第八章
第八章
1
……魔物のいなくなった月幽門。悪気を封じ込めた場所に通じる道だ。
阿己良は三日月の飾りを鍵穴に収める。金色の飾り口からはめ込まれた場所に太陽の神殿で得た神水が流れ込み、その重みで仕掛けが外れる仕組みになっている。月と太陽の光を受けた門が明滅をはじめる。時の流れを持たない、取り残された空間は三日月の鍵により月と太陽の力を受け、はじめて時を刻みはじめ――そして門が開かれる。
門の向こうは悪気の空間だった。ただ一本の廊下が奥へと続く。歩む速度に合わせ、誘うように篝火にも似た光苔が淡く光を宿していく。あまりに儚い光は無論充分ではなく、闇に慣れた目でかろうじて足元を確認できるかどうかといったものだった。
通路を塞ぐように現れたのは黒い扉だった。この闇の中、一際暗いそれは不穏な空気も相まって不吉以外の何者でもない。
羅乎と李比杜が順に扉を確認するが、微動だにしなかった。言われるまでもなく自分にしか開けられないのだろうことはなんとなく理解できた。促す視線に頷いて、阿己良は扉に手を掛ける。と、それは信じられないくらいにあっさりと内側へ向かって開かれた。
――瞬間。
闇を強烈な光が裂いた。暗さに慣れた目には痛いほどの眩い光が溢れる。咄嗟に顔を覆った阿己良は強い力に引き倒されていた。
続いて金属音が数回。左右から引っ張られるような力と追い打ちをかけるように悪寒を呼ぶ気味の悪い風が舞いあがると、錆に似た匂いが広がった。
「よく反応したね、褒めてあげる」
光に慣れ始めた目に人影が捉えられる。実像を結ぶよりも早く耳に届いた声はまだ若い女のものだった。
「生意気に。いい駒持ってるじゃない」
見下ろす視線は紫色だった。黄味の強い白金色の髪が風に煽られ揺れる。
「でもあれ、琉拿の兵隊じゃないね」
「……」
阿己良は声が出せなかった。
一瞬にして自分を捕らえたその早業には舌を巻く。最強だという麻耶希をやり過ごしたことも称賛に価する。だが、それ以上に阿己良は驚愕のあまりに何も言うことができなかったのだ。
――悪気?
感じた疑念。浮かんだ言葉はそのまま確信となって胸に広がっていく。今、こうして間近に見上げる少女からは不穏にして不快な怖気を感じる。それは紛れもない悪気そのものの気配だった。
悪気は人ではない。その事実は美蝕と名乗る人物によってつい先日覆された。だから人そのものが悪気となることもあるのだろうとは嫌でもわかった。だが、それが複数存在するなどとは想像もしていなかった。
美蝕ではない。全くの別人。確実に二人目の悪気の宿主だ。
「許さーん!」
何事かぶつぶつと呟いた後に麻耶希が突然叫んだ。かと思うと、もの凄い跳躍力を見せる。連子窓に作られた狭い露台に軽々と飛び乗ると短剣を振り下ろす。
麻耶希の剣を少女が受け止める。金属音が阿己良の頭上で弾けた。
「手負いの割に、いい腕」
赤い飛沫が僅かに散った。剣を振るう腕から滴るそれが阿己良の白い服に赤い水玉を作った。
「麻耶希さん、怪我を――」
だが、麻耶希は血の流れる側の腕でのみ少女の剣と渡り合っていた。もう一方はと言えば阿己良の頭上を守るように構えられているようだ。攻撃が阿己良に行かないように、そして隙あらば開放しようという意図が見えた。
目論みは半ば成功した。少女と阿己良との間に距離が出来、そこに麻耶希が身を入れる。逃れようとすれば叶うはずだった。
「阿己良!」
「させないよ」
羅乎の呼ばわる声に応じて立ち上がろうとした阿己良を、だが、強力な力が引き戻していた。同時に轟音が響き、光の刃が弾ける。裂かれた空気に一瞬息が詰まりそうになった。
「羅乎、李比杜!」
李比杜目がけて放たれたのがわかった。羅乎が庇ってくれたようだが二人は大丈夫だったのか、確かめたくとも身体を起こすことができない。
「もうわかってんでしょ、お嬢さん」
投げられた言葉に麻耶希が動きを止めた。その隙に少女が跳躍し距離を取る。少女の動きに伴って阿己良は息苦しさを感じる。なんだかわからないものに首が締め付けられ、身体が引きずられた。
「あんまりあたしを動かすと、この琉拿の姫が苦しむことになるよ」
麻耶希が阿己良と少女を交互に見やって下唇を噛んだ。目を伏せると武器を下ろす。ぽとっと赤い滴が床に一つ零れた。
「貴様、阿己良様をどうするつもりだ」
李比杜の怒りを含んだ声がする。だが、少女は表情を変えることもなく高台から見下ろして、僅かに両の口角を上げた。
「殺すの」
「なんだと」
「殺すのよ」
少女が冷ややかに宣言する。笑う口元とは真逆にその眼差しは異様に冷えていた。
「殺すの。あたしの目的は、月を壊すことだから」
――月を壊す?
阿己良は信じられない気持ちで少女の横顔を見上げた。
月を壊す。それは文字通りのことではなく、月の国と呼ばれた神拿国を――ひいては琉拿を滅ぼすということだというのは理解できた。だがそんなことをすれば地上の調和は崩れ、今以上に悪気が横行することになる。人の営みが破壊されてしまう。
「貴女がやったのですか?」
少女がちらりと阿己良に視線を転じた。
「母と、姉にあんなことをしたのは、貴方ですか?」
冷たい瞳はまるで硝子のように無機質だ。
「聖獣達を害し、悪気を広めた。そのすべてが貴女のしたことですか?」
「だったら何?」
「なぜ、そのようなことを。貴方は自分の成したことの意味が分かっているのですか?」
わかっていると答えた少女の声はあっさりとしたものだった。
「力が欲しかったのよ。あんた達、琉拿の人間を始末するのにね。だから聖獣を殺した。悪気が広がったのは副産物みたいなものね」
息を呑む阿己良に少女が続ける。
「あんたの姉さん? あれは邪魔が入って始末し損ねちゃったけど、まあ術はかけたから。女じゃなくなれば琉拿では役立たずだもの、十分よね」
口元に笑みを佩いたままの言葉に阿己良は震える。
「貴女の行いでどれだけの人が苦しんだか、貴女はわからないのですか」
「それが何よ」
「は――」
「どうでもいい、そんなこと。他人の痛みなんてどうせ他人のものでしょ、あたしには関係ないし。あんた達だってそうやって琉拿を維持してきたんじゃない。目的の為に他を捨てる。おんなじことでしょ」
あまりにあっけらかんとした物言いに阿己良は眩暈を感じた。
確かに誰かが受けた傷の痛みを同じように感じることはできない。まして心の痛みなど簡単に理解できるはずもない。だが想像はできる。想像して、考えて、どれ程の苦しみかを知ることはできる。代わることはできないけれど支えることはできる。励まし、助けることはできるはずだ。心とはそういうものだ。
それを壊すのが――悪気だ。人の優しい心を奪い、壊してしまう。
「琉拿は、悪気を抑える為にあるのです。貴女のようなことを――」
「してるんだよ」
叫ぶような少女の怒声が阿己良を遮った。
「捨てたじゃないか」
少女が腕を引く。つられるように傾いだ阿己良の胸倉を少女が掴む。食いしばった歯の間から絞り出すようにして少女が言葉を紡ぐ。
「取り上げて、捨てたんじゃないか。あんたの母親があたしの母様を殺したんだ。何もかもを母様から奪って、そして捨てたんだよ。琉拿の為ってな」
信じられず、阿己良は眉を寄せる。覗き込むようにして睨みつける瞳は己と同じ紫。その中には憎悪があった。激しい怒りがあった。しかしそれだけではない、微かな揺らぎがあるのが見えた。
「まさか……嬉己様の」
阿己良が何かを言うよりも早く、李比杜が呆然と呟くのが聞こえた。少女はゆっくりと声がした方を振り返る。
「そうだよ。嬉己はあたしの母様だ」
嬉己。現在の琉拿女王である嬉李の姉だった。阿己良からすれば伯母にあたる。現在の神拿国の歴史上においては継承前に病死となっている人物である。
琉拿女王は王家の長女が継承する。歴史の営みの通り、嬉己もまた慣例に従い継承の準備が進んでいた。当時、女王は病に臥し、既に力を失いつつあり、早い継承が望まれていた。元々恋仲でもあった王宮長の阿南尉との婚約も調い、全ては順調に運んでいた。
――ところが、である。
嬉己は原因不明の病魔に侵された。寝台から起き上がることもできず衰弱していく。回復が待たれたが、その矢先に女王が危篤となったのだ。
女王不在はあり得ない。近侍達が反対する中、司教の長老達は半ば強引な手段を取ることになる。
第二子であり皇子と公表されていた嬉李を皇女に見立て王位を継がせる。男児とはいえ琉拿の直系である。密かに婚姻を済ませ、女児が生まれれば即座にそちらに王位を引き継ぐという前例のない決定を行った。女王が崩御し、嬉己までが危篤となれば、もはや他に手段はないと思われた。
――嬉李様は女児にあられます。
嬉李の婚約者であり王宮長であった阿南尉は男児とされている嬉李の性別を知る少ない人物の一人だった。隠したところですぐに露見する事実である。阿南尉は司教会に報告をした。
第二子が女児であるならば問題は何もないことになる。その為そこからは恐ろしい速さで事態は進む。嬉己が病床にあるままに嬉李の皇位継承が公表され、夫には阿南尉が決まった。王族の間では身内に何かがあった時には他の血縁者が代わりにあてがわれるということは、いずれの王国でも珍しいことではなかった。その為、琉拿でも同じようにしようと本来は嬉己と結婚するはずだった阿南尉をそのまま据えたのだ。
その後、嬉己は奇跡的に回復する。だが、もはや琉拿の王宮に彼女の居場所はなかった。
王宮の奥、亡き者として生きることが嬉己の人生となるはずだった。しかし、嬉己は既に身籠っていた。阿南尉の子だった。
司教達は慌てた。そしてお腹の子供諸共、嬉己を殺そうと画策する。それを知った嬉己は王宮から逃げた。それしか生き延びる方法がなかったのだ。
……そして、一人、娘を産んだ。本来ならばみなから祝福を受け、幸せの中で歩んでいくはずだった人生が一気に崩壊したのだ。
2
「その子供がこのあたしってわけだよ」
少女は鼻に皺を寄せて改めて阿己良を見下ろす。
「わかった? 琉拿は母様を捨てたんだよ。目的の為に他を犠牲にする。ねえ、同じことでしょ?」
言って、少女が鼻で笑う。
「お綺麗なだけの琉拿しか知らないあんたには想像できないだろうけどね」
「……」
確かに、琉拿は綺麗だ。
しかしそれが表面だけであることは阿己良にも十分わかっている。なぜなら、自分もまた琉拿に捨てられる存在だからだ。
表面的には琉拿は綺麗である。波風もない。皇位継承も滞りなく、平和の象徴でもあり、地上世界の調和を担う存在として戦争とも無縁だ。不可思議な力に守られた国は自然の嵐すら避けて通る。
だがその内情はどうだ。
皇位継承に滞りが出てはいけないので複数の子を成すのが女王の義務のひとつだ。できれば女児を。力が継がれない男児は不要、女児のみをと願うわりに実際に必要なのは長女のみなのだ。それ以外はむしろ邪魔な存在でしかない。悪気への呪術対策としての秘儀は琉拿の司教にならねば伝えられず、希少な力は汚れた心を呼び込む。常に悪気と隣り合わせで、穢れた心が悪気を助長しているとも言われており、道を踏み外した者は悪気への生贄として四門に奉げられるというのは秘されている事柄である。近衛の人材が殆ど世襲なのは王家との結びつきが強い為で、阿己良のようにがんじがらめではないものの、かなり自由はない。王宮長に至っては琉拿本島から出ることは許されない。それは隠居した後も同様で、父を早くに亡くし伯父である阿南尉に引き取られ、その後を継いだ婁支雄は阿己良同様琉拿を出たことがないのだ。
機密を守るということは決して綺麗なだけではいられない。奇特な力に守られているとはいえ、所詮は地上にある一族だ。つまりはただの人間なのだから当然限界はある。嵐に見舞われなくても病魔は見逃してくれることはない。病も老いも、死も、琉拿には存在する。となれば、足掻くしかない。足掻いた結果が汚いと言われる部分なのだ。
嬉己のことも琉拿を守るには当然のことだ。阿己良の身の上も同様。それが血筋を守り、伝統を守るということであり、地上の調和を保つという大義名分の前では細やかなことでしかないのだ。
間違っていても、それが琉拿に課せられた義務。許せなくても、過去、幾代もがそうして耐えてきたのだ。
犠牲と言えばそうかもしれない。何故自分だけという疑問だって当然ある。だがその疑問を解消しようとした時、その歪はまたどこかの誰かに及んでいく。琉拿が崩れればその歪は地上全部に及んでしまうのだ。己の我儘の為だけに幾つとも知れぬ命を全て道ずれにするだけの勇気は自分にはない。これまで犠牲になってきた琉拿王家の人間達も、恐らくは同じ思いを抱いていたのに違いない。
――けれど。
けれど、この少女はそれに抗ったのだ。
自分には出来なかった勇気。間違っていようといなかろうと、彼女はその勇気を持ち得たのだ。
それは、少し羨ましいと思えた。
「ならば、貴女は風霞様ですね」
阿己良自身驚く程に穏やかな声が滑り出た。その声音にだろうか、風霞が表情を変えた。
「存じております。嬉己様のことも、貴女――風霞様のことも」
「……え?」
「阿南尉大公がお亡くなりになった時、陛下が……嬉李様が話してくださった。故に近侍の一部と、迦瑠亜様、阿己良様ともにご存じだ」
少女――風霞の顔にはじめて動揺が見えた。
「嬉己様殺害を阻止したのは陛下と阿南尉大公殿下だ。無論、その後も日々困らぬよう心を配っておられたはずだが……」
阿南尉が内密に手配をした。現在はそれを婁支雄が引き継いでいる。身に危険が及んではいけないので正式に琉拿から連絡を取ることはできないが、今でも人を介し、金銭を届けているはずだった。
「あ、あんな奴、あたし達のことなんか無視して。母様もあたしもあいつに――」
思い出すのも汚らわしいと風霞が吐き捨てる。
「うるさいよ、今更! 今更、なんだって言うんだよ」
風霞が再び阿己良の身体を引き寄せる。
「あたしは月を壊す。そうすれば、もうこんなことはないんだから」
風霞が剣を振り上げた。
「――」
眼前に迫る剣が連子窓からの僅かな明かりを反射して閃く。襲いくる衝撃を想像し、阿己良は身を屈め、きつく目を閉じた。
衝撃はなかった。
かわりに耳をつんざくような雷鳴が轟き、短い呻きが頭上から聞こえた。
閃光は風霞の剣を弾いて収束する。飛ばされた剣は硬質な石の上に転がって、似合わぬ澄んだ音を立てた。
「美蝕」
羅乎の声に阿己良はゆっくりと目を上げる。
今の今まで何もなかったところに突如瘴気が黒く湧き上る。蟠った黒い闇が人の形を成し、白金色髪を揺らす美貌の人物を作り上げた。
「我が名を知ったか。して、どうだ?」
「お前は、悪気だ。悪気ならば、殲滅するだけだ」
血を塗ったような唇が横に広がる。どこまでも妖艶で邪悪に見える不敵な笑みが羅乎の回答に対し小さく頷く。まるで良くできましたと褒めているようにすら見えた。
「美蝕、なんで邪魔すんのよ」
風霞が叫んだ。
「まさか、裏切るつもり」
「裏切る?」
美蝕が嘲笑った。
「おかしなことを。何故、我がお前なんぞと対等にせねばならんのか。裏切りなぞ知らぬわ」
ぎりっと風霞が唇を噛んだ。
「あんた、迦瑠亜を仕留めなかったの、わざとじゃないでしょうね」
美蝕は表情も変えずに風霞の言葉を受け止める。
「なんだかんだ言って、あんたはなんでも先延ばしにしてたけど。女王も迦瑠亜も、術だけかけてごまかして。結局殺さないつもり」
怒りにか、風霞が右足で地面を踏みつけた。
「あたしはさんざん協力してやったのに。あたしがあんたを王宮にいれてやったんじゃない。ここだって、あたしが開けてやったのよ これで」
風霞が金色に輝くものを投げ捨てた。転がった金色に阿己良の目は釘付けになる。
「それは元々我のもの。そなたに貸し与えただけだ」
阿己良は目を瞠った。金の輝きは紛れもない月の宝飾だった。阿己良の持つものが三日月ならば、これは円型、つまり満月を形作っている。
三日月と同じく満月の宝飾も琉拿の宝物だった。価値は同等、どちらかがあれば機能する為、月幽門が閉じられた際に扉に嵌めこまれたと言われる。その後、何者かによって奪われ、失われたとされていた。無論、琉拿の血筋でなければ使用もできず、三日月の宝飾があれば影響はないこともあり、特に捜索も行われなかったというのは密かに伝わる話であったのだが。
「あんたには使えないシロモンじゃない。だからあたしがやってやったんじゃない。わかってんの」
「全く、どいつもこいつも愚かしいことよな」
激昂する風霞に対し、美蝕が笑う。
「人を恨み、信じ、裏切られ、騙され。まこと、この世は悪気に満ちておる。とうに滅びてもおかしくないのう」
美蝕の白い指が飾りを拾い上げる。
「まあ、そなたには感謝しておる」
美蝕が濃い紫の瞳を風霞に向けた。黒と見まがう程に濃い紫は珍しい。
「よく役に立ってくれた。お蔭で、月の姫をここへ呼ぶことができたのだからな。だがの、風霞」
長い髪を揺らすのは風ではなかった。美蝕自身から零れる悪気。揺らめくように立ち上り美蝕に纏わりついている。
「そなたの願いは月を壊すこと。つまり、琉拿の王族の断絶よな。ならば、そなた自身も滅びねば、真に願いを叶えたとは言えまい?」
「……え」
風霞が息を呑むのがわかった。
「我がそなたらをここに呼んだはな、風霞」
呆然とする風霞に、美蝕が極上の笑みを返す。明らかに空気が変わった。美蝕の纏う悪気が蠢き、空中を這うのが見えるようだ。
美蝕が手を翳す。引き寄せられるように空中に彷徨う悪気の残滓が集まっていく。禍々しい気が黒く蜷局を巻いて凝固する。人の頭程の闇が球体となって美蝕の手に収まった。
「我が手で、月を破壊する。その為よ」
美蝕がカッと目を開いた。途端に周囲の悪気が一気に過熱したように濃厚さを増す。そして手にしていた澱んだ黒い玉を放った。
「だめ」
風霞は動かなかった。
瞬きすらしていなかったかもしれない。
阿己良は立ち尽くしたままの風霞を腕に抱きこんだ。
「麻耶希!」と羅乎の何かを命じるような厳しい声がする。李比杜が己を呼ぶ声も聞こえた。だが、阿己良はとにかく風霞を救いたかった。
「阿己良様!」
李比杜の力強い腕が風霞ごと、阿己良を包んだ。
その背後、突如として熱気が膨れ上がり、そこかしこで稲妻が炸裂した。炎は壁のように立ちはだかり叩きつけられた黒い力を受け止めていた。弾ける雷は周囲に散った悪気の粉を打ち砕いていく。負けじと生き物のようにうねる黒い帯が炎ごと押しつぶそうと荒れ狂う。
炎は羅乎の力だと言うのはわかっていた。雷は恐らく麻耶希なのだろうと思えた。種類こそ違えど、羅乎の炎と同種の気配を感じる。そしてそれらを飲み込もうとしている黒い力は当然のこと美蝕のものだとは理解できた。
「なんなのだ、これは」
李比杜が呆然と呟いた。阿己良もまた同様の感想を抱いていた。
眼前で踊る炎と眩い閃光。せめぎ合う闇。いずれもこの世のものとは思えない、尋常ではない力の応酬だった。明らかに不自然なそれらの力の争いは阿己良達地上の人間の力を遥かに凌駕した状況だった。李比杜ですらただ呆然と成り行きを見守るしかできずにいる。
「さすが火乃鎖羅。火の鎖に守られし、守護者よ」
悪気そのものだという美蝕の力もまた強力なようだ。もしかしたらここが月幽門であるからかもしれない。阿己良ははじめて羅乎の必死な顔を見たような気がする。巨大な魔獣を相手にしてもこんなに苦しそうな顔は見せなかったというのに。
「羅乎……」
天が――高天原が地上を去ったのは悪気が原因だったのではないかと阿己良は思った。悪気に対し敏感な羅乎。それだけ天の住人は悪気を嫌悪しているのだ。嫌悪するのは自分達の苦手なものであるから。人が病に弱いように、もしかしたら天の住人達は悪気に弱いのかもしれない。だから地上を去った。地上に下りるのに人の枷が必要なのは、ある種の耐性を持つ為ではないのだろうか。
そして……。
「……辛そうです」
「え?」
「美蝕です。なんて、悲しい目をしているんでしょう」
黒い羽のように悪気を纏う美蝕。その表情もまた苦しそうに見えた。羅乎と麻耶希の力を相手にしているという感じではない。己の力に苦しんでいるのか、それとも何か別の理由があるのだろうか。
「美蝕とは、琉拿王家の始祖とされる説もあるそうです」
低い声で李比杜が言った。
「始祖? 琉拿の?」
阿己良だけではない。風霞もまた目を瞠った。
琉拿王家の始祖ならば阿己良は勿論、風霞とも血の繋がりがあることになる。
「どういう経緯で悪気を宿したのかはわかりませんが、琉拿を作り上げた人物なのだと婁支雄から聞いたことがあります」
「……始祖」
始祖が子孫を滅ぼそうとする。その因果を呪っているのか。だから苦悩の表情を浮かべているのだろうか。
「……」
阿己良の脳裏に赤と青の番が浮かんだ。月幽門を守る赤と青の魔獣達。鎖に繋がれた魔獣。どうして彼らには鎖が必要だったのか。どうして美蝕はあんなに辛そうな表情を浮かべているのか。
――捨てたんだよ!
そう言った風霞の声が蘇る。そして、ああと思った。
……捨てられたのだ。
彼らもまた捨てられたのだ。悪気を封じるにあたり月幽門を作り、封じる。近づくものが無いように魔獣達はその任を請け負ったのだ。やはり元は聖獣であったのだろう。だが四門に比べ既に濃厚に悪気に満ちた月幽門では地月の玉を使ったところで彼らに抗体を持たせることはできなかったのだ。
だからこその鎖。逃れぬよう、それでも任務を全うできるよう。
そして恐らくと阿己良は思う。彼らが守っていたのは月幽門ではなく、この美蝕であるのだ。己らと同じく、悪気の為に捨てられた美蝕を彼らは護っていたのに違いない。どうしてだかそう感じた。
「麻耶希!」
羅乎の凛とした声が響く。
「護りだ!」
了承の旨を答えた麻耶希が身を翻す。小さなクナイが阿己良達の周囲に突き刺さる。
「動かないでね、阿己良ちゃんの護衛の人」
李比杜が頷いて腕に力を込め、阿己良と風霞をしっかりと抱え込んだ。それを確認すると麻耶希が指を鳴らす。同時に空気が弾け、視界に白い紗がかかる。どうやらこれは結界のようだ。闇が作られた空間を避けていき、内部を満たすのは溢れていたものとは全く異なる清涼な空気だ。ただし、共に守られている風霞からは悪気が漏れている。
「あんたは、琉拿の始祖だそうだな」
結界と美蝕の間に立った羅乎が告げた。
「だったら、高天原の人間ということだ」
羅乎が草薙の剣の鞘を払う。
「火乃鎖羅を継ぐ、天の王として申し伝える」
羅乎が鋭く見据えるのを美蝕が逸らすことなく受け止める。
――審判が下る。
阿己良は待ってと叫びそうになっていた。羅乎がこれから下すのは高天原の意思だ。羅乎はわざわざそう明言した。高天原がこれだけのことを犯した者を見逃すはずはない。美蝕に同情の余地はなく、命はないだろうことは考えずともわかった。それは例え神拿国の法で照らし合わせたところで同じだ。
「羅乎――」
阿己良を止めたのは李比杜の眼差しだった。
「我らが関与できる事象を越えております」
「でも――」
李比杜が静かに首を振る。
「これは天の――神の為すべきこと。神が地上でやり残したことなのでしょう」
「……」
それでも待ってほしかった。琉拿に捨てられたのだろう美蝕を救ってほしい。己も同じ、捨てられた者としてなんとか助けてほしかった。
「地上におけるそなたの所業。混乱を生み、多くの命を奪った罪、決して許されぬ。その身を持って購え」
羅乎が美蝕に決を下す。そして空中に草薙の剣を投げ上げた。
「阿魔夜己!」
大きく跳躍した麻耶希がそれを受け取る。本来の持ち主である麻耶希が手にした途端、草薙の剣は僅かに燐光を放った。
阿己良は美蝕から目を逸らさなかった。逸らしてはいけないのだと思った。
見つめる先、麻耶希は身体に似合わぬ大振りな剣を流れるような動作で構え――妖艶に微笑む美蝕の胸を貫く。
ほんの一瞬、美蝕がこちらを見たような気がした。
3
美蝕が膝をついた。
同時に辺りを埋めるように広がっていた暗黒が一瞬にして消え去る。あまりに唐突な空気の変化はまるで何かの魔術のようだった。
美蝕が自ら剣を抜く。血というには少し黒ずんだものが傷から溢れ、美蝕の服に染みを広げていく。
「無礼は承知でございますが、天照の皇子」
苦しげに息をつくと、美蝕はきちんと跪拝の姿勢を取った。
「御名をお教え頂けるか」
「天照火乃鎖羅々羅乎」
どこかふてくされたような口調だった。以前、貴人は名前を明かすことはないと言っていたがそのせいかとも思ったが、整った顔に浮かんだ渋面からはそれだけではない様子が伺えた。
「羅の皇子。これまでの非礼、お詫び申し上げまする」
美蝕が深く頭を垂れた。
「我が名は月黄泉之琉流夜乃希美照。かつて天にあっては月黄泉の一族。月黄泉之拿奈夜乃竹花之皇女の妹にございます」
「そ――そんな」
阿己良は思わず声をあげていた。
「月黄泉之拿奈夜乃竹花之皇女とは月夜――拿夜竹様のことです」
「なんだって?」
羅乎が驚きに目を瞠る。麻耶希もまた激しく瞬いた。
「どうして……」
琉拿王族は拿夜竹に連なるとされる。拿夜竹の妹というならば阿己良の先祖であり始祖という表現も間違ってはいない。
何故、そんな人物が悪気を纏っているのか。しかも拿夜竹が地上に降りたとされるのは創生神話の頃で、遥か彼方の、とてもではないが想像を絶する大昔である。今まで存命というのはどういうことなのか。
「拿夜竹の妹とは本当か」
美蝕が頷く。
「こたびの事、真に申し訳なく存じております。ですが、我が身も刻の終わりを告げようとしておりますれば、急ぎ、事を進める必要にございまして」
申し訳もないと美蝕が頭を下げた。
「どういうことか、説明はしてもらえるのか」
無論と美蝕が請け負う。ただし、と前置きする。
「刻の許す限りでございますが」
美蝕は小さく咳をしてから、改めて口を開いた。
「天より地上を任されるにあたり、姉が調和を、そして我は蟠る汚気の浄化を承りました」
地上が繁栄してくると浄化だけでは追いつかなくなっていった。一度どこかに集め、それを徐々に浄化しようと考える。浄化の為の場所として不時無の森が作られ、寺院を建立した。ところが思うように集まらない。
「その為には媒体が必要でした」
引き寄せる為の餌。姉妹は思案する。結果、美蝕が媒体となることが決まった。美蝕はその身を常闇に晒し、汚気を宿して不時無の森に留まることとなった。天と闇の中間にある地、その一部に穴をあけ、常闇へと汚気を廃棄する。常闇と汚気は似ているのでうまく溶かし込めればいいと考えたものだった。逆戻りをしないよう門を作って管理をすることとなった。
常闇に染まった美蝕は天の人間ではなくなった。また地上の人間でもなくなった。己の内から天の力が失われ、その穴を埋めるように闇が侵食してくるのを感じていた。やがて光溢れる地上の太陽の下にはいられなくなっていった。それに気づいた美蝕は月黄泉の名前を捨てることにした。蝕まれることなくいつまでも美しくありたいと願い、新たに名乗った名前が「美蝕」。
地上は琉拿の王族と美蝕の犠牲の上に繁栄を続けた。永い刻の中で繰り返される争いや怨嗟で美蝕の意識を上回ることも幾度かあった。月幽門に閉ざされた汚気――悪気が外に出ることを恐れ、天は月幽門を閉じる。そして四門が作られ、四聖獣が護りを請け負った。
「これはその時に使われた鍵」
美蝕が月の宝飾を示す。
「これは姉の冠にあったもの。そして三日月は我の紋になりまする」
自嘲的とも取れる笑みが口元に浮かんだ。
神拿国に宝物として保管されていたのは三日月の飾りだ。拿夜竹ではなく美蝕の紋である三日月を大事にしていた。知らぬこととはいえ、なんとも皮肉な話だ。
「我は悪気そのもの。天の言うのは真実でございますよ。悪気を取り込むことでこの身を長らえ、この場に巣食っておりました故」
「この場所に?」
羅乎が問えば美蝕は頷いて連子窓を見上げる。そこからは僅かな日差しが差し込んでいる。蟠る闇が消え、温かく注ぐ光は久方ぶりなのだろうか。見上げたその目は懐かしげに細められている。
「我が身はこの場でしか完全に姿を持ち得ませぬ。それ故、ここまでお運び頂いた次第」
「お前、それは……」
羅乎が言い澱む。
姿を現す。それはつまり――殺してほしいという思いの現れ。
「この場でなくば、我の身は滅ぼせず。また、この場でなくば、我の亡き後溢れた悪気を留めることは叶いませぬ」
あくまで美蝕の本体はここにあった。他に現れるのは地上の悪気を利用して作り上げる美蝕の姿をした人形。人形をいくら壊したところで美蝕が完全に滅びることはない。すぐにまた悪気によって再生されることになる。美蝕を完全に殺すにはこの場で真実美蝕の魂ごと滅する必要があったのだ。
ふっと美蝕が息をついた。幾度か苦しげな呼吸を繰り返し、身動きする。
「もう……刻がございませぬ」
苦しげに繰り返す呼吸が喉を鳴らす。
「風霞を。我の代わりに。あの者には地月の玉を与えております。我の命が尽きれば新たな地月の玉が風霞より生み出される」
「そんな」
風霞がいやいやと首を振る。
「そんな……あたしはそんなの、嫌よ」
ちらりと美蝕が風霞に目を向けた。僅かだけ口角を上げると言葉を続ける。
「美蝕は地上に不可欠。月の血を引いている必要があり、また……その身に闇を宿せることが不可欠。そのような者が現れるのを永らく待っておりました」
琉拿の奥で大切にされる拿夜竹の子孫。歪んだ継承に関わりながらも大事に育てられる彼らは至って清純な気を持っている。闇を宿せる資質を持つ者を探すのは至難の業だった。それ以上に、美蝕にとっては地上の中でも特に清涼なその場所に入り込むのは殆ど不可能に近かった。つまりそれは己の後任を任せる存在を得られないということでもあったのだ。
ところが王室の不手際――そう呼んでいいだろう。嬉己という嫡子が放出され、直系の女児を生んだ。
「地月の玉は風霞に間違いなく宿っております。我の亡き後、新たな玉が生まれます故、それらを聖獣にお与えください」
美蝕が派手に咳き込んだ。それを審判を下したはずの羅乎が支えた。
「勿体ない。穢れますゆえ、どうか」
恐縮した美蝕が羅乎から離れようとしてよろけた。堪らずに阿己良は側に駆け寄っていた。細く、白い手を握り、かつては美蝕自身も有したであろう琉拿王族が持ち得る癒しを施そうと試みる。
だが、壁に阻まれるかのように阿己良の力は流れていくことがなかった。
「月の姫。我に治癒は効かぬよ」
手が離れる。静かな声が悲しかった。悪気を満たした身体には清涼な力を受け入れる能力がないのだということが美蝕にはわかっているのだ。
「我は良い。願わくば、我の力を継ぐ風霞を。あの月の姫を、どうか支えてほしい」
「その任は僕ではだめなのですか?」
過酷だったろう生涯を終えようとする美蝕に対し、己のような未熟者に務まるのかと思えばこれは失礼な発言かもしれない。しかし風霞はもう充分にその苦労を味わった。同じく切り捨てられた者として、自分はまだまだ幸せな方だ。ならばこの役目は自分が負うべきではないのだろうか。
――いや、それは言い訳だ。ただ切り捨てられるくらいなら、何かの役に立ったのだと言う自分なりの矜持が欲しかった。
美蝕が阿己良を見た。静かな眼差しはすべてを見通しているように感じた。
「それほど、卑しくなかろうに」
「え?」
「そなたは闇を持ち得ぬ。必要以上に己を貶めるでない。そういう者は闇に嫌われる」
それでは無理だと美蝕が言う。
「そなたは、そのままでおれ」
「琉流夜様」
美蝕が一瞬驚いてから微笑する。
「懐かしい呼び名じゃ」
言ってから美蝕は苦しげに大きく息を吐く。
「それから……」
美蝕が首を巡らす。視線が小柄な少女の上に止まった。
「草薙の継承者であられるか?」
突如話しかけられて麻耶希が困ったように羅乎を見た。羅乎が頷くと、小さくうんと答える。
「貴女のお蔭で本懐を遂げられる。悪気に染まった我の身は草薙でなくば滅ぼせぬので」
今一度、大きく息をつくと美蝕は立ち上がろうとした。阿己良が手を差し出すと、今度は素直に掴まって礼を述べ、
「そなたの母はじきに目覚める。我の死が呪詛の解除になる」
目を瞠る阿己良に美蝕は微笑んだ。
「風霞。すまぬな」
固く口を結んだ風霞は美蝕を睨む。
やがて風霞は涙を浮かべた。ぽろぽろと零れるのを拭うこともせず、美蝕に駆け寄るとその身体を抱きしめた。まるで小さな子供のように美蝕にしがみついた風霞が声を上げて泣く。愛おしそうに髪を撫でる美蝕はまるで彼女の母のようだった。
この二人の間にどんな繋がりがあったかはわからない。だが、すまぬの一言で風霞が涙を流すだけの確かなものがあったことだけは間違い。
美蝕が風霞を抱き返す。そしてゆっくりと離れた。
「さらばだ、風霞」
朱に染まった衣装。白金色の髪も流れた血が汚している。
それでもしっかりと立った美蝕は美しかった。成すべきことを成した表情は晴れ晴れとして、穢れのない微笑を湛え、濃い紫の瞳を閉じた。
――次の瞬間、美蝕の身体は消えた。月の宝飾が澄んだ音を立てて地面へと落下した。