第二章
第二章
1
まず訪れたのは東の門、東幽門。
被害が多いのは北になるが、四門全て確認する必要があるなら琉拿から比較的近い東側の門から向かう方が効率がいいと李比杜が判断した為だ。
早朝に町を出て、ひとつ山を越えた。そんなに本格的な山ではなかったが空気は大分変わる。乾燥していた寒風から湿気を帯びたものになり、気温もいくらか高い。
山は国境でもあった。東幽門を有する国、朱耀。点在する国の中で、神拿国同様、女王が統治する国だった。
東幽門は森の中にある。その為、一行は直前の町で準備をした。食料や水を確保し、荷物持ちの驢馬を宿屋に預ける。
李比杜の話ではそんなにすごい森ではないとのことだった。旅がはじめてなら森林散策などしたこともない阿己良である。大丈夫ですから、と何度も李比杜に言わせる羽目になったのは、余程不安な顔をしていたのかもしれない。
大変なのは構わない。それは自分自身の問題なので己が頑張ればいいだけのことだと思っている。だが頑張っても追いつかない場合、周囲にかけてしまう迷惑の方が心配だった。
案の定、ある程度進むと阿己良は遅れはじめた。街道と違い道らしい道はなく、行くのは獣道だ。歩きやすいように李比杜が足元の草木や周囲の枝葉を落としてはいても、やはり平坦な道を行くのとは訳が違う。環境を作りながら進む李比杜よりも何もしていない自分が遅れるなどなんと情けないことか。己の不甲斐なさに泣きたい気持ちになる。
歯を食いしばり前に進む。重くなった足は思うように持ち上がらない。万が一はぐれた時の為にと持たされた――とは言っても、李比杜よりはかなり少量だが――荷物も負担になっていた。小枝やら岩やら転がる足場はしっかり踏み込まなくてはいけないのに膝が身体を支えきれなくなってきている。
「――!」
膝から力が抜けた。よろめく身体を、最後尾を歩いていた羅乎が支える。思いのほか素早い手助けは、もしかしたら危なっかしい様子を感知していたのかもしれない。
「李比杜、ちょっと待て」
礼を述べ、羅乎の助けを借りてその場に腰を下ろすと、膝から下がじんわりと痺れるような感覚があった。
「僕、足手まといですね」
「いいえ、私が行き届かず」
「お二人だけだったら、もっと早く進めるのに、すみません」
「何言ってんだよ」
羅乎は呆れたように言って両手を腰にあてた。
「東幽門に行くんだろ? なら琉拿の王族のお前がいなきゃ意味がねえだろ」
阿己良は羅乎を見やった。李比杜も羅乎を振り返る。
「な、なんだよ」
「何故、知っているのだ」
李比杜がゆっくりと立ち上がった。
「何故、阿己良様の素性まで知っている」
「……それは」
羅乎が視線を泳がせる。明らかに「しまった」という顔だった。
「思えば、お前は我らの行き先を忖度もせず従ったな」
李比杜の大きな背中が阿己良の視界を妨げる。手が剣にかけられるのが見て取れた。
「胡散臭いとは思っていたが、阿己良様の手前、追求せなんだが」
李比杜の身体で、羅乎がどんな表情をしているのか見ることはできなかった。剣呑な空気を纏う、李比杜の低い声が不穏に響く。
「お前、何者なのだ。何が目的で我らに近づいた」
違う、と阿己良は言いたかった。確かに羅乎は色々知っている様子もある。もしかしたらわざと阿己良に近づいたのかもしれない。それでも、頼んだのは阿己良の方なのだ。
「べ、別に目的なんて」
李比杜の腕が動いた。阿己良がその名前を呼ぶ。だが、李比杜の剣は既に羅乎へと向けられ、顔を掠める。反転した羅乎が素早く身体を起こすと、李比杜が間合いを詰め、その目の前に切っ先を突きつけた。
「言え、お前は何者なのだ」
「ただの、旅のお姉さんだよ」
強がりだろうか。だが、そうは見えなかった。どこか余裕がある声音に聞こえた。
羅乎が李比杜の剣に触れると、そこに炎が生まれた。やはり何もない場所から生まれた炎は剣を伝い、李比杜の手元へと到達する。
「面妖なっ!」
身軽に跳躍する。その背に、炎を振り払った李比杜が振りかぶった剣を振り下ろす。外套の裾でいなすように回転した羅乎が正面を向いた時にはその手に剣を握っていた。
立ちすくんだまま、阿己良は動けずにいた。李比杜がこんなに鋭利な気を発するところもはじめて目にした。それも勿論怖いことではあったが何よりも目の前を行き交う銀色の閃きが恐ろしく、声すらも凍り付いてしまったかのようだ。争いごととは無縁で育った阿己良は暴力、まして命を奪うことができるものを振るう場に居合わせた経験はない。
目の前の光景に足が震える。止めたいのに止められない。いつどちらが怪我を負ってしまうのか、それを思うと見ていることさえ苦しい。
思わず目をつぶった阿己良の耳に金属が打ち合う音が響き、止まった。恐る恐る目を開けると、打ち込まれた剣と受け止めた剣を間に両者が動きを止めていた。だが、それは一瞬で、すぐに弾き返した羅乎が跳躍して距離を取るのが見える。
動きを読んでいたのか、着地した瞬間を狙って李比杜が距離を詰めた。打ち下ろされるのを受け止め、二合、三合と打ち合う。
阿己良は目を瞠った。
李比杜は並ぶもののない戦士といわれていた。神拿国において、恐らく最強だと思われていた。その李比杜の攻撃を、女の身でありながら受け止める。それどころか全く引けを取らない互角な戦いぶりはどうだろう。
そうは言っても腕力の違いはあった。力任せに振るわれる剣を、羅乎は距離を利用しながら巧みに背後に引くようにしてその力を殺しているようだ。しかしその背に大木が迫っている。下がるにも、最早その後ろはない。
「やめて」
たまらず阿己良が叫んだ。ちゃんとした声が出たかはわからない。だが、その瞬間に勝負はついていた。攻撃を支える羅乎の足を李比杜が蹴った。膝が崩れる瞬間、李比杜の剣が羅乎の外套を刺し貫き、背後の大木へと縫いつけた。
「五合以上持った相手は珍しい」
「……お褒めに預かり、光栄」
息は上がっているが、どこかふざけたような声に、阿己良は胸を撫で下ろす。
「身体のわりに、随分と立派な得物をもっているな」
李比杜の言葉に阿己良もそちらに目を注ぐ。銀というよりも青みを帯びた刀身で高貴な香りを感じさせる。根元に金の、何かが絡み合うような奇妙な細工模様があった。
「借り物だ」
羅乎は外套がはだけるのも構わず、その場に胡坐をかいた。そんな状態であるのに、李比杜を見上げる瞳には曇りのない強さがある。
「別に、怪しいもんじゃないって言ったとこで信じねえんだろーから、俺としてはどうしようもねえけど」
本当にどうしようもないといった感じで大きく息をつく。
「ほんとに、怪しいもんじゃねえよ」
明かせない事情でもあるのだろうか。いい加減そうに見えて、実はかなり頑ななところがあるようだ。それは羅乎にというよりも羅乎の立場にあるという感じがする。そうでないならこんな恐ろしい男と行動をする必要はない。むしろ危険が多いはずである。それなのにあえて一緒にいるのは意思に関わらず、羅乎には羅乎の立場があって、その為の思惑があるからに違いない。
怪しいものではないと繰り返す羅乎を見下ろす李比杜の目は冷たい。
いくつか質問をしても、羅乎は黙秘と冗談を返すばかりでまともに答えようとはしなかったのだが、国籍を問われてはじめて口答えらしき反応を示した。
「別に、国は関係ねえだろーが」
「関係あるかないかを判断するのはこちらだ」
羅乎は眉を寄せる。
「っつーか、なんで国が関係するんだ? 今地上を騒がしてんのは悪気なんだ。国がどうって話じゃないだろが」
「問うているのはこちらだ」
「ちょっと待て。これは大事なことだぞ」
羅乎が大木を伝って立ち上がろうとする。
「これって戦争なのか? 悪気じゃなくて」
「だったらどうなのだ」
せっかく食いついてきたのだからというところか。李比杜は否定せずに問うた。
「だったら……俺は関われねえ。悪気の仕業だというから来た。違うなら、一緒には――」
少し戸惑いながらの答えだった。
だがこれで明らかになったことがある。羅乎の行動の基準が悪気であるということだ。それがどんな理由でどんな背景に基づくかは依然としてわからないが、だからこその知識。そして恐らくあの宝飾を見て、阿己良が神拿国王家と関わりがあると判断し、行動を共にしたのだということ。
「確かに悪気は動き出している。それ以上はわからん」
「だからこうして確かめに行くのです」
李比杜の言葉を補う形で口を開いて、阿己良は羅乎の正面に膝をついた。中途半端な姿勢の羅乎が阿己良を見下ろす。
「悪気が溢れたことは事実です。それは門が開いたからなのかもしれません。でも、それがなぜ、突然、これほど急激に広まってしまったのか。あまりに急だったので、人為的なものではないかとの声があるんです。それに」
「阿己良様」
阿己良は李比杜を見上げ首を振る。
「神拿国の女王が封じられました」
羅乎が眉を寄せた。
「母は眠ったまま全く目を覚まさず……仮死だと、言われました」
李比杜は剣を収めながら、息をついた。
「司教達の話では、何かよからぬ呪術が働いているらしいと」
羅乎が目を丸くして李比杜と阿己良を交互に見やった。
「じゃあ、今、神拿は大変なことになってんじゃねえのか」
「公にはなっておらんから、表向き、なんの混乱も生じておらん。悪気を除いてはな」
公にすることは出来ない。だから表面的には何事もなく巡礼者を受け入れ、通常通りの営みを続けている。しかし、王宮内は平穏とは程遠く、王家を警護する近衛部隊が機密を護ろうと必死になっている状況だ。
「そうか」
羅乎は己の剣を拾った。外套の裾を払い、暫く何かを考えるように無言だった。やがて手袋の皺を玩ぶようにしながら、振り返る。
「あのさ。あんたらから見たら、多分、怪しいと思うけど。俺も色々とあるわけだよ。信用しろとは言わねえけど、とりあえず敵じゃないってことだけは間違いないからさ。ほんのちょっとだけど、その辺、安心してくれたら有難い」
多分、これが羅乎に言える精一杯なのだろう。そこには嘘は感じられなかった。途切れ途切れの中に誠意があるように思えた。
黒い手袋の手を取る。川で冷えた手を優しく包んでくれた、あの温かさが脳裏に蘇る。
「わ――僕は信じています。だってこんなに綺麗な気配をしているんですから」
赤い瞳が険しく細められた。射抜くように阿己良を睨む。
「……別に、目に見えるわけじゃねえだろ」
ぶっきらぼうな言葉だった。けれど、怒っているようには聞こえず、どちらかというと案じているような響きすらあった。
「見えませんけど。感じるんです。嘘はないと」
やはり間違いはない。気配も、瞳も、その言葉にも羅乎の本性が感じられる。もちろん正体を知るわけではない。でも何者でも構わない。自分は信じられる。
安心してほしくて、自分のことも信じてほしくて。そんな気持ちで見つめ返した阿己良に、羅乎は盛大な溜息をついた。
「ど、どうかしましたか?」
「なんか、馬鹿らしくなってくんな、お前見てると」
思いもよらぬ答えに、阿己良は目を丸くした。
「まあ、とりあえず。皇子様に免じて、ここは一時休戦ってことで」
いずれはっきりさせると李比杜が応じるのを阿己良は負け惜しみみたいだと思ったが、彼の名誉の為に黙っておくことにした。
2
道を歩くこつがわかったというか、大分足運びが順調になってきていた。無理に大きく一歩を踏み出すよりも、自分の歩幅でしっかりと足裏を置くことが大事なのだと、徒歩の基本を思い出してみたりする。
己に少し余裕が出てきたことで最後尾を歩いていた羅乎の様子が妙なことに気付いた。疲労というよりも、明らかな体調不良といったところだろうか。それほど暑くもないのに、やたらと汗を拭っている。
「大丈夫ですか?」
近くで見れば、酷く顔色が悪いのがわかる。
「李比杜、少し休みましょう」
「いい、意味がねえ。構わず進んでくれ」
李比杜が自分を見るのがわかった。どうするか問う視線には首を振る。こんな状態で歩かせるわけにはいかない。
座らせようとする阿己良に、だが羅乎は抗った。
「休んでも仕方ねえんだ」
「そんなことはないでしょう。すごく顔色も悪いです。無理をしては」
羅乎は首を振った。
「ここにいる限り同じことだ。それなら早いところ行って始末をつける方がいい」
汗に濡れた髪を無造作にかきあげて、あとどれほどかと羅乎が問う。
「もう間もなくだ」
何かを言いかけた羅乎は舌打ちをした。その表情はやっぱりと言いたげな険しいもので、支える阿己良の手をやんわりと押し返すと、大きく息を吸って身体を起こした。
「開いてる、かもしれねえ」
「え?」
阿己良は李比杜を見やった。この場で開いているといえば一つしかない。
「羅乎、ごめんなさい。もう少し頑張ってもらえますか?」
「当たり前だ」
辛そうだが、羅乎はしっかり頷く。
「急ぎましょう」
李比杜が羅乎に手を伸ばした。その体を抱えるように腕が回される。羅乎の荷物は阿己良が引き受けた。
東幽門は開いてはいなかった。隙間は開いている。だが、必死に抵抗したのか、青い輝きを放つ体が扉の前に丸くなっている。
辺りは血の海だった。鮮やかな色を残した身体からは内臓が引き出されていた。その肉を食むもの、臓物を漁るもの、肉体にありつけず流れ出た血を啜るもの。食しているものも様々なら、その異様な姿も様々。群がっているのは小物の魔獣達。強い存在をその身に取り込もうとしている。
生前を知るわけではないが、恐らく美しい姿だったであろうその青い鱗は間違いなく東幽門を護る青龍のものに違いなかった。扉にかけられた呪印は生きている。ここから悪気は出ていなかった。周囲に溢れている悪気は元々あったもの、それに魔獣の気が触れ、増幅されたようだった。
「こ、こんな」
思わず呟いて阿己良は息を呑んだ。血塗れた口元もそのままに、不気味な視線が一斉にこちらへと向けられた。硬直した阿己良を素早く李比杜がその背中に隠す。
「李比杜、後ろだ!」
羅乎の鋭い声が飛び、阿己良は李比杜に抱えられるようにして庇われた。視線の先、羅乎が跳躍するところに黒い影が迫る。
影は降りるというより降ってきたという表現が相応しかった。黒い大きな塊が羅乎を目掛けて、落ちる。金属的な音が響くと、羅乎は再び空中で身体をひねり着地する。が、すぐに膝をついた。
「羅乎!」
「いけません、阿己良様」
李比杜が阿己良を茂みへと押し込む。今目にしたものの衝撃と、不安とで震えの止まらない手に短い剣を握らせて、その場に座らせる。
「窮寄」
李比杜が呟く。
「窮寄?」
阿己良が繰り返す。名前すら知られぬものもいる中、魔獣の専門家でもない李比杜がすぐに言い当てたということはかなり強い部類に入ることになる。黒い鱗と羽毛を持った身体に長い尾を持った姿。その尾は鋭く、大きく、まるで巨大な鎌のように反り返り、見るからに凶暴そうだった。黄色く濁った目は何を捉えているか。
羅乎は本調子ではないはずだ。あんなものの相手ができると思えない。
「李比杜、羅乎が」
縋ると、大きな手が阿己良の肩に乗せられる。
「心配無用です」
「でも」
李比杜が口角を上げて笑んだ。力強い眼差しに揺るぎない。己の腕を知る、確固たる自信に裏付けされたものだ。
「お願いします」
「お任せを。阿己良様はここから動かずにお願いします」
阿己良は頷く。それに頷き返した李比杜が背中を向けた。
3
繁みから出た李比杜に魔物が躍りかかった。剣すら使うことなく撃退する。飛びこむ勢いと絶妙に撃ち込まれた拳の威力とでその顔面は無残にひしゃげていた。
「羅乎!」
李比杜が声を掛け、羅乎を助け起こすのが見えた。何事か会話があったのか、二人は距離を取るとそれぞれ定めた敵と対峙する。羅乎が黒い影へと向かい、李比杜は雑魚を引き受けることになったようだというのは阿己良にも見てとれた。
すらりと李比杜が剣を抜く。そこへ躍り上がったのは一つ目をした犬に似た化け物だった。自慢の武器はその爪なのだろう。身体に似合わぬ大きな爪は黒く、血に濡れて不気味に光っていた。李比杜の剣が唸る。白い太刀筋を追って赤い霧が舞った。
まるでそれが合図だったかのように小物が一斉に動き出す。
猿に似た妖獣は木を伝い、上から襲い掛かる。爬虫類のような姿の化け物は奇妙に長く伸びる舌を放つ。鳥型の魔獣は異様に肥大した爪をかざして滑空する。
振り上げた一刀で猿の腕をその体から切り離していた。その動きのままに振り下ろされた剣が舌を切り落とし、その頭を刺し貫いた。
絶命を見届けるようなことはせず、素手で鳥の足を捕えると、地面に叩き付けた。その柔らかそうな腹に容赦なく切っ先を突き通す。
その背後に小鬼のようなものが飛び掛った。それには回し蹴りを見舞い、引き抜いた剣は新たに迫っていた大きな歯を持つ巨大な鼠の身体を両断する。
一方的な殺戮だった。あっという間もなく複数の魔獣が絶命していた。王宮にいる間は目にすることはないが、やはり李比杜は強いのだと改めて認識する。それに対し、小物は所詮小物だった。どれだけ数がいても純然たる強さの前には意味を成さない。統率された動きをするのでもなければ尚更だ。数が多いだけにその差は余計に圧倒的だった。
李比杜の勇姿の向こう、羅乎もまた奮闘する。ただこちらは一方的とはいかないようだ。それはそうだろう。窮寄と李比杜が呼んだそれは、対峙する羅乎より二回りは大きい。
蝙蝠のような羽を広げると、その巨大は空中へ舞い上がった。そのまま羅乎を目掛けて一直線に舞い降りる。阿己良が見守る視線の先で、羅乎はおもむろに手をかざした。
「――」
目眩しだった。眩い光が辺りを覆う。次の瞬間、窮寄が悲鳴をあげるのが聞こえた。何度か金属的な音がして、続いて何かが落ちる音がする。
目を擦ってなんとか視界を整えると、窮寄は地面にのたうっていた。羽の片方は力なく折れている。それでも四肢を踏ん張って立ち上がろうとしているところだった。
羅乎が手を振ると、突如として窮寄の周囲とその黒い体そのものに炎が宿った。
――また、あの炎。
一体どうやって生み出しているのかまったく分からない火炎が羅乎の手に従って踊る。火に面食らった窮寄がたたらを踏むとすかさず炎が鞭となってその横面を叩く。
圧倒的な炎だ。男達を燃やしたものなどとは比較にならない。
羅乎が愛用の剣に触れると、今度はそこに火が灯される。
よろよろと立ち上がった窮寄が威嚇の声を発した。魔獣にも意地があるのか、怒りに燃えた金色の目をまっすぐに羅乎へと据えている。
不安定な体勢で窮寄が跳躍した。その背から鱗が刃となって降り注ぐも、羅乎の前に生まれた炎がそれを阻んでしまう。
羅乎が受け止めた鱗に炎を乗せて窮寄へと跳ね返す。鱗のない柔らかな腹部に幾つもの炎刃が潜り込み、窮寄は落下してきた。その落ちた先は、羅乎の作った火の海の中だ。
「……」
阿己良は息を呑まずにはいられなかった。一方的とまでいかずとも羅乎の強さも相当だというのがわかる。そして驚いたのはもうひとつ――羅乎は火炎の中に躊躇なく足を踏み入れたことだった。特に熱がる様子もなく、もがく妖魔を火を纏った剣で貫き、完全に動きを止めたのだった。
「阿己良様!」
李比杜が呼ぶ。固唾をのみ、両手を握っていた阿己良は弾かれたように我に返った。
「今のうちに、鍵を」
「は、はい」
赤い血溜まりを避けて、扉の前に立った。金色の扉はなんの模様もない。ただつるりとした表面に今は赤い飛沫が付着している。肌の上を電気が走るような感じがあり呪力が阿己良を認識したのが感じられた。ひやりとする表面に手を伸ばし、はじめて指先が震えているのに気付いて思わず苦笑した。
戦ったのは自分ではない。けれど、自分が何かされるよりも怖かった。見ているだけというのは、あまり心臓にいいものではない。
自分にも戦うだけの強さがあればよかったのにと思う。参戦しても無駄なだけでなく、かえって邪魔になるのだということは考えずともわかる。無力な自分にできるのは言われた通り動かずにいること。そして己の仕事を全うすることしかない。
小さく息をつくと、阿己良は己の指に剣の先を当てた。赤く小さく滲むものを確認し、扉に手を触れた。
「お願い、閉じて」
両開きの扉の片方が内側に開いている。その向こうは黒く澱んだ闇だ。まるでこちらを睨んでいるかのような不穏な暗黒。今にも触手を伸ばしてきそうなそれに、阿己良は紫色の瞳を向ける。
「負けない」
絶対に負けない。そう思う。
扉の、ちょうど胸ほどの高さに円形の窪みがある。両方の扉に跨ぐ形の、その半円に三日月をはめ込むと開いていたもう一方の扉が引き寄せられてくる。
何の音を立てることもなく扉は閉じた。三日月の飾りに一瞬だけ光が宿り、きちんと封じられ、鍵がかかったことがわかった。
鍵がかかると三日月は窪みから外れ地面へと落ちた。澄んだ音と水音が同時に響く。青龍から流れ出た血の中に落ちるのを拾いあげ、阿己良はそのまましゃがみこんだ。
「……」
冷たくなった身体に手を伸ばすと滑らかな感触があった。無残に裂かれた聖獣を前に、どうしてと思ってしまう。
――どうして逃げてはくれなかったのだろう。
開いてしまったとしても地上には陽気が残っている。開いた瞬間から悪気の天下になるわけではないのだ。それに東幽門だけではない。まだ他にも門は残っている。まずは逃げてほしかった。
泣くのは間違いなのかもしれない。命懸けで使命を果たしたものに対し、悲しんだり哀れんだりするのはいけないのかもしれない。それでも、惜しんでしまう。
やはりここでも祈ることしか出来ない自分が不甲斐なかった。けれど、それしかできないのなら、やはり祈りを捧げるべきなのだろう。
「護ってくれていました。こんなになって……護って」
傍らに立つ気配を感じ、阿己良は口を開く。泣くまいと思っても涙は止まらなかった。
「逃げてくれたらよかったのに。どうして、こんなになるまで」
そうだなと羅乎が肩に手を乗せた。置かれた温かさにはさらに涙を誘う優しさがあった。
「けど、お前でも、おんなじことしたんじゃねえ?」
「え?」
「命懸けで旅して、こんなとこまできて。国の為、人の為って。同じだろ」
「……同じ?」
羅乎が頷く。
「だったら、ありがとう、ご苦労様でいいだろ。一緒に世界を護る仲間なんだから」
阿己良は目を瞠る。
「神拿国の皇子様じきじきに祈ってもらえて、あいつも門番冥利に尽きるだろうさ」
「あいつ?」
どこか親しみのある呼び方に阿己良は首を傾げた。
「もしかして、お知り合いですか?」
「……ちょっとだけな」
聖獣と知り合いなんてことがあるのだろうか。だが、羅乎の答えはすこし沈痛で、嘘を言っているようには聞こえなかった。
「ごめんなさい。僕には、こんなことしかできなくて、申し訳ないです」
そんなことないと羅乎が微笑んだ。
「ありがと、阿己良」