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それだけを望む   作者: 二尾 二穂
12/18

2-1

もやもやした展開が苦手な方は、ご注意ください。

 ベリンダ・レイスが死んだ。


 僕が、心から恐れていたはずの女が、呆気あっけなく。


 天才と呼ばれるにふさわしい業績が、彼女のただ一つの望みをかなえるためであったことは、僕しか知らない事実だろう。

 その望みとは、好奇心による探究欲でなければ、自尊心による名誉欲でもない。

 ただ、家族に会いたいという平凡で素朴な、いま思い返せば“寂しさ”による願いだった。


 どこまでも人間らしい望みと、どこまでも機械的だった彼女を結びつけることに、いまも違和感を覚える。

 僕が彼女の人間らしさを実感したのは彼女を家族に再会させた、あの短い時間の中だけで、それまでやはり、僕は彼女を天才と紙一重かみひとえの狂人だと断定していた。

 数年も前に生き別れた弟と会うためだけに、淡々と身を削ることもいとわずに業績を積み重ねていく姿に、感嘆を通り越して狂気を感じた。


 彼女がそこまで執着している、今は自分の家族となった養弟おとうとと彼女を会わせることは危険だと、認めないことを前提に僕が出した無謀な条件を表情一つ変えずに実行する様子に、不条理な苛立ちと恐怖を覚えた。

 その気持ちは、彼女に対する嫌がらせという歪んだ形で表面化した。

 ただでさえ背負っている負担が、すでに彼女にとっても重すぎる中で、嫌がらせのために追加される荷物。


 けれど彼女は、なにひとつ怒りを口にすることなく、その荷を従順に受け取った。


 いっそ、怒り狂っていたならば。

 もう無理だと泣いたなら。

 僕は彼女が死んでしまう前に、嫌がらせをやめられたかもしれない。


 浅ましく僕は思う。

 けれど彼女は、何も悪くない。


 悪いのは僕だった。


 彼女は強く、僕は弱かった。

 嫌がらせをやめることもできず、かといって、徐々に痩せ衰え、生気をなくしていく姿を受け入れることもできなかった。


 あの生活は。

 あの姿は。

 あの最期おわりは。


 僕の愚かしさの結果である。


 彼女の体が壊れてしまう。

 そう気づいて、変えようとしたときにはもう遅かった。


 足取りが時折おぼつかなくなっていた。

 チェスの駒を緩慢かんまんに動かす指先は骨が浮き出て、つまんで持ち上げるという動作さえ彼女にとっては容易なことでなっていく。

 廊下や階段の途中で、壁や手すりに体を預けている姿が珍しくなくなっていた。

 もとから多くはない口数が減り、近づいたり話しかけたりしたときの彼女の反応が鈍くなる。

 その中で、僕の出した条件を忠実に守り、その業績だけは変わらずに積み重ね、名声をあげていく。


 それは、静かな狂気だった。


 彼女が、僕の目の前でおかしくなったのは一度だけ。

 彼女に割り当てられた生徒用の研究室の前を通りかかったとき、いつものように少しだけ部屋の中に意識を向ければ、部屋の中からかすかな異変を感じた。

 音楽室ほどではないにしろ研究に集中できるようにどの部屋も防音設備が機能していることを考えたら、部屋の中の気配を感じるのは異常である。

 非合法な手段で手に入れた暗証番号であることを理解しつつ、部屋の扉の警備システムを解除する数字の羅列を扉脇の数字キーボードに打ち込む。

 警報を鳴らすことなく扉を開いた瞬間、物が散乱した部屋の中で、扉を開けてすぐ見える戸棚に背を預けて座り込み、言葉をなさない、ただの喚き声をあげながら滂沱の涙を流している彼女の姿がそこにはあった。


 状況を一瞬で理解できず、体が停止フリーズする。

 その体が反射的に動いたのは、彼女の左手が血を流しているのに気づいたときだ。

 部屋の惨状は、おそらく彼女のしたことだろう。その際に、何かにぶつけるか切るかしてこれだけの怪我をしたのだと思っていた。


 しかし、その予想は彼女の右手を見て裏切られる。


 右手の、爪の間に生々しくこびりついた血肉を見て、彼女の左手の怪我は右手によって容赦なくえぐられて負ったものだと、嫌でも理解できた。

 怪我に衝撃を受けて、彼女の声が聞こえなくなっていたのに気づかなかった。

 とにかく、医務室に運ぼうと、明らかに異常状態にある彼女に声をかければ、彼女はすでに気を失っていた。


 一日の授業がすでに終了した時間だったが、医務室には幸い校医が在室しており、彼女を抱えて駆け込んだ僕の様子を見て、すぐにベッドに下ろすように指示した。

 彼女の脈拍や左手の状態を確認しながら、何があったのかを僕に問い、僕は先ほどのことを話した。


 非合法の暗証番号の件も正直に白状したが、暗証番号を変えてもう二度とそんな真似をしないなら、不問にされるだろうと苦笑しながら校医は口にした。

 彼女の状態を一通り確認して、少し難しい顔をしながら、校医はどこかへ電話をかけた。事情に通じた者同士でしか理解できないような短い会話を交わして、その通話を切った校医は、僕に向かってもう退室するように告げた。


「しばらくは彼女も目を覚まさないでしょうし、君がいては治療の邪魔になります。門が閉鎖される前に、帰りなさい」

「は、い」


 どれだけ気にかかっても、頷くしかない。


「彼女の異常行動は、おそらく過労や極度の睡眠不足によるものです。蓄積した疲労や精神への負荷が許容量を超えて思考や意識に突発的な異常を生じさせたのでしょう。再三、スケジュールを詰め過ぎないよう教師のほうでも指導をしていましたが、彼女も頑なで。いつか負荷が表面化すると私からも忠告をしたのですがね。彼女は1人ですべてを抱え込みすぎるきらいがありますし、不幸なことに抱え込んでしまえる能力キャパシティもある。けれど、その能力キャパシティにも限界はあります。常人には底知れない限界ですがね」


 無関係の僕に、そんな所見しょけんを述べる必要は本来ないだろうに。校医は僕に滔々(とうとう)と語る。


「彼女はいつも、追い詰められた状態にあります。それは、彼女自身によってであったり、周囲によってであったりもしますが、ひとつ確実に言えることは、彼女はそれから逃れることができません。彼女が望んでいないし、状況もそれを許さない。だから、せめて周囲が彼女を必要以上に追い詰める真似をしてはいけません。君の、彼女への態度を、少し考えてみてください」


 責めているような声ではなかった。

 淡々と、どこか悲しそうに。

 そして、願うように。

 校医は僕にそう言った。

 返事は、できなかった。無言で頭を下げて、医務室を出ていくことしかできなかった。

 迎えの車を呼んで、少し待って現れた家の車に、いつものように運転手に声をかけることなく乗り込む。

 いつもと違う僕の様子に、運転手は動揺したそぶりもなく、声をかけることなくそっとしておいてくれた。

 僕の頭の中、は先ほどの校医の言葉を考えることで手いっぱいだった。


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