;第五話 それでも、あなたは知りたい? 2
「───いい部屋を貰ったのね」
わたしの私室へ案内すると、沙蘭さんは感嘆の吐息を漏らした。
以前までは、来客用の応接間として使われていたという部屋。
訪れた者は口を揃えて、縁側から望む桜が絶景と喜んでいたそうな。
「沙蘭さん」
畳の上に二人分の座布団を敷き、沙蘭さんと向かい合わせで座る。
「先程は、まことに、申し訳ありませんでした。
上様の奥方様とは知らずに、わたし────」
「あら、そんなこと気にしていたの?構わないのに。
私のことは、"近所のお節介なおばさん"程度に思ってくれていいのよ?」
恐縮するわたしに反して、沙蘭さんはあっけらかんと声を弾ませた。
「そ、そんな滅相もありません!」
「うふふ、ウキちゃんは素直ねぇ。つい、からかいたくなっちゃうわ」
わたしが慌てて首を振ると、沙蘭さんは可笑しそうに笑った。
気さくな態度は上辺だけでなく、本心から振る舞ってくれているようだ。
正室と側室。妻と妾。
実のところ沙蘭さんは、わたしの存在をどう認識しているのだろうか。
麻菊さんと違って敵意は感じないが、腹に一物くらいは抱えていたりして。
弧を描く瞳に、自分の姿が映り込むたび、妙に後ろめたい気持ちになる。
「ほんと、噂どうり、天真爛漫で可愛い子。
真っすぐ過ぎて、却って心配になるくらい」
「先程も仰ってましたが、わたしのことが噂になっているのですか?」
「もちろんよ。
これまでも、たくさんの側室を迎え入れてきたけれど、あなたほど優遇された子はいなかったわ」
「そうなんですか?」
数いる側室の中でも、わたしは特別に優遇されているのだと、沙蘭さんは言った。
手厚くしてもらっている自覚はあれど、比較対象がなかったために、自分だけが特別だとは気付かなかった。
「目をかけてもらっているとは感じましたが、てっきり、他の方々も同じとばかり……」
「まさか!あなただけよ。他の子らはもっと────」
沙蘭さんが途中で言葉を詰まらせる。
笑みを湛えていた顔も、弧を描いていた瞳も、みるみるうちに影を落としていく。
「沙蘭さん……?」
「……ええ、ええ。
無知を強いるのは、とても罪深いことよね」
自らに言い聞かせるように、沙蘭さんは二度頷いた。
「ウキちゃんは、
───上様のことを、どう思っているかしら」
「どう……、といいますと?」
「あなたから見て、あの方はどういう人間に映っているか、ということよ」
上様とは、どのような殿方であるか。
接点は少ないながらも、覚えた印象を数えてみる。
「そう、ですね。えっと……。
優しくて、雅やかで、わたしのことを、よく気にかけてくれて……。
失礼な言い方かもしれませんが、いい人だなと、思いました」
「そう……。
ごめんなさいね、急に変なことを聞いて」
「いいえ……」
素敵な私室を与えてくれたこと。素敵な衣装を拵えてくれたこと。
外出を許してくれたこと。わがままを聞き入れてくれたこと。
わたしが齢十五を迎えるまで、正式な婚礼は待ってくれること。
いずれも、わたしの身に余るご厚情ばかり。
この人となら、なんとかやっていけるかもしれない。
望まぬ縁談ではあったけれど、せめて相手が、この人で良かった。
昨日までのわたしは、確かにそう思っていた。
「こんな話、告げ口をしているみたいで、いい気はしないのだけれど。
あなたも、ここに身を置く女の一人。遅かれ早かれ、必ず思い知ることになるでしょうから、先に私が警告しておくわ」
沙蘭さんが姿勢を正す。
わたしも釣られて背筋が伸びる。
「少し長くなるかもしれないけれど、聞いてくれるかしら?」
「……はい」
今までの流れからして、上様に纏わる話と推測できる。
しかし、思い知るとは。
沙蘭さんは上様に対して、あまり良い感情を持っていないのだろうか。
「ウキちゃんは、縁の間について、どこまで知っていて?」
「サ、───玉月さんから、そこには立ち入らないようにと、言い付けられていました。なので、実情は全く。
先程の、麻菊さん?が、側室の住み処だと仰っていて、そんなことも、わたしは知らなくて……」
「そう。そうよね。ええ。
じゃあ、一から説明するわね」
張り詰めた空気が、肌を刺して痛い。
「お願いします」
呼吸の仕方さえも、忘れそうになるほどに。
**
縁の間とは、選ばれし乙女たちの極楽である。
そんな大法螺を、誰が最初に吹き始めたのか。
実情は真逆。
雪竹城に招かれた側室は、そこに寄せ集められ、質素で厳格な暮らしを強いられているという。
許可なく広間を出ることは禁止。内輪のみの贅沢や手習いも禁止。
一服の談笑には制限がかけられ、不当な物言いがあれば直ちに処断される。
上様からの求めには必ず応じ、上様以外の男性とは一切の交流を絶たねばならない。
たとえ相手が、血の繋がった縁者であっても。
自由を奪われ、名前を奪われ、友人を、家族を、半生を奪われ。
やがて女としての喜びを、人としての尊厳を失い、自らが何者であるのかさえ忘れてしまう。忘れさせられてしまう。
極楽とは程遠い。
縁の間とは即ち、粉飾に閉ざされた座敷牢も同然なのである。
「───あそこに住まう女の子達はみんな、自分を籠の鳥だって言うのよ。
翼をもがれた、足枷つきの金糸雀だって」
なにも、知らなかった。
皆がどれほど辛い思いをしているか、自分がどれほど恵まれているか。
今なら、麻菊さんの敵意にも納得だ。
「どうして、側室の皆さんだけが、そのような扱いを受けるのですか?
女中さん達よりも制約が厳しいだなんて……」
「単純な話よ。あの方は独占欲が強いから。
自分のものは固い箱に閉じ込めて、他の誰も触れないよう、仕舞っておきたいの」
「では、なおさら、わたしがこうして、自由にさせてもらえる理由が分かりません」
「……そうね。
それはまた、別の話になるわね」
"ここから先は、もっと辛い内容になるけれど、どうする?"。
"やっぱり、今日はやめておく?"。
膝の上で結んだわたしの拳に、沙蘭さんの指先が触れる。
覚悟、なんて大層な心構えは出来ていないけれど。
いつかはぶつかる壁ならば、先延ばしにはしたくない。
自分だけの平穏など、受け入れられるはずもない。
「わたしは、大丈夫です。どうぞ、お気遣いなく」
わたしが頷くと、沙蘭さんも頷き返してくれた。
「昨年の秋頃……、だったかしらね。
側室の子の一人がね、脱走を企てた事件があったの」
「逃げようとしたんですか?」
「そう。
不満を抱えていたのは、みんな一緒だったんだけれど。その子は特に世間知らずで、堪え性がなくてね。
想像していた暮らしとは、まるで正反対だったものだから、嫌気が差してしまったのよ。
こんなところに幽閉されたまま、生涯を終えるくらいなら、いっそ死んだ方がマシだってね」
「それで、その子は……?」
「賭けに出たわ。
脱走に成功したなら、故郷へ帰れる。
失敗したなら、死罪の可能性だってある」
「結果は、賭けは、どうなったのですか?」
「……あなた、才蔵に世話してもらってるんだったわね」
「え……」
また、サイさんの名前が出てきた。
脱走の件にサイさんも関与している、のか。
「はい。いつも、とても、お世話になっています」
「……話を戻すけれど、脱走は───。
結果的には、失敗に終わったわ」
「結果的には?」
「ええ。
その子が行方をくらましたことは、割とすぐ発覚したの。
みんなで口裏を合わせて、なんとか隠そうとしたんだけれど、駄目だった。
道すがら、門番の一人に目撃されちゃったみたいでね。
あっという間に、上様の耳に入った」
「はい」
「そこで、白羽の矢が立ったのが、才蔵だったの」
ここでサイさんの出番ということは、まさか。
お願いだから、思い違いであってくれ。
「才蔵の剣の腕は、ここの誰より秀でていたし、誰しも彼の強さを認めていた。
……だからこそ、かしらね。上様は試したかったのよ。才蔵が本当に、信頼に足る用心棒かを」
「はい」
「見つけ次第、その子を斬り殺すようにと、才蔵は命じられたのよ」
「そんな……!」
ひどい。あんまりだ。
脱走を図った罰にしては、いくらなんでも重すぎる。
しかも、そんな非情な役目を、あのサイさんに命じるなんて。
「ほんとに、本当に、上様がお命じになったことなんですか。
その子を、───殺すようにと」
「信じがたいでしょうけれど、事実よ。
一見すると優男のようでも、内には恐ろしく残忍なものを飼っている人なの。
箍が外れたら最後、高ぶりが鎮まるまで、あの方は自分の名前すら思い出せない」
「上様が……」
すべて、作り物だったというのか。
わたしが拝してきた上様は、仮初めのお姿だったのか。
一から数えた上様との思い出が、わたしの中で音を立てて崩れていく。