第五章
第五章
1
羅乎の態度はこれまでとなんら変わることはなかった。あれは夢だったのかと思ってしまうくらい、いつもの通りだった。こちらだけが昨夜の出来事を意識しているなんてなんというか面白くないのだが、動揺されたらもっと困ってしまうだろうと思えば有難いと感謝すべきなのかもしれない。
「それか、本当に夢だったりして」
ひとりごちると李比杜が何事かと問うてきたがそれには苦笑するしかなかった。あんな出来事を李比杜が知ったら、それこそ羅乎がどうなるか知れたものではない。
小さな町の小さな宿だったが食事は美味しかった。身支度を整え、宿を出た阿己良は思わず息を呑む。
「う、馬でしたね」
乗馬を引いてきた羅乎が顔を顰める。
「なんだよ、不満か?」
「そ、そういうわけでは」
「馬車がいいですか、皇子様」
素っ気なく言うと羅乎が騎乗した。馬を宥め、阿己良へと手を伸ばした。昨日の今日である。それに掴まることすら躊躇させられる。
「どうした」
「……えっと」
「徒歩で追ってくるか?」
阿己良は思わず李比杜を見やった。既に馬上にある李比杜は二人のやり取りには目を向けず、あらぬ方向を見ていた。
「馬の負担を考えろ。恨むなら自分が一人で乗れねえことを恨めよ」
阿己良はぶっきらぼうに告げられる言葉に目を上げた。
「なんだよ」
「羅乎、今日は意地悪ですね」
羅乎が目を丸くした。そしてふいっと視線を逸らす。
「……ふられたからな」
なんと答えてよいかわからず、阿己良は目を伏せた。やはり夢ではないらしい。
「いいから、早く乗れ」
仕方がないので手を借りて羅乎の前に乗り込む。今更だが、馬の二人乗りも結構な密着度なのだと気付いた。背中に感じる温もりが、嫌でも、昨夜のことを思い出させる。
「もう、しねえよ」
「え?」
羅乎が溜息混じりに言う。
「もうしないって約束するから、ちゃんと乗ってくれ。でないと落ちる」
「……ご、ごめんなさい」
「だから謝るな」
図らずしも同じ会話になってしまい、双方思わず口を噤んでしまった。そのまま何を言い出すでもなく羅乎が馬の足を進める。
「あ?」
「どうしました?」
羅乎の視線を追うと、村の入口で李比杜が騎乗した誰かと話しているのが見えた。
「琥邑」
李比杜があらぬ方を見ていたのは琥邑からの知らせを上空に見たのであろう。近衛近侍の間では風に乗せて伝達事項を知らせる術を持っていると聞いたことがあった。それは近侍にしか伝えられない技で他の部隊は一切知らされていないものであった。
「誰?」
「王宮の近衛に属する、李比杜の部下の一人です」
動きやすいように羽織った黒い外套は短めのものだ。均整の取れた身体をぴったりとした黒一色の服で包んでいる。剣は腰のあたりに括られており、李比杜や羅乎と比較すると小型である。それは彼女が近衛近侍の魔法部隊に所属で、前線に出るようなことは想定されていない為だった。
「琥邑は、国にいるはずなのですが」
「神拿国にか?」
頷いて阿己良が続ける。
「琥邑と士覚が李比杜の腹心で、その二人がお母様を護衛しているはず……」
神拿国は軍隊を持たなかった。国家といっても特殊な宗教国家である。戦争はしないというのが大前提だ。王宮を警護する王宮警邏隊、国全体を受け持つ国家警邏隊、そして王家を護るのが近衛警邏隊となる。そんな近衛隊の中でも王族の側近くに控え、殆ど女王の私設部隊とも呼べるのが近衛近侍隊だった。精鋭が集められており、魔法に特化した近侍魔法部隊と武術に特化した近侍部隊があった。それらを束ねる近侍隊の副長官が李比杜の地位であった。
「長官の方はお姉様と行動を共にしていたので、現在は行方がしれません」
女王が直接被害にあっている状況では内部に入り込まれている可能性もある。李比杜が信頼できる人間は近衛近侍の連中だけだった。
「李比杜は二人に任せ、僕についてきてくれました。そんな事情があって李比杜はたった一人で僕の面倒を見る羽目になってしまっているのです」
なのに、と阿己良が口ごもると羅乎が息をついた。
「何かあったってことか」
羅乎は阿己良の視線を感じたらしく、さらにひとつ息をつく。
「はいはい皇子様。二人のところへ行きましょうね」
「阿己良様」
近づく気配に顔を上げた琥邑が微笑んだ。
「琥邑、久しぶりです」
「お久しゅうございます。少しお痩せになりましたか?」
低いが色気のある声が懐かしい。阿己良はこの声が大好きだった。
「李比杜めが、ご苦労をおかけしてはおりませぬか。図体ばかりでかくて、気も利かぬ粗忽ものでございますから」
「お前なあ」
「僕の方が苦労をかけてるくらいです。でも」
阿己良は笑って口元を押さえた。
「相変わらず兄上には厳しいのですね」
「え、兄妹」
思わず驚いた羅乎に、琥邑が紫色の目を向ける。
「失礼ながら、この女性は」
「この方は僕の――友人で、羅乎といいます」
「ご友人?」
羅乎がよろしくというと琥邑も小さく頭を下げた。
「羅乎のことはいいだろう。それで、士覚はどうしてる」
李比杜が琥邑を促した。
「あの、何があったのですか?」
阿己良の視線を受けて、李比杜ではなく琥邑が口を開いた。
「女王陛下が封じられたことが知れました」
瞑想中として面会謝絶にしておいたのだと琥邑は説明する。諸外国に出ることのない女王が長く面に出ないとなると、それ以外言い訳がなかった。それでもあまりに長ければ不審がられて当然だった。
「それは予想していたことなので、司教会で伏せておくことが決定されました。が、迦瑠亜様が長と共に行方知れずということが漏れたのです」
あろうことか、悪気に囚われた司教が王宮で暴れたのだという。
「本来ならば女王陛下、もしくは次期女王の迦瑠亜様が悪気を除かれるはずであるのに、お出ましにならないということで」
そこで迦瑠亜不在がばれた。そして近衛の責任者を出せとの話になり、近衛長官が共に行方不明であることが皆に知れてしまったのだった。
「司教会はそれなら副長をと。だが、阿己良様の護衛に出ていると知ると、皇子に構う必要はないから呼び戻せと聞かず、議会が紛糾しまして」
「皇子に構うな?」
羅乎が驚いたように言うのにいつものことだと阿己良は応じた。司教会が皇子を軽んじることは珍しくもない。別段、心の痛むことではなかった。
「士覚は今回の不祥事の見せしめとして司教会に拘束されました。その士覚のおかげで私はこうして出てくることができたのですが」
「年寄り連中は何も知らんくせにでしゃばるからな」
李比杜が吐き捨てた。
「陛下の周囲はどうしている」
「婁支雄に任せてきた。文官だが、近衛に王宮を護らせるのはどうかという異論まで出てきていて、そうなると王宮長である婁支雄しか相応しいものはおるまい」
「まあ、あいつならなら一安心だが」
「一度、王宮に戻ってはもらえまいか」
琥邑の言葉に李比杜が目を上げた。
「ことが深刻なのはわかっておる。だがこのままでは士覚のみか、婁支雄にも咎が及ぶ。そうなれば女王の周囲に司教会の連中が入り込むことにもなりかねない」
それが狙いの者もいるはずだった。王家に取り入り、権力を手にしようと画策することを考えている者がいるのは事実だった。
「真実も知らぬ奴らが、知った顔で仕切っている姿など見たくもない」
出世や派閥しか考えていないものがいる司教会に王家を任せるなど想像もしたくないと琥邑が続ける。
「それに我らが大切にお護りしてきた陛下や殿下方をあんな連中に任せるなんて! 考えるだに恐ろしい」
王族の身辺は近衛近侍が警護している。世話に関しては文官の範囲になってくるが、これは王宮長が王宮近侍を選抜している。決して毒を吹き込むようなもののいない状況が常に作られていた。だからこそ不遇な環境に腐ることもなく、王族としての行いを全うできるとも言える。
「戻ってください、李比杜」
「阿己良様。おひとりでは御身が危険です」
「僕は大丈夫です。羅乎がいますから」
しかし、と言い募る李比杜から目を逸らし、阿己良は背後を振り返った。
「羅乎」
昨夜以来、正面から顔を会わせるのははじめてのような気がする。こんな間近にその目を見るのはなんとなく気恥ずかしかった。
「あの……僕の護衛、お願いできますか?」
李比杜を行かせるには羅乎に負担をお願いするしかない。
強く、美しい赤茶の瞳が阿己良の視線を受け止める。それから李比杜、琥邑の視線を順に見返し、羅乎は頷いた。
「本当か」
念を押したのは李比杜で、ああと羅乎が笑う。
「なんなら、剣にでも誓おうか?」
「どちらでもいい。本気ならな」
「勿論」
さりげない動作で手綱を握り直すと、にやっと笑い、ちらりとこちらを見る。阿己良の背後から腕を回して手綱を操っているので、その動きで二人の距離がより近くなったのだが、そのいたずらの意味がわかるのは阿己良だけだ。
「阿己良様、どうなさいましたか?」
思わず真っ赤になってしまった阿己良は何でもないと答えた。
「ど、ど、どちらにしても神拿国までは一緒ですから」
大きく跳ね上がった心臓の音を聞かれては堪らない。
「李比杜は一度王宮に戻ってください。そして、お母様をお願いします」
「神拿国に戻るのか?」
羅乎の問いに頷いて阿己良は続ける。
「このまま中央に行っても仕方ありません。いずれにしても一度、琉拿にある禁施の森へ行く必要はあるので」
「阿己良様、このようなことを申し上げるのは」
「わかっています。でも、行ってみなければまだわかりません」
行っても無駄なのだろう。しかし、まだこの目で見てはいない。ちゃんと確かめてから無駄だと思ってもいいはずだ。まずは足を運んで、しっかり現実を見つめてからでないと駄目だろう。もしかしてもしかすることだってあるかもしれない。
一度王宮に戻ってはどうかと李比杜も提案する。しかし、下手に戻って外出を禁止されては元も子もないので阿己良は拒否をした。
「阿己良様についてはいかように伝えておきましょうか」
司教会のお偉方を快く思っていないことを琥邑は知っている。共犯者めいたような問いかけに阿己良は少し思案した。
「言われた通り、置いてきましたでいいです」
「え?」
驚いたのは羅乎だった。
「そんなんでいいのか?」
こんなに必死になっている琥邑や李比杜、士覚をそんな風にしか扱えないなんて人の上に立つに相応しいとは思えない。体面やら、思い込みやら、そして自分たちの都合やら。そんなことで判断する。処罰とはそういうものではない。きちんと双方の言い分を聞いて、確かめてから行う。はじめから人を陥れるしかない人達など知ったことではない。
阿己良はいいのだと答えた。そして、ふんと鼻を鳴らすと、
「このまま、皇子は捨て置けと思わせておけばいいんです」
意地悪く言ったのだった。
2
――琉拿諸島。
大陸の北に位置する大小二十を越える島々からなる常春の島。最北の最大の島、神拿島を頂点に波状方に位置している島群はいずれも大半は緑に覆われていた。比較的大きな島には琉拿詣でに来た人々の為の宿舎があり、距離が近い島は橋で結ばれているが、主な移動手段は小船だった。不可思議な力に護られたこの一帯は嵐とは無縁の土地だった。
琉拿島にある、世界の教えの中心都市、琉拿。
その街並みは整然としている。島半分は緑に覆われ、巨大な森林を背後に戴く世界最大の寺院と王宮、そこへ勤めるものの住居、全てが一体となった王城都市が広がる。
一般の人間が入ることが出来るのは寺院の前部分のみ。説法などが行われる大広間までで、そこから奥は寺院の関係者以外立ち入りは許されない。そしてさらにその最奥に王宮があり、ここは王家の私有地となっていた。
琉拿までの道程は、馬三頭と、人が四人という構成になっていた。ひたすらに北東を目指す。途中、一行は馬を乗り換えた。その後は天候にも恵まれ、かなりの強行軍で五日目に港町、居嗚里に到達した。
居嗚里から神拿国へと渡る。居嗚里は大陸内で唯一、神拿国へと渡す船を出している港である。漁港としての規模は小さいが、大陸全土から集まる巡礼者がいるので宿屋だけではなく馬屋がやたらと多いという珍しい港町だった。居嗚里で船を待つこと二日、一行は琉拿諸島最大の島、琉拿島に到着していた。
「陛下のご様子を見ずともよろしいのですか?」
本当に王宮には寄らないのかと李比杜は再三確認する。しまいには琥邑がいい加減にしろと言い出す始末だった。
「すぐ裏です。何かあれば大声で呼びますし、母のことはお任せしますから」
「大声、ですか」
はいと阿己良は笑った。大声なんて出したところで聞こえないのは分かりきっているが、なんとなく冗談めかして言ってみた。久々に李比杜と琥邑のやり取りが聞けたのも嬉しかったし、やはり知っている土地は少し安心する。
「阿己良様。なんだか明るくなられましたな」
「え?」
「喜ばしいことです」
李比杜は荷物を抱えなおすと、表情を改めた。
「ここを出られたら、そのまま中央に向かわれますか」
「水が得られれば」
ならば、と李比杜が頷く。
「港に人を置きます。阿己良様にわかるように。その者に成果をお伝えください。私か、琥邑か。然る者を追わせるようにいたします」
「わかりました」
「それでは、しばしお暇を」
李比杜が拱手すると、阿己良は頷く。傍らに立つ羅乎にも目を向け、軽く頭を下げる。
「任せとけ」
「お願いいたします」
琥邑も頭を下げた。
それぞれの顔に、それぞれが視線を送る。やがて、二手に分かれて歩き始めた。
3
王城へ向かう道から逸れて森へと足を進めるとほんの僅かで細い階段が現れる。入り口には立ち入り禁止の呪符が貼られているが、阿己良にはわけのないものだ。軽く触れて解除すると足を踏み出す。
「また、階段かよっ!」
嘆く気持ちもわからなくはない。北幽門の階段もかなりの苦行だった。
実はこの階段は王宮からも上がることが出来る。阿己良はよく抜け出してこの階段にやってきた。王宮からならここから登る半分もなく頂上に到達できる。が、それは羅乎には教えないほうがいいだろう。
「ったく、階段って誰が考えたんだよ」
ぶつぶつ言いつつ、一段一段登る羅乎を振り返る。
「羅乎って、面白いですね。表情もよく変わって、すぐ怒るし、よく笑うし、忙しいです」
「ああ、だからいつまでたっても餓鬼なんだって言われるよ」
「いいことだと思いますけど」
ごく少数にしか本音を見せずに育った阿己良からすればうらやましい限りだ。
――明るくなられました。
ふと、李比杜の言葉が浮かぶ。そういえば、姉の迦瑠亜が王位を継ぐことが決まって以来あまり笑うことがなかったように思う。王宮よりも寺院にいることが多くなった姉は遠い存在となり一緒に遊ぶことはなくなった。
風が過ぎる。不揃いな髪が揺れるのを抑えて、阿己良は背後を振り返る。
「羅乎、見てください」
羅乎が振り返って感嘆の声を上げた。
「僕の一番好きな景色です」
波状に広がる白い甍と緑の連なり。沢山の人が行き交う通りと、遠く青い世界。王宮から出られない阿己良にとって、ここは世界へつながる唯一の場所だった。間違いなくここが世界の最高点だと思っていた。
「よく抜け出してここに来ました。そのたびに連れ戻されたものです」
連れ戻すのは、当時まだ近侍の隊員の一人だった李比杜だったり、琥邑だったり。
思えばあの頃が一番楽しかった。迦瑠亜と一緒になって、迎えに来た李比杜から隠れたり、琥邑とこっそりお菓子を食べたり。婁支雄が来た時は仲良く並んで本を読んだりしたものだ。頃合を見計らってじゃあ戻りましょうと誘う彼はあの頃から少し変わり者だった。
「今はつまんねえ?」
「え?」
「俺と二人きりってのは嫌かって聞いてんの」
途端に頬が熱くなる。赤い瞳をまともに見返すこともできない。
「……意地の悪い質問です」
「そうか? ただ単に疑問なだけじゃん」
「つまらくはないです。でも……大変です」
きっと羅乎は本気ではない。本気なはずがない。単にからかっているだけなのだ。いずれは去っていく。課せられたことを終えたら去っていって、もう戻らないのだと思う。なぜだか、そんな気がする。
こんな気持ちははじめてだった。自分の感情なのに対処がわからない。羅乎の些細な言葉で嬉しかったり哀しかったり。忙しすぎて、どう扱っていけばいいのか。
「行くか」
「……はい」
もう一度だけ、阿己良は景色を振り返る。何も知らなかったあの頃。世界はここより広がった分、背負うものも多くなった。未熟な自分には荷が重い。
けれど、しっかりと立っていたい。この風に負けないように。
李比杜が司教会に進言し、士覚は開放された。
特に何か罪を犯したわけではない。越権行動が見られたという理由からだ。鼻高々な連中の多い司教会には変に歯向かわず、大人しく従ったふりをするのが利口というものだ。
「女王陛下はまだ目覚めぬのか」
女王の私室である。大量の紙、書簡の山に囲まれているのはゆったりとした袍を纏った男だった。やはり白金色の髪は長く、きっちりと編まれて背中に垂れている。女王の寝室の手前、豪奢なつくりの小部屋に大量の仕事を持ち込んでいた婁支雄が、知己の登場に顔を綻ばす。だが、その表情はすぐに曇った。
「お前さんご自慢の魔法部隊も役立たずだな」
「己の妻に対し、それはないだろう。琥邑が泣くぞ」
婁支雄が笑った。
「さて、色々とあるが」
そう前置きをして、婁支雄は表情を改めた。
「殿下はどうされてる」
「禁施の森へ向かわれた」
「太陽の神殿か」
呟きつつ婁支雄が頷く。
「四聖獣だが、南東の報告では、いずれも見当たらずとの話だ。扉の前に大量の血痕と、何かの残骸だけが残っているという」
李比杜の脳裏に妖魔に集られた青龍の姿が浮かんだ。
「門は開いていない。あとは中央だけだが、これはさすがに確認してはいない」
それと、と言って婁支雄が紙の束を投げた。
「なんだこれは」
「悪気に潰されただろう村や町の報告だ。それでも全部ではないだろうな。細かなところまでは確認は出来ない」
急激に溢れた悪気。悪気自体は常に滞留はしている。しかし通常取り込まれるようなことはそうそう有り得ない。よほど気に敏い人間で、心が荒んでいるような、そして何かを恐ろしく憎んでいるといったことでもなければ悪気に染まることは殆どない。目に見えるものではないから、悪気の仕業かどうかは遺体などの状況から判断されることが多いのだが、ここ最近、明らかに悪気の影響と思われる事件が多発している。それも急激に。
基本的に悪気の漂っている状況は王家の人間にしかわからない。余程感覚が優れていればわかる者もいるが、普通の人間には殆ど感知することが出来ないものであった。阿己良が動くことを決意したのは、やはり悪気の増大を感じたからに他ならない。
「殿下には、無茶をなさらないで頂けるとよいが」
婁支雄が腕を組む。そこには王家の人間だからという以上の思いがあるのが窺える。
「ああ見えて、お転婆だから」
ところで、と婁支雄が李比杜を見る。
「阿己良様には誰を従わせたんだ? お前がここにいるということは、琥邑を?」
紙束を眺めながら李比杜が首を振る。
「羅乎だ」
「誰だ、それは」
「阿己良様の友人だ」
婁支雄は李比杜の手から紙の束を取り上げた。
「真面目に答えろ。なんだそれは」
婁支雄にしてみれば当然疑問だろう。李比杜はかいつまんで経緯を説明した。
「信頼はできると思う。お前も会えば分かると思うが不可思議な雰囲気を持っていてな」
腕を組んで聞いていた婁支雄は大きく息を吸い込んだ。
「そいつは妖や魔物の類ではないのか。そんな風に火を使うなぞ聞いたことがない」
「そうだが、どう見ても魔物ではない」
婁支雄が何かを思いついたように目を上げた。
「似合わぬ大振りな剣を持っていると言ったな。どんなやつだ」
「どんなって、まあ、普通の剣だ。鞘は、漆黒でところどころに金の細工があったな……ただ銀というよりもやや青みを帯びたような感じで珍しかった。ああ、根元にも渦のような、奇妙な模様があった。これもやはり金色だった」
婁支雄が立ち上がる。何も言わず部屋を出て行き、かなりの時間の後、分厚い古書を手に戻ってきた。
「その模様だが、ひょっとしてこんなものではないか」
李比杜が覗き込む。黴臭く、やや茶色く変色した用紙に描かれていたのは、角を持つ双頭の竜がお互いの首を絡め、睨み合うものだった。
「そうだ。こんな感じだったな、確か」
それほどよく眺めたわけではない。対峙した時に、剣に模様が刻まれるなど珍しいと思い、目に付いて、そして記憶に残っているだけだ。
「青みを帯びた刀身、細工、それはもしかしたら草薙の剣かもしれない」
「――なんだって?」
さすがの李比杜もそれは耳にしたことがある。ただ、それは物語としてだ。現実として存在するもののはずがない。それは人の世にあるものではないのだから。
「似せて造っただけかもしれないが」
だとしたら、相当の名工だ。あの輝きは垂涎物だったのだから。
「もし、本物なら、そいつは人間ではないのかもしれない」
「……」