第三章
第三章
1
「ん……羅乎?」
「お、お、おう!」
目を覚ますと布団を握りしめて背を向けている羅乎がいた。帯刀しているのを見ると既に身支度を整えたのだろう。それなのに布団を抱きしめているとは一体どういう了見なのだろうか。
「い、今起こそうとしたとこだったんだ」
「そうでしたしたか。ごめんなさい、お手数をおかけして」
起こそうとしたところに目を覚まされれば、それは驚くだろう。
「李比杜は」
寝台から降りると、もうひとつの寝台も既に空だった。
「多分買出しじゃねえか」
「……そうですか」
阿己良は首を傾げる。なんとなく、羅乎の様子が変に感じられた。
「ど、どうかしたか?」
いえ、と言いかけて、阿己良は言葉をつづけた。
「羅乎、なんだか……変ですけど?」
「ああ、起きたばっかだからな」
何度か咳払いをする羅乎はまだ背中を向けている。起きたばかりというわりには剣も身に着けている。しかも相変わらず布団を握っている。もし身支度を終えるなら布団ではなくて、外套を持つべきだろう。
やはり、なんだか変だ。
「僕は……そんなに寝坊してしまいましたか?」
もしかしておかしな寝言を言ったりしたのだろうか。やや不安になる。
「は? 別に、普通だ。普通の寝坊だ、うん」
普通な寝坊? 阿己良はさらに首を傾げる。絶対――変だ。
「あの、どうかしたのですか?」
反応が変だという以上に、なぜ布団を握ったままなのかが一番不思議だ。そう指摘すると、羅乎ははじめてそれに気づいたような反応を見せた。
「ああ、こ、これは俺はまだ眠いからさ。寝ようと思って」
「た、帯刀したままですか? 危ないですよ」
舌打ちをするのが聞こえる。布団を投げつけると、羅乎は振り返った。
「お前、ひょっとして楽しんでねえか?」
「……楽しむ?」
一体何の指摘かとも思った。
だが、こんな風に誰かと会話をして目を覚ますなどないことだった。朝の挨拶をして、元気に何かをおしゃべりする。これは楽しいことだ。
「そうかもしれません」
阿己良は素直に頷いた。
「僕の周りに羅乎のような人はいませんでしたから。こんな風に話したりすることもなかったし。今は、羅乎と旅が出来て、とても楽しいです……けど、どうかしましたか?」
羅乎がよろめいて隣の寝台に倒れこんだ。
「気分でも悪いのですか?」
伸ばした手は、しかしぴしゃりと振り払われた。
「俺は、お前が嫌いだ」
「……え」
それは衝撃の一言だった。
確かに無理やり同行を願い出たのは認める。護衛の李比杜はうるさいかもしれないし、あろうことか剣を向けたりもした。主人であるはずの阿己良にはそれを止めることもできなかったのも事実だ。けれど、あんなに色々と気を使ってくれたり、声をかけてくれたり、たった今だってわざわざ起こしてくれたりと親切そのものであったのに、何故ここに来て突然そんなことを言われてしまうのか。阿己良には見当がつかない。
これまで温室育ちだった阿己良に嫌いなどという感情をぶつけてくる人はいなかった。仮にそう思っているだろうことがわかっても、みなそれを表面に出そうとしない者ばかり。それが逆に片鱗すら感じさせなかった人から――惹かれている人物から、しかも唐突に、正面切って言われるなどどうしていいかわからなかった。
考える先から思いは涙となって溢れていた。
「お前といると調子狂うんだよ。だいたい今時――」
振り返った羅乎は飛び出さんばかりに目を見開いた。
「あ、あの……阿己良さん?」
「どこがお嫌いですか? 頑張って直します。ですから、そんなこと言わないでください」
清涼な魂に惹かれた。だが、それだけではない。阿己良をただの友のように普通に扱ってくれるはじめての存在だった。
「そ、そうじゃなくてだな。嫌いってそういう意味じゃ」
あまりの衝撃に阿己良はその場に膝をついてしまった。
「違う。俺が言うのは」
「なら、どういう意味なんですか」
「その、純粋なところがいいけど、うざい」
純粋なんかじゃないと言いたかったが、それよりも胸に刺さる言葉に、阿己良はさらに項垂れた。
「う、うざいって――やっぱり嫌いなんじゃないですかっ」
「いや、だから! そもそも男ってところが」
そこを指摘されるとどう返してよいのかわからない。男ではないのだと胸を張っていうには、そうではないものが全力で否定しにかかる。
言葉を失いかけた阿己良の視界に李比杜の姿が映った。
「李比杜、お帰りなさい」
「李比杜は関係な――ええっ」
べそをかいたまま言うと、羅乎が物凄い勢いで振り返り――文字通り固まった。
「り、李比杜さん」
「何をしている」
「違う、李比杜。これは誤解なんだ。誤解なのー!」
李比杜が拳骨を握った。
何度目か知れない謝罪を述べて、阿己良は項垂れる。あろうことか女性の顔を拳骨で殴るなど普段の李比杜なら考えられない非礼だ。とはいえ、元はといえば自分があんなに泣いてしまったからに他ならない。原因は阿己良にある。
もしかしたらこういうところが嫌われる要因なのかもしれない。そう思うと詫びても詫び足りない気がしてならない。頭を下げる必要はないと李比杜は言うが、部下の責任は主人である阿己良にあるのだ。怪我をさせた以上そういうわけにはいかない。
神拿国の王族である阿己良には若干の治癒能力がある。これは世に言う魔法とは全く別の、神から授かったうちの一つの能力だった。その癒しを使おうとしたら久々に「殿下」と呼ばれた挙句、使うなと怒鳴られてしまった。
殿下と呼ばれることはあまり好きではない。それを知っててわざと言ってくるあたり、李比杜も怒っているようだった。
「痕になったらどうしてくれるの」
珍しく女らしい口調で羅乎が言う。
「痕になどなるか。なんならこの俺が嫁にもらってやる」
「野蛮人の嫁なんてお断りよ」
「誰が野蛮人だ。お前なぞより余程ましだ」
「女に手を上げるのが野蛮だと言ってるの」
そこだけは間違いのない事実なので、李比杜が言葉に詰まった。
「あの、だったら。その」
責任はきちんと取らなくてはいけないだろう。大きく息を吸って、続ける。
「その、僕が羅乎を貰います。部下の不始末は主人の不始末。僕が、責任を持って」
「阿己良様、それは」
「いいんです、李比杜」
「いや、その、阿己良様、そうではなく」
「何もいわないでください」
李比杜がいわんとしていることはわかっている。羅乎は女性、そして阿己良も女性だ。今はこんな状況だから男の姿は好都合だが、いずれ悪気を鎮めたら戻る必要がある。しかし術をかけた術者は現在行方不明だった。解除する方法がわからない現状、戻る術はなかった。それならこのまま戻らなければ特に問題はないはずだ――表面上は。
今回は拳骨だった。だが先日は剣を向けている。この先もどんな失礼があるかはわからない。そうしたら、羅乎はきっと離れていく。どこかへ行ってしまう。
「羅乎が、嫌でなければ」
嫌いといわれたのに、とは思う。
阿己良は人間として羅乎を好いている。そしてその清涼な魂の側にいたいという気持ちは嘘ではない。自分が女に戻らなければいいと割り切ってしまえばいい。
「あのさ、阿己良」
羅乎の手が阿己良の頭に乗せられた。
「これ、そんなに真面目な話じゃねえからさ」
それくらいわかっている。さすがにそこまで鈍いつもりもないが、もし羅乎が離れてしまうくらいならと思ったのだ。ずっと側にいてもらう為に――そんな気持ちから出た言葉だ。李比杜の件は言い訳に過ぎないのだということは自分が一番わかっていた。
浅ましいと阿己良は自身を嫌悪する。同性をそんな風に縛ろうとするなんて。
頭を撫でる手は優しい。嫌いと言ったのに、こんなに優しくされてはどうすればいいのだろう。
どうしたら一緒にいてくれるのだろう……。
――この先も、ずっと。
「東はあんな有様でもかろうじて保ってたが。この後はどうするんだ?」
「次は、北幽門だな」
普段どおりの口調に戻った羅乎は何事もなかったように李比杜に話をはじめる。答える李比杜もいつもの通りだった。
「俺の感じじゃ西南は比較的ましだと思うが、実際どうなんだ?」
「被害は少ない。常駐している連中からは異常なしの報告をうけていた。が、あくまで琉拿を出る前の話だが」
「常駐?」
神拿国は大陸の北東に位置する。南や西に位置する南幽門、西幽門はかなり距離があった。随分と昔は四門それぞれの近くに管理をする寺院を設けていたが大陸戦争が起こると廃止された。現在、様々な国に門は点在しているがいずれの国も、琉拿教そのものである神拿国に対しては寛大だった。神拿国の人間であれば特に許可を得ることなく門に近づくことが許されている。南西の国々は治外法権を認めており、寺院も新たに建立され神拿国から派遣された者達が監視をしていた。
「へえ、なるほどね」
李比杜の説明に羅乎が頷く。
「中央はどうなってるんだ」
中央という言葉に李比杜が僅かに眉を寄せた。
「月幽門は行っても意味がない」
「意味がない?」
羅乎が首を傾げるのに李比杜は溜息だけで答えた。それに重なるように阿己良もまた溜息をつく。
月幽門――世界の中央にあるといわれる、悪気を封じる元とされている場所。
いつか行かなくてはいけないのだろう。だが、行く手段を見つけるところからはじめなくてはならない。今は、辿り着く方法が失われていた。
できれば、四門を閉じることで事が収まってくれればいいと、切に願うのみだった。
2
「有醍司教?」
「お待ちしておりました」
出迎えた老人に阿己良は驚き、そして満面の笑顔を浮かべた。
北方にある赤い煉瓦の寺院。小さな集落の小さな寺院だが、神拿国でも知らない者はいない有名な寺院だった。
通常琉拿教の寺院は白を基調に作られるが、ここはあまりに辺境であった為に石切り場が遠く、寺院建設は無理だとされていた。だが、村人達が望み、ならば煉瓦でと村人達自身が作り上げたものだとは聞いたことがあった。できることなら一度訪れてみたいと思っていたのだが、こんな形で叶うとは少し複雑な気分ではある。
「こちらにおいでだったのですか?」
有醍と呼ばれた老人は頷き、ここの出身だからと答えた。
「村は淋しかったでしょう。今時期はみな、町へ出稼ぎに行っておるんです」
寺院周囲に数件の家々が並ぶのみの、村とも呼ぶことができないほどに慎ましやかな集落だった。確かに人の気配はなかったのだが出稼ぎとは意外な回答だった。それは大変なことだろうとは思うが、悪気の仕業でないのならよかった。
「今年はまだ雪が少なくて助かってはおるんです。ま、それもまた少し淋しい話ですがね」
有醍が笑う。
「ですが、今年は阿己良様がいらしてくだすった。先に逝った奴らにいい土産話ですな」
そんなと眉を寄せる阿己良に笑うと豊かな白い髭を撫でて表情を改めた。
「門の施錠の為にいらしてるのですから、本当は喜ばしいことではないのでしたね」
「なぜ、それを?」
秘密裏に出てきているはずだった。目を丸くした阿己良に有醍は李比杜を見やる。
「婁支雄が連絡をよこしおった。北幽門に行くに、ここによるかもしれんとな」
有醍は寺院の中でも常識人で、頭が固く金儲けを考えたりしているような司教会の中でも独特の立ち位置を持っている人格者だった。李比杜も、その友で現在王宮長である婁支雄も有醍とは親交があった。
「李比杜、ここまでご苦労だったね」
李比杜は静かに頭を下げる。
「して、そちらの女性は?」
「羅乎と申しまして、私の部下にございます」
阿己良が何かを言うよりも先に李比杜が答えた。そつのない答えだ。恐らく一番無難な答えだろう。
「随分と綺麗な方だ。李比杜のよい人かね?」
「いいえ、それだけは決して断じて絶対にありません」
そんなに力一杯否定しなくてもとは思ったが、口にするのはやめておいた。
「まずはゆっくりなされませ。じき、食事になりますので」
有醍に示された部屋割りは阿己良だけが別部屋だった。貴人であるからという配慮だろうが、そもそもそれほど大きな寺院ではないのだ。同じ部屋で構わないのにと思った。大して多くもない荷物を置いていくらもしないうちに食事だとの呼び声がかかった。
「遠慮なく召し上がってください」
温かな暖炉と食事は久しぶりだ。質素ではあるがいかにもおいしそうに香る。
「ごちそうというわけではないですが、この子の料理の腕前は村一番なんですよ」
そういって紹介された給仕係りは亜由葉という無口な少女だった。大して変わらない年齢に見えるのに料理を、しかもこんなに美味しい食事を作れるとは驚きだ。逆立ちしたって自分にはできないと思うと素直に尊敬してしまう。
寺院には有醍と阿由葉、他には子稜という雑用係の男性がいるらしい。だが、あいにく子稜は週に一度の買い出しで不在とのことだった。夏場は寺院を訪れる人もいるが冬場は雪で人が絶える。普段三人きりの食卓がこんなに賑やかなになるのは珍しいと有醍は嬉しそうに語った。
食事を終えると有醍は阿己良をお茶に誘った。手ずから紅茶を注ぎ差し出してくれる。
「大きくなられましたな。まだこーんなにお小さかったが、お幾つになられましたか」
有醍は人差し指と親指で小さな隙間を作って笑った。そんな大きさの人間がいたらおかしい。
「十六です」
「色々と大変だったようですが、阿己良様なら大丈夫。私も微力ながらお祈りいたします。できることがございましたら、どうぞ遠慮なさらずおっしゃってください」
ありがとうございますと阿己良は礼を述べた。
「ところで、あの女性。本当は何者なのですかな」
「え?」
さすがは有醍である。李比杜の言葉を疑ったわけではないのだろうが、只者でないと感じたようだ。
「変わった気を持っていなさる」
「……わからないんですけど」
阿己良は茶器を卓に置いた。
「すごく惹かれるんです。とても綺麗で、あの強い気配に」
自分の抱いた感想とこれまでの経緯を説明する。一通り聞いた有醍が、ふむ、と髭を撫でた。
「僕からお願いしたんです。一緒に旅をしてほしいと」
「なるほど」
「やはり、いけなかったでしょうか」
「いや」
有醍は阿己良の茶器を覗いて中身を確認すると、自分の分だけ注ぐ。
「阿己良様がそう判断なさったのなら、それは正しいことでしょうな。まして、そこに理屈はない。感覚というところがまた、阿己良様らしいというか」
阿己良が首を傾げると、有醍は茶を一口啜る。
「嬉李様がよく仰ってましたな。阿己良様は稀に見る感覚の持ち主だと。人の善悪を見抜く力があると話しておられたことがありました。それはご自身も及ばぬ程だとも」
「母が?」
「意識しておらんのでしょうが、それがよいのでしょうな」
有醍の目が阿己良を見つめる。
「自信を持ちなされ。もっと、自分を信じておあげなさい。そうすれば心はいつでも自分に答えをみせてくれる。それが己にとっての真実なのです」
「答えを?」
「己に正直に生きよ、といったところですかな」
有醍はよく説法を阿己良に聞かせてくれた。難しくてわからないものも多い。けれど今のはわかったような気がして頷いた。
他愛のない会話は楽しかった。祖父とも慕う知己の司教との語らいは、ここ最近失われたかつての阿己良の平和を思い出させてくれるものだった。
「では、ゆっくりおやすみなされませ」
小さい頃にもこうして撫でてくれた。皺だらけの手は優しく、懐かしくて心地よかった。
3
寝ている肩をそっと叩かれて阿己良は目を開けた。すぐ間近で口元に指を一本立てた李比杜の顔があった。小さく頷くと、李比杜の指示に従って寝台を降りる。
真夜中のようだ。空気までもが眠っているようにひっそりとしている。案の定、小窓の方を見ればやはり外は真っ暗だった。
部屋は寝台が二つと小さな卓、椅子がひとつずつ。入り口から向かって左奥に暖炉があった。暖炉の右、入り口の正面が大きな窓で寝台がある左側の壁に小さな窓がもう一つある。入り口側の寝台を李比杜が使っていた。本来ならば同室なのは羅乎のはずだったが、どういうわけだか部屋を替わるよう指示があり、さらに外套は身につけているようにと言われていた。どうしてかは気になったものの、無意味にそんなことを言うはずがないことはわかっている。特に反論も唱えず従ったわけだがそれは正解だったようだ。
入り口に近い寝台の壁際に行くようにと身振りで説明されて阿己良は隙間に蹲る。非常時には役立たずの自分は、いかに速やかに彼らの指示に従えるかにかかっているのだ。
ちらりと目を向けると窓の暗がりを何かの影が過ぎるのがわかった。何者かが侵入しようとしている。
息を潜めるようにして立膝になったところで羅乎の声が響いた。切羽詰った声が、すぐにまた二人の名前を呼ぶ。答えて、こちらにも化け物がいることを知らせなくては、羅乎は駆け込んできてしまうかもしれない。
どうするつもりなのかを李比杜に伺おうとした時だった。たまたま寝台の横に落ちていた木片を蹴飛ばしてしまった。
「――っ!」
どうしようと思う間もなかった。途端に格子が粉砕され、窓硝子が破壊された。
「有醍様のところへ」
李比杜が踊りこんできた影に向かい立ちはだかる。頷いて駆け出そうとすると影は信じられない速さで李比杜を躱し、阿己良を捕まえようと手を伸ばす。阿己良も必死に寝台の上に転がってその手を避けた。
李比杜が背中に向けて薪を投げつける。振り返ったその顔は人とは思えないほど変形をしていた。
恐らく子稜という雑用係の男性であろうと思われた。本当ならこんなことをする人物ではないに違いない。人相すら変わるほどに悪気に取り込まれている状態だった。
開いた口は顎が外れているのか異常に大きく開かれている。そこに覗くのは人間では有り得ない大きさに肥大した犬歯だ。だらりと伸びた舌は長く、先が割れている。なによりもずんぐりとしたその体躯の、背中が異常に盛り上がっている。
李比杜が剣を抜いた。骨を砕くかと思う斬撃も、影は手にした小振りな道具でやすやすと受け止める。そうしておきながら、小さな目が阿己良を見やった。
「……っ!」
逃げなくてはと思った。李比杜に指示された通り、有醍の所へ行き、共に逃げる。
寝台を乗り越えるべく踏み出した阿己良をそいつは見逃さなかった。あろうことか李比杜を膂力で上回り押し返すと、阿己良に向かって掴みかかった。
咄嗟に近くの椅子を掴み、振り上げる。それを投げつける隙に外に出ようとするも、相手の動きの方が早かった。
「阿己良様!」
椅子を破壊せんと振り上げられた手はそのまま阿己良をも突き飛ばしていた。扉が破壊され、破片とともに身体も廊下へと投げ出されていた。
「阿己良!」
羅乎の声に答えたかったが、打ち付けた背中が痛み、すぐに返事ができない。
「大丈夫か?」
外套を着ていた為か外傷はないようだが打った背中が軋む。助け起こす羅乎になんとか頷いて、阿己良は室内を示す。
「李比杜が」
見やった先、赤く霧が舞う。男の鉈が李比杜の手を掠めたところだった。
「なにやってんだっ!」
羅乎が手の平を向ける。途端に、暖炉で燻っていた火が勢いを取り戻し、部屋の中を鞭のようにしなりながら旋回する。そしてずんぐりとした身体に絡み付いていく。
子稜が人とは思えない奇怪な声を上げた。振り払おうと暴れるのを李比杜が容赦なく両断する。その時だった。
「え?」
炎に目を向けていた身体が傾いだ。外套が引っ張られ、見れば不気味な目と鉢合わせた。異常に手足の長くなった亜由葉が外套を掴み、阿己良を引き寄せようとしている。
「ひっ――」
ひきつれたような声が漏れてしまった。
「動くなよっ!」
羅乎が剣を振るう。亜由葉の腕がごとりと音を立てて床に転がった。不気味なことに外套を掴んだままだったが、それは単に爪が布地に食い込んでいるにすぎなかった。
転んで逃れた先に扉が見えた。確かそこは有醍の部屋だったはずだ。
「有醍様」
気味の悪い腕を振り落とし、阿己良は立ち上がる。有醍は確か足が悪かったはずだ。一人で逃げられるはずもない。
「有醍様!」
扉は開いている。なぜこれだけの騒ぎになっているのに出てこないのだろう。
「有醍様?」
ほんの数歩進んで阿己良は目を見開いた。
「――っ」
開かれた扉の向こう、赤く染まる寝台に大の字になっているのは有醍司教その人だった。鮮血をばら撒き、濃い血の臭いを漂わせた身体は異常に薄っぺらい。裂かれた腹に散る黄ばんだ骨、そしてそれ以外、そこにあるはずの内臓はなくなっていた。
「有醍様――」
阿己良は盛大な悲鳴をあげた。膝の力が抜ける。目を逸らしたくても逸らすことができない。白目を剥く有醍の顔を、廊下を照らす燭台が鮮明に映していた。
「いやあああああっ」
亜由葉だったものが迫っていた。それでも阿己良の目は有醍から離れない。
「しっかりしろ、立て! 逃げるんだ」
羅乎が炎を散らし、亜由葉の身体に放った。その間に阿己良の脇腹に手を回すと無理やり立ち上がらせようとする。
「悪い、亜由葉!」
羅乎が小さく呟いたのが微かに耳に届く。次の瞬間、亜由葉は奇妙な音を発しながら身悶えた。くぐもった声とともに赤黒く爛れた液体をその場に吐き散らす。
「李比杜、首を刎ねろ!」
両断されたにも関わらず向かってくる子稜に困惑していた李比杜が頷いた。羅乎もまた亜由葉の首を落とし、事態は急速に沈静化した。
「有醍様」
あの状況が脳裏から離れない。なぜ彼があんな死に方をせねばならなかったのか。どうして亜由葉や子稜のことにもっと早くきづいてやれなかったのか。
後悔は次々押し寄せ、自分の無力さを煽る。結局自分は何もできないのだ。
「逃げるぞ」
祈りを捧げたところに、荷物が押し付けられた。驚く阿己良の手を羅乎が引いていく。
「感じねえのか? 近づいてきてる。もっと沢山だ」
見るからに羅乎は緊張している。
「泣くのは後だ。今はまず逃げることだ」
「でも」
「死にたいのか」
鋭い喝に阿己良は息を呑んだ。
「死んだら、誰が有醍を弔うんだよ」
「……」
正面から見つめる赤い瞳には沈痛な色があった。頷けば、励ますように頭を撫でられた。
三人は急いで寺院の裏手へと回る。薪を大量に積んだ倉庫と馬小屋があった。どうしてか馬は四頭繋がれている。冬の間村人のものでも預かっているのかもしれない。
「羅乎。お前は馬に乗れるのか?」
李比杜が問う。阿己良は当然一人で乗ることはできなかった。羅乎の方は曖昧な返事をしつつも、その準備は手馴れたものでどうやら問題はないようだった。馬の準備が整う頃、遠く奇怪な声が響くのが聞こえた。
「思ったよりも早いな」
羅乎が低く呟いた。
「俺がなんとかする」
言いながら羅乎が騎乗しない馬の戒めを手早く外す。このままここにいてはこの馬達も犠牲になってしまう。逃げられるよう配慮したようだった。驢馬の紐も解いていく。
「阿己良を連れて先に行け」
「それは駄目です!」
「相手は徒歩だ」
叫んだ阿己良の肩に手をかけ、李比杜が冷静な声を発した。
「こちらは馬。逃げられるだろう。戦う必要はない。戦闘はあくまで最後の手段だ」
悪気の取り込み状況によって、亜由葉達ほど奇怪な変貌を遂げていなければ逃げられる可能性の方が高い。
「羅乎。お前に阿己良様を頼む。お前の方が軽い」
「わかった」
色々と議論している時間はなかった。李比杜が軽々と阿己良の身体を馬に乗せると、羅乎も身軽な動作で跨る。
「目指すは北幽門」
ひらりと騎乗して李比杜が言う。
「はぐれた時は、そこで落ち合おう!」
4
雨というよりも霙が降っていた。月もない世界は闇に等しい。松明もなしに馬を走らせるなど、自殺行為ではないのだろうか。
薄暗がりの中で李比杜が剣を振るうのが見えた。その李比杜に行くように指示を出して、羅乎は寺院を振り返った。
悪気に憑かれた人々が寺院へ向かうのは血の臭いに惹かれている為だろうか。そのうち何人かがこちらを伺い、生者を見つけたとばかりに向かってこようとしている。
「気の毒だが、仕方ねえよな」
呟くと、ほんの僅か後、寺院が火を吹き上げた。
途端に周囲が明るく照らされた。視界に捕えることのなかった不気味に変形した人々の姿が晒される。
悪気を野放しにすることはできない。彼らは被害者であるが、今は悪気の宿主、悪気の一部でしかない。取り込まれたものは二度と正常には戻らない。それならこれ以上悲惨な状況になる前にその命を絶つことが最善なのは事実だった。
阿己良が小さく祈ると羅乎は馬首を巡らせる。背後から照らされる明かりの下、二頭の馬は闇へ向かって駆け出す。
「……」
逃げていると思った。
もちろん悪気から逃げているのは間違いない。けれど、それだけではない。助けられなかった多くの人々の、失われてしまった多くの未来から、背を向けて逃げている。救うことの出来ない現実、止めることの出来ない状況、それらすべてから逃げているのだ。
別に彼らに落ち度があったわけではないだろう。誰にだって負の感情はある。それは阿己良にだって、司教達にだって、琉拿教の大司教を兼任する母にだってある。人の中には陽気と陰気があって、それが調和を保って生きている。陽気や善だけでは人は成り立たない。影となる部分があるからこそ、弱い面があるからこそ人は強く生きているのだと、他ならぬ有醍から教えてもらった。阿己良もそうだと思っている。
そこに付け入る悪気。なら、付け入られた彼らが悪いのか? 決してそんなことはない。仮にそうだとしても、こんな風に不本意な死に際を迎えるに値することとは思えない。
――四門が開いたとしか思えませんな。
司教会の幹部が言った。司教会の中でも権限の大きい長老達が言えばそれはほぼ真実に等しいということになる。
――阿己良様になんとかして頂くしかあるまい。
――そうだな。仮にも王家の人間だ。男児とはいえ施術くらいはおできになろう。
――王族たる義務を果たしてもらわねば。
男子だと公表されている阿己良に、それは本来なら無茶な要望だった。真実、男児であったならこれは出来ないのだ。それは彼らも知っている。しかし、女王には子は二人しかおらず、一方が不明ならばもう一方に背負わせるしかないという安易な考えが見えた。
危険だと止める声は当然あった。司教会は大半が反対するも長老達に逆らえるはずもない。近衛近侍が最後まで猛反対をするのを阿己良自身が止めた。
ここで争っていても何も変わらない。なんとかするしかないのなら動くしかない。危険でもなんでも、可能性があるならば試すしかないのだから。
なんとかしたいと思ったのは本当だ。母も姉もこんなことになっているのは一連の悪気の異常発生に関連している可能性がある。大事な家族を助けたいというのは間違いなく本心だった。
だが、本当はそれだけではなかった。事態を解決できようができまいが、何もしなかったという後ろ指が怖かった。やるだけやってできなかったのと、ただ隠れ、動かずにいたのとでは人の目は大きく変わる。何もしなかったのかと責められるのが怖かったのだ。
言ってみればこれは阿己良の負の部分だ。常に潔くあれという母の教え、結果としてそれに等しくあったとしても内実は酷く醜く、弱い。
強がりには限界がある。実際には弱い人間だと阿己良は自覚していた。母や姉のように強い精神を持つことができない。
――だから、明るく照らす光がほしい。いつか闇に取り込まれてしまうかもしれない、己の弱い部分を支えて、照らしてほしい――。
「火って便利だよな」
まるで心を読んでいるかのように羅乎が呟くと視界に温もりが広がった。それは火であり、冷えた身体を温め、暗い心を暖める。
馬ごと招きいれられたのは納屋だった。鎌やら鋤、干草のようなものが積まれているあたりから、農作業が行われる春夏に使われるところなのだろう。転がっていた木屑やら薪やらを集めて、羅乎が例の魔法で火をつけたようだった。
「……酷いですよね」
羅乎が目を向ける。
「有醍様、亜由葉さん、子稜さん。あの方達が何をしたというのでしょう」
それだけではない。あんな多くの命が失われた。
「酷すぎます」
阿己良は小さく八の字を切り、指を組む。
「悪気とはなんなんです? どうして神はそんなものをお創りになったのでしょう」
それがすべての元凶だ。そんなものがなければ彼らは死なずに済んだ。彼らだけではない。大量に届いていた対策要請。知らぬ場所で悪気の餌食なってしまっている人々、一体どれだけいるのだろう。
そして、自分だって、こんな風に旅をすることもなかった。そもそも神拿国などという特殊な国も王家もなかったかもしれず、ごく普通の女の子として暮らしていたに違いない。
けれども現実は違う。悪気があり、争いを厭い、常に穏やかにあれと教える神拿国が存在する。神拿の琉拿一族は癒しを施すなどといって自分は何も一つ癒すこともできず、何もできない。母の代わりも、姉の代わりも。
「悪気を抑える役割があるというのに、できていません。お母様もお姉様もいらっしゃらないなら、僕がやるしかないのに」
阿己良は目を伏せた。目の端から、堪えていた涙が零れてしまった。
「姉貴がいるのか?」
阿己良が頷く。行方が知れないと答えると、羅乎は眉根を寄せた。
「一体、何があったんだ?」
阿己良は揺れる炎を見た。そしてわかりませんと小さく答えた。そうとしか答えられなかった。
「何も知らなかった。気が付いたらこんな状態で。だから何とかしたくて――そして、何もできていません」
涙は止まらない。悲しくて、悔しくて、憤りもある。そして何よりも自分が情けなかった。母や姉ならもっと迅速に、もっと的確な行動を取れていたのにと思う。無力な自分とは異なり、もっと人々に安らぎを施せていたのに違いない。
「なんとかしなきゃって。もう誰もいないから、僕がなんとかしなきゃいけないのに」
こんな小さな手では何も救えない。
何故、自分なんかが残されてしまったのか。
「こんな僕じゃ、誰も救うことなんて、できない」
救うなんておこがましい。本当は救われたいのは自分の方だ。助けてほしくて、助けてほしいから足掻いている。
「阿己良」
羅乎が動く気配があった。正面から隣に移動して腰を下ろすと、涙の止まらない阿己良の肩に手を置いた。
「自分を責めるな。お前のせいじゃねえよ。悪気は、誰か一人の力でどうにかなるようなもんじゃねえ」
震える拳に手袋に覆われた手を乗せる。
「だからみんなでなんとかすりゃいい」
阿己良は羅乎を見やった。覗き込むように見返す赤い瞳は炎を映してとても綺麗だ。
「李比杜がいる。門番だって。みんな頑張ってるじゃねえか。違うか?」
王宮に残らなくてはいけない立場でありながら、強行に同行を申し出た李比杜。
それを可能にしてくれた王宮長の婁支雄。そして近衛近侍の隊員達。
彼らは李比杜だけではなく、阿己良を行かせることにも反対をした。王族ならやらなくてはならないという風潮を相手に異を唱え、沢山の心配をしてくれたのだ。そしてやむなく旅に出ることにはなったが、それならば王宮のことは任せろと送り出してくれた。そんな彼らも戦ってくれているのだ。
「みんな一緒に戦ってんだろうが」
一緒にという言葉が心にゆっくりと波紋を広げる。
「それに、今は俺もいる」
「……え」
「俺も支える。俺も一緒に戦うから」
阿己良は目を上げる。こうして近くにある、温かな存在。何者かなんて関係ない。阿己良を照らしてくれる存在。
「羅乎」
「仲間だろ?」
対等に接してくれる者はいない。一緒に戦ってくれるみなの存在は有難く、支えになる。それは間違いないが、しかし、どこまでいっても彼らにとって阿己良は「殿下」なのだ。護られ、支えられるだけで対等にはなれないその距離はどうしたって縮めることができないものだ。それは彼らのせいでもなく、阿己良のせいでもない。
「一緒に戦う」などという言葉を聞くことはできない。こんな風に言ってもらえたことは一度だってなかった。
「……」
阿己良は頷いた。そしてその肩に額を乗せる。
「お前一人で背負う必要なんかねえよ」
静かな言葉が染みる。頷いて、阿己良は思いのほか細い身体に腕を回した。心が弱くなっている今、この強い輝きを間近で感じたかった。
嫌いといわれたことが蘇り、拒否されるかもしれないと思ったがそんなことはなかった。応えるように羅乎の腕がしっかりと抱いてくれた。途端、阿己良の心の内に緩やかに安堵が広がった。
まだ大丈夫だ。心に広がった安らかな思いがそう告げる。まだ、自分はやれる。もっと頑張れる。
支えてくれる皆の為に。犠牲になった人達の為に。そして自分の為にも。
「ありがとう」
阿己良は羅乎から手を離した。なんとなく気恥ずかしくて、身体を起こすとその場で外套を直しつつ座り直した。
「羅乎がいてくれて、よかったです」
羅乎は少し驚いたような顔をしたが、すぐに微笑する。
「今日はもう眠れ。俺が起きてるから」
羅乎の手が阿己良の頬を撫で、頭を撫でる。優しい感触に阿己良は自分の胸が高鳴るのがわかった。どうしてだか触れられた頬が熱い。
「明日になったら、また一緒に頑張ろう、な」
視線を逸らすと、その場で背を向けて転がり、おやすみと早口で答えた。が、あまりにも不自然な気がしたので慌てて付け足す。
「ありがとう、羅乎」
なるべく自然に聞こえるように祈るのみだが、果たして、そう聞こえたかどうかはわからない。