;第七話 雨希へ
サイさんが城を発ってから、今日で十日。
季節はもうじき、初夏を迎える。
予定では七日後のはずだったが、未だ帰ってくる気配はない。
ひょっとすると、旅先で何かあって、帰りたくても帰れない状況なのかもしれない。
無事ならば結構だけれど、会えない期間が延びるほどに、わたしの想いは募るばかりだった。
「───いい天気だなぁ」
縁側に腰かけ、晴天を仰ぐ。
側室としてやるべきことも、わたし個人がやりたいことも、特にない。
先日まで話し相手になってくれていた沙蘭さんも、もういない。
決まった時間に寝起きして、決まった通りに食事や入浴を済ませて。
手持ち無沙汰になったら、ぼんやりと外の景色を眺めて過ごす。
里にいた頃の目まぐるしさが嘘のように、平穏な日々。
それは却って息苦しさを覚えるもので、今の自分には何もないことを、ほとほと実感させられた。
"───思い当たる節は、あるわ"。
サイさんの過去。
サイさんが雪竹城に召し上げられて、今日までの二年間。
数字にすると呆気ないが、そのたった二年の間に、玉月才蔵という人物の半生が集約されていた。
当時の彼女は、わたしと同じ十四歳。
拙く脆く、あどけなさの残る少女だった。
しかし、殺人の心得だけは、既に持ち合わせがあったという。
なぜ彼女は、始末屋なんて悲しい仕事を生業としていたのか。
召し上げられる以前はどこで暮らし、どんな生活を送っていたのか。
ご家族は、ご家族と呼べるような存在は、いるのかいないのか。
改めて、わたしはサイさんについて、殆ど知らない。
"知ったら最後、二度と才蔵と笑い合うことは出来ないかもしれない"。
"それでも、あなたは知りたい───?"。
これまでに、何人斬ってきたのだろう。
どれだけの命を、奪ってきたのだろう。
わからない。想像もつかない。
ただ、不思議と恐れは懐かなかった。
いつかの惨劇には酷く胸が痛んだが、サイさんに対する気持ち自体は、変わらなかった。
変わったことがあるとすれば、憐憫の情が芽生えてしまったこと。
狂おしいまでの悲痛を抱えてなお、気丈に振る舞い続ける彼女を、どうにか癒してあげられないだろうかと、願ってしまうことだ。
だって、心があるのだ。
彼女の正体が何であれ、彼女にも確かに心があるのだ。
楽しくて笑い、悲しくて俯き、わたしのためにと怒ったり嘆いたりしてくれる。
件の男を手にかけた時だって、殺生を可笑しむ様子はなかった。
むしろ、ずっと隠してきたもの、守ってきたものを暴かれて、自らの卑劣に耐え兼ねるような、自らの尊厳を限ったような。
「会いたいなぁ」
ああ、会いたい。
サイさんの顔を見たい。声を聞きたい。
サイさんに触れたい。触れられたい。
たとえ、あなたが鬼でも、怪物でも。
わたしはあなたを嫌ったり、蔑んだりできない。
これって、いけない感情ですか。
あなたの罪を踏まえた上で、あなたの誠を信じたいわたしは、罰当たりな女ですか。
「───あ、いたいた。
ウキさん!チガヤ ウキさーん!」
思案に耽っていたところへ、溌剌とした声が響いてきた。
酸いも甘いも噛み分けたような、大人の男性の声だった。
「いや~、ようやくここまで辿り着きました!」
声のした方へ目を向けると、なにやら大荷物を背負った、商人風の男が現れた。
正門からここまで、直接やって来たようだ。
「お久しぶりです、お嬢さん。
アタシのこと、覚えておいでですかねぇ?」
人の好い笑みを携え、わたしに会釈する男。
まるで面識がある口ぶりだが、この人は何処の誰だったか。
「えっと……」
不躾ながら、男の全身を眺めてみる。
あまり裕福とは言えなそうな身なりに、日向を思わせる温かな面差し。
間延びした特徴的な喋り方に、やや踵を浮かせた歩き方。
加えて、この大荷物とくれば、実際に行商人なのだろう。
行商人。
わたしと面識があって、ちょっと風変わりな、男の行商人。
「あ……!
あなたは、あの時の───!」
蘇った記憶。
わたしは思わず手を打った。
「はい~!
いやはや、その節はたいへん世話になりまして。
またお会いできて嬉しい限りです、ウキお嬢さん!」
彼の名前は、染介さん。
わたしを"ウキお嬢さん"と呼んでくれる人は、彼以外にいない。
「こちらこそ、会えて嬉しいです、染介さん」
「名前まで!
あ、どうかそのまま……」
ちゃんと挨拶しようとすると、座ったままでと制止された。
「それにしても、しばらく見ない間に、こんなにご立派になられて……。
アタシはすごく驚いていますよ!」
「いいえそんな、わたし自身は、ぜんぜん……。
施してもらうばっかりで……」
「なるほど。謙虚なところは、お変わりないようですねぇ。
あと、その愛らしいお顔立ちも」
自分の頬を代わりに突いて、染介さんはケタケタと笑った。
彼の安否が気掛かりだったので、息災と分かっただけでも、わたしは嬉しかった。
"───もしもし、お兄さん!だいじょうぶ!?お兄さん!"。
"あう……。なん、あ、だれ───?"。
あれは、わたしが十歳を迎えたばかりの頃。
飯炊き用の水を汲みに行った川辺で、一人の青年が行き倒れていた。
頬がこけるほどに窶れた、若かりし染介さんだった。
訳を尋ねると、腹が減って動けないのだと、染介さんは言った。
わたしは里から人を呼び、染介さんを連れ帰って、彼の介抱に終始した。
母の美味しい手料理はもちろん、わたしの不格好な握り飯も、染介さんは喜んで食べてくれた。
数日後。
すっかり元気を取り戻した染介さんは、別れ際にこう告げた。
いただいた御恩は、一生忘れない。
いつか必ずお礼をしに、再びこの地を訪れるでしょう、と。
まさか、ここで再会を果たすとは。
駆け出しなんだとぼやいていた当時に比べ、表情も肌つやも随分明るくなった。
五年の歳月をかけ、行商が板に付いたようだ。
空腹で行き倒れることは、もうないだろう。
「こうしてまたお話をできるなんて、夢にも思いませんでした。
辛い目に遭ってないかって、みんな心配していたんですよ?」
「アッハッハッハ。まこと、申し訳ない。
近頃は商売の方も乗ってきましてねぇ?なんとかやらせてもらってますよ。
贅沢はできませんが、また行き倒れる心配は無用です」
「ふふ。ご苦労が実って何よりです」
「なんの!
それもこれも、あの時みなさんが手を差し延べて下すったおかげですとも!
感謝しております」
「え、あ、わたしは、たまたま、通りがかっただけで、感謝されるようなことは────」
染介さんに深々と頭を下げられ、わたしは慌てて話題を変えた。
「ところで、今日はどうして、こちらへ?
わたしに会いに───、なんて理由じゃ、普通は通してもらえませんよね?」
「おっと、これは失敬。紹介が遅れました。
実はアタシ、半年ほど前から、こちらのご贔屓に与ってましてね?
いい商品が入った時なんか、よく寄らせてもらうんですよ」
「つまり、上様じきじきに、商いの許しを出されたと?」
「そうなりますかねぇ」
「すごい!大出世ですね!」
「いやぁ~、へへへ。お恥ずかしい」
照れ臭そうに誇らしそうに、染介さんは項を撫でた。
一度見えたきりの縁でも、知人が幸福を得るのは喜ばしい。
「ですが、今日ばっかりは、商いに来たわけじゃあないんですよねぇ」
ふと、染介さんは悪戯っぽく鼻を鳴らした。
「どういうことですか?」
「まあまあ。
今に分かりますんで、ちょいとお待ちを」
勿体を付けた染介さんは、背負い篭を地面に置き、中身を漁り始めた。
「あったあった。
失くしちゃ大変だと思って、底に仕舞っておいたんですよねぇ」
取り出されたのは、漆塗りの箱だった。
掌ふたつ分の大きさで、薄い長方形をしている。
握り飯を詰めるにしては、物々しい様相だ。
「ささ、どうぞ」
「なんですか?」
「文ですよ。ふ・み!」
「文……?わたしにですか?」
「左様でありやす」
受け取った箱の蓋を開けると、確かに一通の文が納められていた。
思いがけない土産に首を傾げつつ、文の裏面を確認してみると、もっと思いがけない差出人の名前が記されていた。
「うそ……。これって───」
「はい。
お嬢さんのお父上、お母上から、承って参りました」
見覚えがある、どころではない。
この柔らかい筆跡といい、間違いなく母からだ。
どうして、今になって。
別れた縁者とやり取りすることは、側室の掟で固く禁じられている。
だからこそ淋しさを押し殺して、両親は最早ないものと、自分に言い聞かせてきたのに。
「あり、ひょっとしてご存知ないです?」
「へ……。なにを、ですか?」
「此度の件、一任されてるのは、玉月さんなんですよ」
またしても、わたしにとって重要な場面で、サイさんの名前が出てくるのか。
呆然とするわたしに構わず、染介さんは続けた。
僅か五日前。
行商の道すがら、染介さんは里へ立ち寄ったという。
あの日の約束を果たすため、感謝の品々を篭いっぱいに積み込んで。
立派になった染介さんを、里のみんなも歓迎した。
中でも手厚く持て成したのがうちの両親で、互いの近況を事細かに報告し合ったそうだ。
わたしの輿入れを知った染介さんは、両親にこう話した。
雪竹城ならば、自分も馴染みがある。
成長されたご息女に、いつかお目にかかる機会があるやもしれない、と。
すると両親は、無理はしなくていいんだけどと断った上で、染介さんにある頼み事をした。
そうして巡り巡ってきたのが、手元にある文というわけだ。
「なんでも、ちょっと前に、玉月さんの方からご両親宛てに書簡を出されていたとか……」
「玉月さんとお知り合いなんですか!?」
「えっ?ああ、はい。知り合いというか、まあ。面識はありますな。
といっても、玉月さんからご両親に宛てられた書簡は、アタシが届けたんじゃあないんですけどねぇ?」
単に両親からの文、というだけでなく。
サイさんから先に、わたしの両親へ送っていた。
自ら規則を破るような人じゃないのに。
上様に知れれば、辛い罰を受けるかもしれないのに。
わたしの周りで驚くべきことがあった時、必ずサイさんが一枚は噛んでいる。
「その漆器も、元は玉月さんの私物だそうで。
自分らの懐には輝きが過ぎるからと、一緒に預かってきたんでさ」
「そう、でしたか」
「ふぅ〜……。
やれやれ、肝が冷えた。無事に済んで一安心だ。
ちょうど上様のご不在が重なったのは、幸いでしたなぁ」
紙面越しに、両親とも再会。
どんなつもりで、どんな言葉を、二人はわたしに寄越したのだろうか。