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ここ最近の私の顔色と体調が、傍目にも酷いものだという自覚はある。
PCに向かって打ち続けていた文字が今も視界にチラつくように黒い点々が動き回るし、頭の中では私をせっつき要求するばかりの沢山の声が喚いているようだ。
その中に、午前中に聞かされた言葉も追加する。
『飛び級して、大学に行く気はないか?』
この学校では、当たり前のように年齢が違う同級生が多くいる。通常であれば、小学校に通う年齢の同級生も存在するし、同級生だった生徒が大学生となったため学校を卒業していったこともある。
けれど、私の答えは『否』だった。
先生たちだって元から知っているはずの答えなのに、なぜあんなことを聞いてきたのかを考えていると、私の存在に気づかずに廊下を歩きつつ言葉を交わす同級生の会話の中身が耳に入った。
『そういえば、知ってる?来年、グレアムの弟が飛び級でこの学校に入学するんだって』
『知らない。へぇ、兄弟そろって優秀なんだね。でも、飛び級ってことは弟君のほうはGiftedなのかな』
『みたいだよ。というより、噂では本当の兄弟じゃなくて、弟のほうは養子なんだって』
『ああ、ジェインビー家ってそういう子供を支援したりするのが好きだからね。この学校もその一環だし』
聞き取った内容に、思わず目を見開く。
だから、先生は私に飛び級を勧めてきたのだ。
私を、あの子に会わせないように。
息苦しさがなくならない。
指先が震えて、入力キーを打ち間違える度にコントロールが利かなくなっている体に対する苛立ちが増す。
品行方正に。
完璧に。
そう思っているのに、私の体はそれを邪魔する。
あの会話を聞いてから、私はそれまで以上に開発や研究に打ち込んだ。
飛び級を打診されるたびに拒否し、頑なに、この学校の中で結果を出し続ける。
そのこと自体を、苦痛に思うことはない。
私の担当教師が何度目かの打診をしてきたとき、私は言葉を発するのさえ嫌になり、拒否を言った以外は別のことを考えて説得の言葉を黙殺した。
それから解放され、この研究室へ向かう途中で、グレアムに声をかけられた。
『大学に行くの、断ってると聞いたけど』
『それが、あなたに何か関係あるの?』
『ないけど、個人的には行ってほしいな』
『あの子が、ここに来るから?』
私の言葉に、剣呑に細められた彼の目を平然と見返す。
『どうして君が、あの子にそこまで執着するのかが僕には分からないよ。ベリンダ』
『誰かに、分かって欲しいと願ったことは一度もないわ。たった1分だけでも私の望みが叶うなら、私は私のすべてを投げ打ったって構わない』
それで、望みが果たされるのなら。
望みのために築き上げてきた私の業績すべてを喜んで差し出そう。
『君は危険だ。狂人じみている』
『私を、こうした一端はあなた方にあるでしょう?』
私から、奪っていかなければ。
あの子を。
何よりも、誰よりも、私が大切にすべき者を。
盗っていきさえしなければ。
けれど、もういい。
恨めるほど、私に余裕があるわけでもないのだから。
『……私は、ただ会いたいだけよ。あなたのいう狂人は、もうたった一人しかいない血のつながった家族に会いたいという希望すら、持ち続けることは許されないの?』
私が危険な人間であることは、私自身も分かってる。
私が、一番分かってる。
私の頭の中で叫び続ける悪魔の声をねじ伏せて、まともに生きているフリをしているだけなのだ。
『あの子はもう、君の家族ではない。僕の弟だ。君の弟ではない』
その言葉を聞いた瞬間、笑い出しそうになった。
知っている。
そんなことは、とっくの昔に。
『いつか』
もし、さいごまで果たされずに終わったのなら。
『あの子が、望んだ時に』
私は、それをおそれてはいないけど、
『私には、あの子に、過去を伝える義務がある』
グレアムは、私の願いを託されてくれるだろうか。
『私はただ、あの子に会いたいだけ。……会って、見きわめたいの』
グレアムの表情に浮かんだ疑問符を、私は薄く笑って無視をした。
『ただ、それだけよ』
再び、足を進める。
近々、以前にプログラムの相談をしてきた人が私を訪ねてくる予定が入っている。
そういった個人的な予定は、基本的に入れないようにしているのだが熱心な打診を断るのも骨が折れたので結局は受け入れてしまった。
『大学に行けば、やりたい研究以外のことに煩わされることもないし、君の助けになる研究者も大勢いる。君一人ですべての研究を抱え込むなんてことも起こらない。君の負担は、確実に減る』
『でもそこに、私の望みは何ひとつないの』
背中に向かって投げられた言葉に、振り向くことなく、私は返した。