人に手が届く。

そう脳裏に過ぎった刹那、がくんと上体が傾いた。

前方ばかりを意識したせいで、ぬかるみに躓いてしまったらしい。


為す術なく倒れるわたしに、彼の人が駆け寄ってくる。

腕を伸ばした彼の人は、下から掬うようにして、わたしを抱き止めてくれた。


柔らかい衝撃と、視界いっぱいの黒。

雨の匂いに紛れて、桜の香りが宙を舞う。




「───ぃ、たかった」




わたしは彼の人の胸に顔を埋め、彼の人の香りで自分の胸を満たした。

彼の人は抵抗することなく、黙ってわたしを支え続けた。




「ずっと───」




放られた蛇の目傘が、視界の端で揺らめく。

灰色の景色に眩しい赤は、わたしの心変わりを映しているかのようだった。




「会いたかった、サイさん」




六月上旬。梅雨入り。

孤独だった、十二日。

泣きながら見上げるわたしを、彼の人も泣きそうに見下ろしていた。




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