;第五話 それでも、あなたは知りたい? 3
「玉月さんは、
───遂行、したんですか、命令を」
「いいえ。むしろ、その逆」
"むしろ"。"その逆"。
サイさんは、命ぜられた任を遂行しなかった。
最悪の展開を避けられて何よりだが、まだ安心はできない。
結果的に失敗だったと、沙蘭さんは言った。
サイさんは少女を殺めていないが、すべてが丸く収まったわけでもない、ということだ。
「才蔵はね、逃がしてやろうとしたのよ」
「逃がす……?
わざと、命令を無視したと?」
沙蘭さんは、まるで我がことのように、誇らしげに続けた。
「上様の命を受けた才蔵は、ただちに脱走者の討伐へ向かったわ。腰には刀を差してね。
けれど、それを抜くことはしなかった。
自分が時間を稼ぐから、その間に出来るだけ遠くへ逃げるようにと、才蔵はあの子の背中を押したのよ」
「サイさんが……」
やっぱりサイさんは、残忍な人斬りなんかじゃなかった。
事の顛末がどうあれ、人助けのため奔走した。
哀れな少女に一時でも、救いを齎そうと尽力したのだ、あの人は。
しかし、胸を撫で下ろしたのも束の間。
語られる物語の最後は、とても悲しく、苦かった。
「あの子を送り出した後、才蔵は手土産を一つ持って、上様の元へ参じたわ」
「手土産?」
「髪よ。あの子の髪を一房刈って、自分の手拭いに包んだの」
「なんのためにですか?」
「証拠、かしらね。無事に役目を果たしてきたと、信じ込ませるために。
実は嘘だったと看破されても、あの子が逃げ果せるには十分と考えたんでしょう」
「でも、失敗に終わった、ですよね……?」
「……筒抜けだったのよ、ぜんぶ。最初から。
こんなこともあろうかと、他の隊士に才蔵の足取りを追わせていたの」
「な────」
当時を思い返しているのか、沙蘭さんの声が怒りに震えだす。
「だったら、なんで、なんでサイさんに────」
「それも含めて試す、ってことなのよ。残念ながら」
わたしは少女の身内じゃない。
現場に居合わせたのでもない。
とある昔話として、又聞きをさせてもらった程度の、第三者に過ぎない。
それでも、又聞きをした分にも、想像をしただけでも。
わたしまで、我がことのように、胸が張り裂けてしまいそうになる。
当時のサイさんを思うと、不憫でたまらない。
「サイさんは、その子は、どうなったのですか」
「……才蔵は、罰せられたわ」
「どんな風に」
「体罰。拷問と言ってもいいかもしれない。
痛み苦しみを与えて、無理矢理に従属させようってことだったんでしょうね」
「その時の、サイさんは」
「ただの一度も、声を上げなかった。じっと歯を食い縛って、耐えていたというわ。
あの子を助けられなかった自分を恥じるように、戒めるように」
「"たすけ、られなかった"……?」
「ええ」
わたしが初めて、上様に目通りをした時。
ほんの一瞬、彼女が上様を睨んだのを、わたしは見た。
ずっと見当がつかなかったが、今なら分かる。
サイさんは、上様を嫌悪し、軽蔑しているのだと。
「才蔵を付けていった奴らが、内々に始末したそうよ」
沙蘭さんの表情や雰囲気から、明るい結末を迎えられないことは、予感していた。
予感していたのに、いざ突き付けられた現実を、受け止めきれない。
サイさんと少女、二人を襲った悲劇に、涙が溢れて止まらない。
昨年の秋頃となると、最近だ。
サイさんの心に刻まれた傷は、まだ癒えていないはずだ。
あんなに優しい人に、そんなに痛ましい過去があったなんて。
気が付かなかった。気が付けなかった。
わたしは本当に、無知だ。
「ウキちゃん、」
みっともないと承知しつつ、わたしは咽び泣いた。
沙蘭さんは、わたしの丸まった背中を摩りながら、申し訳なさそうに呟いた。
「やっぱり、まだ早かったわね」
わたしは静かに首を振り、普段の二倍も三倍も重く感じる体を起こした。
「ここに、身を、置かせて頂く、一人として。知っておかなければ、ならないことだと、思います。
沙蘭さんが、構わないのでしたら、続きを話してください」
涙を拭い、沙蘭さんを見据える。
沙蘭さんは呆気に取られてから、"わかった"と咳ばらいをした。
「また話を戻すけれど、どうしてあなただけが優遇されるか、だったわね」
「はい」
「……あの方も、脱走の件を経て、少しは懲りたみたいでね。
縁の間のしきたりも、当初と比べると緩和されたように思うわ。
とりわけ、ウキちゃんのことはお気に召したようだし。あなたにだけは嫌われたくないのよ、きっと」
「嫌うなんて、とんでもないです」
「そうよね。あなたは優しい子。
でも、いつ心変わりされるか分からない。上様はそれが怖いのよ。
だから存分に持て成して、あなたの嫌がることは絶対にしないはず。
あの時のように、ここから逃げ出したいなんて気を、起こさせないためにもね」
行き届いた厚遇は、わたしを留め置くための手段。
親しみ易い言動は、わたしを逃がさないための虚構。
上様に対する印象が、この短期間でがらりと変わってしまった。
自分の短絡さや薄情さに、自分で呆れてしまうほどに。
無論、感謝の気持ちは変わらない。
自分が如何に恵まれているかも、理解が深まった。
ただ、これから、どうしよう。
残忍な本性を知った上で、わたしはまた、上様の前で笑えるだろうか。
「本当に大丈夫?一気に色々言い過ぎちゃった?」
「そんなことはありません。
お陰様で、頭の中を整理できました」
「そう?なら良かったけど───」
障子戸越しに、廊下を駆ける足音が響いてくる。
恐らくは女中だろうが、わたしと沙蘭さんは息を止め、足音が遠ざかるのを待った。
「……とにかく、あの方の機嫌を損ねないよう、気を付けること。
あなたなら、多少のわがままも聞き入れてもらえるでしょうし、あなたが拒めば、迂闊に手を出せない。
だから、笑いなさい。どんな時も。
辛くても悲しくても、あの方に余計な勘繰りをさせては駄目よ」
「はい。肝に銘じます」
改めて、身が引き締まる。
周りの意見も取り入れながら、自分の頭で考える癖をつけなければ。
「───さてと。
そろそろ、お暇させてもらいましょうか。
あんまり長居をすると、迷惑になるものね」
一区切りついたところで、沙蘭さんがお帰りになろうと腰を上げた。
わたしは不躾にも、沙蘭さんの手首をとっさに掴んでしまった。
「あら。まだ何か、聞きたいことがあった?」
「あ……。え、と───」
まだ、行かないでほしい。
まだ知りたいことが、一番に聞きたいことが残っているのだ。
自分から引き留めるのは忍びなく、目線だけで訴える。
「……今出ていくと、変なのに捕まりそうだし。
もうちょっとだけ、ご厄介になってもいいかしら?」
「は、はい。喜んで!」
あえて抑揚なく断って、沙蘭さんは座り直した。
わたしの訴えが通じたというか、察してくれたらしい。
「ちなみに、お時間の方は……?」
「平気。今日から三日は、城に留まるつもりだから。
その間は暇人なの、私」
「三日……。
三日が空けたら、またどこかにお出かけになるのですか?」
「お出かけってほど、大した用じゃあないんだけどね。
ほら、ここって退屈でしょう?ついつい町を出歩きたくなって、城にいる方が少ないくらいなのよ」
「そ、そうだったのですか」
「ふふ、そうだったのです」
空気を一新するように、沙蘭さんは冗談めかして笑った。
相手に気を遣わせない気遣いを、沙蘭さんは心得ておられる。
「だから遠慮しないで。ウキちゃんが話し相手になってくれるなら嬉しいわ。
聞きたいことでも、言いたいことでも、私で不足がなければ、なんでも答えてあげるわよ」
とはいえ、上様の奥方。
ただでさえ忙しくされているそうだし、これ以上の手間をかけさせるわけにいかない。
"なんでも"のお言葉に甘えて、単刀直入に尋ねるとしよう。
「沙蘭さんは、玉月さんとは親しい間柄なのでしょうか?」
「才蔵と?うーん……。
親しいかと言われれば、そうでもないし。かといって、不仲というわけでもないし……。
そもそも、あまり接点がないわね。彼とは」
「そうですか……」
「知りたいのは、才蔵のこと?」
「はい」
「いいわ。あなたが聞きたいというなら、教えてあげる。
具体的に、まず何から話せばいいかしら」
うっすらと眉を寄せた沙蘭さんだが、はぐらかさないと約束してくれた。
「実はわたし、先日、玉月さんと一緒に町へ出たんです────」
一緒に過ごすうち、サイさんの笑顔が増えていったこと。一時的にでも、名前で呼び合えるようになったこと。
途中で別行動になり、サイさんが戻ってこなかったこと。探しに出た先で、見知らぬ男に絡まれていたこと。
そしてその男を、サイさんが殺めたこと。
本題に入る前に、わたしからも話をした。
先日あった事件について、わたしとサイさんの関係性を含めて。
「あの時、男はサイさんに向かって、"鬼"と叫んでいました。
男がサイさんを嫌っているだろうことは、傍目にもよく分かりましたが、殺そうとするほどとは……」
「そう……。なるほどね」
口元に人差し指を添え、沙蘭さんは思案に耽った。
「沙蘭さんは、ご存知ないですか?
男とサイさんの間で、何があったのか。
"鬼"って、一体どういう意味なんでしょう?」
推測だろうと伝聞だろうと構わなかった。
わたしと余人とで、認識の差があるかを、まず知りたかった。
「思い当たる節は、あるわ。
ただ、私は当事者でなし、真を外れた意見になるかもしれない。
構わない?」
「ぜひ」
「あと────」
わたしの肩に、沙蘭さんの手が乗せられる。
「辛いわよ」
「え?」
「さんざん脅してきたけれど、その件については比じゃない。
知ったら最後、二度と才蔵と笑い合うことは出来ないかもしれない。
それでも、あなたは知りたい?」
本音を言うなれば、躊躇はある。
同時に、もっと知りたいとも思うのだ。
サイさんのこと、サイさんを取り巻く者たちのこと。
サイさんとわたしに訪れるであろう、未来のことを。
だからきっと、後悔はしない。
たとえ、彼女の抱える闇が、わたしには重すぎたとしても。
『栗花落』