;第六話 綺麗な月だな 2
「そういやお前、こないだ関係者の身内に仇討ちされかけたんだって?
柄にもなく、女を装っていたらしいじゃないか」
「………。」
「そのうえで見破られるとは、大した目利きだ。
積年の恨みってやつは恐ろしいねぇ」
「………。」
反論がないのを良いことに、俺は立て続けに挑発した。
「しかも、そんな血生臭い応酬を、あのお嬢さんの目の前でやったんだってな?
そりゃあ彼女も災難ってもんだ。お前の傍にいるやつは、命がいくつあっても────」
「ッ黙れ!!」
またしても、あの娘で鎌を掛けた途端に、玉月は反応した。
ぎろりとこちらを睨む双眸は、まさしく鬼の如き獰猛さを湛えている。
俺はたまらず生唾を飲み、歯を剥き出して笑った。
「(愉しい)」
お前の澄まし顔を暴けるのは俺だけ。
お前を怒らせるのも、抑えられない激情を引き出せるのも、俺だけ。
この世でただ一人、お前の醜い本性を弁えているのが、俺だ。
「(気持ちいい)」
とはいえ、さすがの俺も、ここまで激昂した姿は初めて見る。
取っ組み合いの喧嘩になった時でさえ、俺ばかりが逆上せあがって、さっさと一抜けを決められてしまったくらいなのに。
喜びに勝る苛立ちが沸き、噛み締めた奥歯から苦い唾液が滲みだす。
「(違う)」
どれだけ俺が手を焼いても、お前は目の色ひとつ変えなかったじゃないか。
たった数日、共に過ごしただけの娘には、こうも心揺さぶられるのか、お前は。
"お前のおかげで、目が覚めたよ"。
気に入らない。
丸くなったお前は、女々しく落ちぶれたお前なんか、ちっとも面白くないんだよ。
「ハッ、賢しいツラしやがって。あの娘の姉にでもなったつもりか?」
「な……。私はそんなこと───」
「じゃあ何だって言うんだよ。
あんなに初心で綺麗な娘を、こっちの世界に引き入れようってのか?」
「そんなわけないだろ!」
「どうだか。
望もうと望むまいと、離れない限り、いずれはそうなる。
あの娘のために、お前は剣を棄てられるか?」
「それは────」
玉月の声から棘が落ちていく。
玉月の頬から艶が引いていく。
水面に雫を垂らすように、少しずつ。
「出来ないだろう。
牙を抜けば、お前は何も持たない。何も残らない。
分かったら、必要以上にあの娘に近付くのはやめろ。肩入れをするな。
無情で冷徹な鬼に戻れよ。その方がずっと楽になる。
お前だって、あの娘を汚したくはないんだろう?」
とどめを刺してやれば、玉月の瞳は涙を浮かべた。
混じりけのない、悔しさからの涙だ。
心底、綺麗だと思った。
同時に、憎らしいと思った。
その涙を齎したのは俺でも、その心に在るのは俺ではない。
俺のせいで泣くお前は、俺のためには泣いてくれない。
「(苛々する)」
どうしてお前は、俺を見ない。
俺はいつだって、お前を見ているのに。
俺を見ないお前を、俺は見たくない。
「結局、誰からも愛してもらえないんだよ、お前は」
玉月に向けた皮肉。
口にすると、自分を卑しめているようにも聞こえて、笑えた。
「しょう────」
玉月が俺の名を呼ぼうとする。
俺はこれ以上なにも言われたくなくて、言わせたくなくて、開きかけた唇に強引に口付けた。
柔らかい。のに、酷く冷たい。
玉月自身は温かいはずでも、俺は骨まで冷えていくようだった。
罪悪感に眉を寄せつつ、玉月の口内へ舌を差し入れる。
玉月の温もりを求めて、玉月と痛みを分け合いたくて。
「む、ンぐ、ッ───!」
我に返った玉月は、喉を鳴らして手足をばたつかせた。
出口が塞がっているため、訴えは言葉にならない。
必死の抵抗は、虚しい物音を立てるに過ぎない。
「(弱い)」
掴んだ手首を握り締めると、本来の形がよく分かる。
華奢な腕。女の体だ。
こんな棒きれのような腕と体で、一体どうして重い刀を振り回せるのか。
軽く捻ってやるだけで、今にも折れてしまいそうなのに。
「………〜〜〜ッッ!」
玉月が俺の下唇を噛んだ。
正攻法では敵わないと判断したんだろう。
とっさに唇を離す。
俺の胸板を跳ね退けた玉月は、畳の上を勢いよく転がっていった。
俺は離された距離を敢えて詰めず、仰向けに座り直した。
「ゲホッ、ゴホゴホッ、く───」
起き上がった玉月は、口元を手で隠して咳き込んだ。
俺に塞がれていた分、空気を取り込んでいるようだ。
俺はそんな玉月をぼんやりと眺めながら、出血する傷口を舌で舐めた。
「突然、なにするんだ、」
落ち着きを取り戻した玉月が、上擦った声で凄む。
俺は俯き、玉月と目を合わせることを拒んだ。
「なにって、分かんだろ。接吻だよ」
「そんなことを聞いてるんじゃない!どうしてお前は───」
「理由なんかねーよ。
なんとなく、苛ついたから、嫌がらせしてやろうと思っただけさ」
「松吉……」
そこへ、何者かの足音が近付いた。
刺客にしては忙しなく、隊士にしては歩幅が狭い。
先方の家人か、こちらの側近連中だろう。
もうじきに、宴会がお開きになる頃合いだ。
上様の遣いとして、言伝にやって来たのかもしれない。
邪魔が入ったことに再び舌を打つが、こればかりは仕様がないと受け入れる。
玉月も気付いたようで、身なりを整えて備えた。
「───ああっ、才蔵殿!」
やがて障子が引かれると、廊下から上様の小姓が現れた。
「こちらにおられましたか!
なかなか姿が見えませんで、探しに来てしまいましたぞ!」
人懐こそうな笑顔が印象的な青年。
彼はまだ、雪竹城に召し抱えられて間もない。
だから、上様の本性をよく知らない。
玉月が起こした事件についても、詳しくは知らない。
知ってなお笑顔でいられるかは、考えるまでもない。
「手間をかけたようだな。すまなかった。
……して、どうした?宴の方は、もう済んだのか?」
「はい、じきに!」
小姓に対して、玉月も幾ぶん朗らかに応じた。
俺との扱いの差は雲泥だ。
「それで、ですね。
床に入られる前に、こちらの領主様が是非、お二方にもお渡ししたい物があるとのことで」
"お渡ししたい物"はともかく、"お二方"とはなんだ。
小姓の言伝が引っ掛かった俺は、玉月との会話に割って入った。
「ちょっと待て。二人ってことは俺もか?」
「はい!
上様より献上されました御進物を、たいへん気に入られたようでして。
そのお返しをしたいだとか、なんだとか……。
そんな感じのことを申されておりました!」
「ふーん……」
先方いわく"お渡ししたい物"とは、"お返ししたい物"でもあるらしい。
上様からは、高価な酒と着流しを献上したんだったか。
それのお返しとなると、あちらも嗜好品の類を見繕ったのだろう。
納得しつつ、疑問は残る。
上様へのお返しなのだから、上様お一人分を用意すれば十分なはずだ。
身分の低い俺達にまで施してやろうとは、気っ風が良いのか、自分の方が栄えていると誇示したいのか。
金持ちのすることは、やはり解せない。
「なんだか知らんが、そっちに顔出しゃいいんだな?」
「はい!
できるだけ、お急ぎくださいますように、とも……」
「あい分かった。
支度して行くから、伝えてくれるか」
「承知しました。
では、客間にてお待ちしております」
さりげなく主導権を取った俺が、玉月に代わって返事をする。
頭を下げた小姓は、来た道をそそくさと引き返していった。
早くも帯刀まで済ませた玉月は、小姓の足音が遠ざかるなり立ち上がった。
俺から背けた横顔には、怒りも激しさも残っていないようだった。
「先に出る。
手前もさっさと追い付いてこい」
仕事に私情は持ち込まない。
切り替えの早さは相変わらず。
俺にとっては、つまらないこと、この上ない。
まったく、領主のおっさんも、いい時に呼び付けてくれたもんだ。
「それと────」
障子に手をかけた玉月が、言いかけて押し黙る。
なんだよと続きを促すと、玉月は畏まった咳ばらいをした。
「今夜のことは、水に流してやるから。あのような悪ふざけは、二度と止せ。
次は指をへし折る」
「……そりゃ恐いな」
思いのほか、容易く赦された。
せっかくだが、水に流してくれとは頼んでいない。
指をへし折るなどと脅されて、素直に反省してやるつもりもない。
お前は無かったことにしたいんだろうが、そうはさせない。
俺は今日という日を二度と忘れないし、忘れさせやしない。
「玉月よ」
玉月が障子を引くと同時に呼び掛ける。
動きを止めた玉月は、あくまで俺の独り言を、律儀に待った。
「お前は機微ってもんの通じねえ、朴念仁の阿呆だからな。
一応、言葉にしといてやる」
今度こそ、玉月と目を合わせる。
「俺はお前をからかうが、ふざけたことは一度もない。俺はお前に、嘘はつかない。
恨むなら恨めばいい。指だろうが爪だろうが、欲しけりゃ好きなだけくれてやる。
だが、指をやる代わりに、俺はお前の命をもらう」
"俺が仕留めるその時まで、勝手に果てやがったら承知しねえ"。
最後に俺がにやりと笑うと、玉月の瞳がきらりと光った。
「望むところだ」
障子は開けたまま、玉月が座敷を出ていく。
小姓よりも軽い足音が、惜しみのない足取りで、静寂を置いて去っていく。
息を吸えば、玉月の残り香が鼻を抜ける。
桜に似た、優しい香り。あいつの纏う、風のにおいだ。
「"望むところだ"……」
柱に凭れ、外の景色に視線を移す。
粲然たる三日月が、天高く俺を見下ろしている。
「────ふ、」
名前はある。定義もある。
人の心を持って生まれたならば、誰しも一度は落ちる穴。
飯が喉を通らない者がいれば、朝露まで慈しむ者もいるという。
名前を、知っている。
今の自分が何者かを、落ちた穴の正体を、知っている。
あいつがあいつである限り、俺が俺である限り、認めるわけにはいかないだけで。
「綺麗な月だな。ギン」
柄でもない。
指先で唇に触れれば、まだ微熱を帯びていた。
『空明』