第一章
第一章
1
大陸の中でも北よりに位置する白鷺国。
その中でも比較的大きい北側の中心都市、由四里。居並ぶ店も賑わう声も全てが明るく活気に満ちている。聞けば秋の収穫が終わり、間もなく収穫祭なるものが行われるらしい。今年の収穫に感謝し、また来年の豊作を願う。街は一年で今が一番賑やかなのだという。外套を来た旅人が多いのも収穫祭を待ちわびた近隣の村や集落の人々だった。
陽も暮れてくると気温はぐっと下がる。悴む指に息を吐きかけて阿己良は明かりのつき始めた大通りを見回す。
「宿、取れるのかな」
街や村、小さい集落に至るまで隔壁で囲まれているのが普通だった。獣を警戒しているのは勿論、野山にいる魔獣の侵入を防ぐ為のものだ。どんなに品祖な壁であっても妖魔の嫌う呪が施されている。
昼間は魔獣を見かけることは稀だが夜になれば活発になる。その為、陽が暮れると隔壁の門が閉じられる。旅をする者は常に門が閉じる前に次の街や集落へと到着することを考慮していなければならず、もし間に合わなければ門の外で夜明かしとなってしまう。余程の事情か腕に覚えがなければあえてそんな危険を冒そうと言う者は少ない。
由四里到着は閉門よりも少し前ではあったが既に大通りは人で溢れている状態だった。宿を探しに行った連れは戻る気配がない。恐らく予想以上の混雑に苦労しているのだろう。いつもなら大人しく待っているのだがさすがに耐えられなくなってきた。
「さ、寒い」
外套は帽子付のものを着させられている。寒さに慣れていない自分の為にと宛がわれたものだが、頭よりも足が辛いのだとは知らなかった。裾が長くては歩くには向かない。当然、旅になど向くはずもないので、足元の暖については諦めるしかないのだろうが。
「本当に、寒い」
阿己良は象牙色の外套を掻き合わせる。
高襟の内着に、膝丈程度の着物を前で重ね合わせ帯で止めるのが普段着だが、冬場にはその上に羽織を一枚着て、外套を着ることが多い。寒がりの阿己良は羽織を二枚重ねているのだが、少しも温かいとは思えない。やはり動かずにいるのがいけないのだろうか。
別に待つのは構わないのだがただ立っているのは寒くて辛い。屈伸などするも大して暖まるものでもない。その場で足踏みをしたところで既に感覚がなくなってきた足の先は奇妙な痺れを感じさせるだけだった。
何度目かの溜息をつくと、向かいの店先から子供が駆け出していくのが目に入った。飼い犬だろうか、楽しげな声を上げながら追いかけている。
「え、なんで?」
阿己良は大きな紫の目をさらに丸くする。
瞬く阿己良の足元へ、犬はが一直線に向かってきた。後を追う子供も走ってきて阿己良の足にぶつかる。阿己良もよろけたが、子供の方は転んでしまっていた。
「大丈夫?」
慌てて起こしてやると子供はごめんなさいと丁寧に頭をさげた。それに笑顔を返す。服の汚れを叩き、頭を撫でて送り出してやると子供は再び元気に走っていく。
「あれ、きっとまた転ぶな、うん」
ひとりごちて、阿己良は両腕を擦った。それにしても寒くて仕方がない。
この辺りにいるようにとは言われているが、そんなに離れなければ問題ないだろうと思われた。このままでは凍死しそうな気がする。阿己良は周囲を少し歩いてみることにした。
「坊や、これ買わないかい? うまいよ」
店先で調子のよい声が投げられた。美味しそうな果実は艶やかで食欲をそそる。
「あの、お金を持っていないんです」
「なんだい、仕方ないねえ」
言った店主が器を差し出した。首を傾げつつ、受け取ると温かな湯気からぷんと甘い匂いが漂う。
「あんた、あそこでずっと立ってたろ。寒そうで可哀相だと思ってたんだ。商品はやれないがそいつでも飲んでいきな」
「そんな、申し訳ないです」
「いいんだよ。客寄せの試飲用なんだ。桃湯だよ。うちのがきが迷惑かけたしね」
先程の子供はこの店主の身内であったらしい。店主が笑うのに笑顔で応じ、遠慮なく、と口をつける。柔らかな桃の香りが心地よく、冷えた身体に染み渡る。
阿己良は両手に器を持って、改めて大通りを振り返った。
――色んな人がいる……。
阿己良の周囲には制服を着ている者が大半だった。しかも瞳の色は大半が紫で髪も白に近い。多少の濃淡の違いがあれど、それが阿己良の国には多い人種だった。こうして自国を出てみれば、なんと多くの人種が存在するのか。黒髪も金髪も、青い瞳も黒い瞳も、肌の色だって様々だ。
それだけではない。旅人やら商人やら、色んな職業の人がいる。賑やかな街は喧騒に満たされ、生きているのだという力強さを感じる。
阿己良はこんな風に他人と触れ合うことはこれまでなかった。特別孤独な環境にいたというわけではないが、面識もない人間と話をしたり声をかけられることなど経験がない。沢山の人の中にいるのは慣れなくて少し怖かったが、こんなに温かい気持ちになるのなら悪いことではない。この空気にもっと触れていたい気がする。
ご馳走様でしたと礼儀正しく礼を述べて、阿己良は再び歩き出した。
食べ物は勿論、反物を扱う店もある。首飾りなどの細工ものの店には女性の姿が多かった。夜にもなると食堂は酒場に変わっており、笑い声やら歓声が通りにまで零れていた。
あまり離れるわけにはいかない。引き返そうとした阿己良の目はなんとなく暗がりへと向かった。店と店の間には細い道があり、色々なものが積まれていた。これは道なのか疑問に思っていると、その向こう、先の子供の姿がちらりと見えた。まだ駆け回っているのだろうか。元気なことだと関心する阿己良の耳に泣きべそをかいたような声が届く。弾かれたように顔をあげて、阿己良は迷うことなく路地へと入っていった。
犬が吠えていた。その前で子供が地面に転がっている。それを見下ろすように立っているのは、この寒空の中、袖のない襤褸切れのような布を纏った大きな男だった。その隣にやはりやたらと薄着の男がもう一人。
「どうしてくれんだよ。このくそ餓鬼」
男の足元で壜が割れていた。辺りに漂う匂いから中は酒だったと思われる。
男達は既に酔っているに違いない。そうでなければこんな子供に絡むなど大の大人がすることではない。ごめんなさいを繰り返す子供に男は執拗に声を張り上げている。
「お前のせいで、酒がなくなっちまったろうが!」
男が拳を振り上げた。
「やめてください!」
息を切らして阿己良は子供を抱えた。そして男を見上げる。
「こんなに謝っているではないですか。もうやめてください」
怖かった。血走ったような目も、握られた拳も、何もかもが恐ろしかったが見過ごすことはできなかった。
行きなさいと子供の背中を押しやる。怯えた目が阿己良を見返すのに必死に笑顔を返したが、うまく笑えている自信はなかった。
「――?」
子供の姿が路地裏に消えるのと同時に阿己良の身体が宙に浮いた。何事かと思う間もなく、その体は積上げられた木箱に向かって投げつけられていた。
息が詰まる。立ち上がることが出来ずにいる阿己良の胸倉を男の太い腕が掴み上げた。
「なんだ、てめえは」
それは質問ではないに違いない。なぜなら、吊るし上げられて声を返すことすらできないのだから。
再び木箱の山に投げ捨てられた。強かに打ちつけた背中に苦痛の表情を浮かべる阿己良の頭を、男は外套の帽子ごと、白金色の髪を掴む。
「お前が代わりに払ってくれるんだろ、酒代をよ」
「それから服代だろ。酒がかかって汚れちまった」
下卑た笑いが耳に不快だった。
「お金なんてありません。例え持っていたって、渡すわけがありません」
言い返した途端、腹に激痛が走った。途端にこみ上げる吐き気を堪えるのに自然と身体がくの字になる。激しく咳き込み、霞んだ視界に黒い影が迫る。
「――」
蹴られると思った。咄嗟に顔を庇い、目を閉じた――が、いつまでたっても衝撃は来なかった。代わりに響いたのは木箱が派手に粉砕される音と凛としたよく通る声だった。
「やめろよ」
こちらの方が暗いのでその容姿はよくわからない。だが男達に比べて、その影は酷く小柄に見える。
「いい大人が、そんな餓鬼相手になにやってんだよ、みっともねえ」
呆気に取られる男達の間を抜け、小柄な影が歩み寄る。阿己良の前までくると手袋に覆われた手を差し出した。
「大丈夫か?」
声は女性のものだ。顔の美醜は逆光でわからない。それなのに阿己良はその姿に見惚れていた。
――なんて、綺麗な気配なのか。
こんな気配を持った人間をこれまで見たことがなかった。漂う空気の清涼なこと。陰気な気配を払うような、強い陽の気。
「立てるか?」
頷こうとした視線の先で迫るものがあった。阿己良の表情で察したのか、その人物は素早く両手を構えると男の蹴りを受け止める。
「不意打ちはねえだろ」
不適な声が答える。どこか人を食ったような口調は少しも焦る様子がない。
「なんなんだ、てめえは」
「別になんでもねえよ、宿無しだし」
「はあ?」
男が一瞬目を丸くするのがわかった。それに咳払いをして、その人物は男へ向き直った。
「金が欲しいならやる。とっとと消えろ」
金銀の硬貨が数枚投げられた。阿己良は金の価値がよくわからないのだが銀貨一枚でかなりいい宿に泊まれると聞いたことがある。酒代にしては充分すぎる金額に違いない。
「話のわかる姉ちゃんだな」
金を拾った男が小柄な姿に近寄ると、その肩を抱いた。
「しかもえらい美人じゃねえか」
反対から薄着の男が腕を取る。
「俺たちと飲もうぜ、なあ」
あんな大男二人に抱えられたら叶うはずもない。阿己良は急いで立ち上がった。
「いい加減にしなさい」
「うるせえよ!」
言うよりも早く、男の肉厚な手が阿己良を突き飛ばした。よろめいた拍子に懐から金色の飾りが地面へと落ちる。
鎖で首にかけてあるはずだったのだが、先程蹴られた拍子に切れてしまったのかもしれない。澄んだ音を立てて転がった三日月の飾りに、四人の視線が集まった。
慌てて手を伸ばす――が、男の手がそれを拾い上げる方が先だった。
「持ってんじゃねえかよ、金目のもんを」
薄着の男がつらつらと眺める。
「金みてえだな。売り飛ばせば結構な値がつきそうだ」
阿己良は戦慄した。
何よりも大事なものをなんと安易に奪われたのか。阿己良は己の愚かさに対し、自分自身で呆れる。どんなに人助けをしようともあれを失くしては何にもならない。なぜ大人しく大通りで待っていなかったのか。そうすればこんなことにはならなかったのに。
「返してください!」
後悔をしても仕方のないことだ。阿己良は歩き去ろうとする男の前に立ちはだかった。
「か、返して!」
手を伸ばしても男が腕を上げてしまえば到底届く高さではない。
「お願いです。返してください」
縋る腕を男の腕が払い除ける。なおも食らいつこうとした阿己良の目の前で、どういうわけだか男の方が悲鳴を上げた。
「大人しく消えりゃいいのに」
男の足の甲に呟いた人物の足が乗っていた。もう一度踏みつけ、そのまま脛を蹴飛ばす。おまけとばかりに素早く男の両腕を掴むとその鳩尾に膝を叩き込む。
突然の反撃に阿己良だけでなく、薄着の男も目を瞠る。蹲る仲間を呆然と見、それから視線を転じる。だがその隙を見逃すはずもなく、素早く身体を回転させて勢いをつけるとその顔面に回し蹴りを放つ。今度は薄着の男の方が木箱の山へと吹っ飛ぶ番だった。
「このアマ!」
袖なし男が立ち上がった。背後から掴みかかろうとするのに向き直り、その人物は股間目掛けて蹴り上げようとした。しかし、素早く膝を閉じた男が相手の思惑を未然に防ぐ。
にやりと男が笑った。太い腕で片足を捕まえる。よろけるその人物の首をもう一方の手が捕えていた。
「くっ」
苦しげに呻くのを楽しそうに見やった男の、丸太のような腕の筋肉が盛り上がる。どれだけ有効かは些か不明だが阿己良が体当たりをしようとした時だった。
「――」
肌の上をちりっと何かが過ぎるような感じがあった。何かと思う間もなく、男の腕から炎が舞い上がった。
小さく発した炎はそのまま少ない布を糧に広がっていく。動揺した男の身体を突き飛ばして、その人物は優雅に着地する。
「今のうちだ」
「え?」
「もたもたすんな、行くぞ!」
乱暴に引っ張られて立ち上がると、その後を追って全力で走り出した。
2
ほろ酔い加減の人々とすれ違い、細い路地を数本過ぎ、大通りをも越えて反対側の街外れまで来てようやく足を緩めた。こんなに走ったことは今までにない。喉がひりついて、少し咳が出る。それなのに不思議と楽しいような気がしていた。
己の手を引いていたのは女性というにはまだ少し少女の面影を残す、秀麗な顔立ちをした人物だった。ゆるく癖のあるこげ茶色の髪が低い位置で束ねられ、背中ではねている。勝気そうな横顔に、強い力を感じさせる赤を帯びた瞳はどんな宝石よりも綺麗に見えた。
店から零れる明かりでようやく己の手を引いていた人物を観察することができたが、容姿の美しさ以上にやはり漂う空気の清らかなことに驚きを隠せない。
「ほら」
ぼうっとしたように見つめていた阿己良の目の前に金色の輝きが差し出された。
「……あ」
阿己良は目を瞠る。いつの間に拾ってくれていたのだろう。全身から力が抜けるかと思うほどに安堵して阿己良は手を伸ばす。
「あ、ありがとうございます……え?」
阿己良の手が飾りに触れる寸前、それはすっと取り上げられていた。
「ただで返すと思うか?」
思わぬ問いに、阿己良は驚いて一瞬言葉を失った。
「お、お金ですか?」
あの男達に言われたのとは違う衝撃があった。これ程に綺麗な気を纏った人からこんな言葉が出るとは思ってもみなかった。
「持ち合わせがないのは本当です。でも」
声が震える。たった今受けた衝撃を声に出さないようにするのは難しい。
「それはとても大事なものなんです。お願いです。わ――ぼ、僕はどうなってもいいです。それだけは返してください」
「僕?」
阿己良の必死な様子とは裏腹に少女は素っ頓狂な声を上げた。
「お、お前、男なのか?」
「え?」
「ほんとに、男?」
「は、はい……まあ」
赤い瞳がまっすぐ見つめてくるのに阿己良は思わず目を逸らした。どういうわけだか頬が熱くなるのがわかった。
「どこからどう見ても可憐な美少女系じゃねえか。その顔で男は反則だろ」
「そ、そうなんですか?」
あまり自分の容姿を気にしたことのない阿己良だが、褒めてもらえるのならばそれは素直に嬉しいことである。しかし少女の口調はどうにもそういう雰囲気ではなかった。頭を抱え、突然その場にしゃがみ込むに至り、その理解不能な行動に阿己良は数歩あとずさってしまった程だ。しかし阿己良が男であることの、何がいけないというのだろうか。彼女にとってどんな不都合があるのだろうか。
「その、ごめんなさい」
よくわからないが、とりあえず謝ってみる。助けてもらったのに期待に添えない何かがあったのなら詫びる必要があると思った。
「あの、もしかして、男だから返してくれないんでしょうか?」
「別に、そういうわけじゃねえよ。これは単なる個人的な問題。精神的な部分の」
「はあ」
なんだかまったくもってわからない。あまり同じ年頃の人間と接したこともないので、同世代の他の人というのはこんなものなのだろうか。落ち込んでいるらしいことはわかるのでどう声をかけようか考えていると、再び目の前に金色の飾りが差し出された。
「これ、神拿国の財宝だろ?」
「え」
阿己良は息を呑む。
――この人は、なぜ、それを知っているのか。
指摘された通りだ。これは神拿国の宝飾であり、神拿国王家に伝わるものであった。
神拿国。古くは神無国と言う。神が地上を去る際、力の一部を譲渡され受け継ぐ一族。それが神無国の王家であり現在の神拿王族だった。事実、受け継がれる力は特殊でそれは天よりこの世界の秩序を任された、いわば人の世における神、その代理である証だった。
神拿国はこの世界にあって特異な国で宗教国家である。完全独立しており他国の干渉一切受けない。世の理を護る為、神無国当時の都だった琉拿の名を冠す教えを広めた。今では大陸の生活基盤ともなる琉拿教の総本山でもある。神拿国国王は常に女性で、琉拿教の大司教を兼任する。
この三日月の飾りは王家の人間が使わなければ何の意味もなさないただの宝飾品だが、王家にとっては何物にも変えがたい財宝――この世界の秩序を保つ門の鍵であった。神拿国王家の人間である阿己良は、だからこそこれを手に国を旅立ったのだわけだが、それは誰しもが知っているという事柄ではないはずだった。
ほんの一瞬躊躇して、阿己良は早口に違うと否定した。一気に緊張した阿己良の耳に呆れたような声が響く。
と、深い溜息とともに握った拳に飾りが渡された。
「お前、嘘、下手すぎ」
これが王家のものであることも、阿己良が否定するだろうこともすべてわかってますといわんばかりの口調だ。
「返してくれるのですか?」
「その代わり、頼みがある」
言って、立ち上がると、首を傾げた阿己良を忌々しげに見やった。
「お前、目の毒」
「な――」
衝撃の一言だった。
「そ、それは、命をよこせってことですか?」
「なんだ、その短絡的な考えは。そんなもん貰ってどうすんだよ」
「やっぱり、これがほしいということですか?」
阿己良は手の平に戻ってきた飾りを見下ろす。
この人がいなければこれはあの男達に取られていたのだ。金に変えるようなことを言っていたから後で買い戻すこともできたかもしれないが、今は余計な手間と労力をかける時間はないのだ。そうならなかったのは彼女のおかげだ。
「取り返してくださったのは貴女ですから、これは貴女のものということでもいいです。ただ必要な時に貸して頂けるなら」
「はあ?」
「あ、でも、それって」
眉根を寄せる相手に、阿己良ははたと気付く。それでは一緒に来てもらわなければならなくなる。
阿己良はふと思う。
――これを口実にできないだろうか。
この人と一緒に行きたいと思った。この強い、美しい気配を間近で感じていたい。何故、こんなに惹かれるのかわからないがそれがどうしようもない本音だった。
「あの、突然こんなことを言うなんて……その、驚かれるかもしれないのですが」
会ったばかりの人間にこんなことを告げられるなんて、どう思うだろう。
「もし、よろしかったら、一緒に旅をしては頂けないでしょうか」
「は?」
「差支えがなかったらです。本当に、その、貴女さえよかったら」
勝手に誘うなんて怒られるに違いない。相談もしなかったことは確かに悪いが、この機会を逃したらもう会えないかもしれないのだ。
お願いしますと頭を下げる阿己良の頭上で苦笑する気配があった。
「まあ、そこまで言うなら、一緒に行ってやるよ」
「やっぱり駄目ですよね。そうですよねって――ええええ?」
「なんだよ、そっちが誘ったんだろ。俺はいいって言ったんだ」
「貴女、大丈夫ですか? 見ず知らずの他人ですよ?」
「そういうお前こそなんなんだよ。得体の知れない人間を誘ってんじゃねえか」
阿己良は三日月の飾りを握り締めた。嬉しくて泣きそうで、笑いそうでもあった。
「ほ……ほんとにいいんですか?」
「ああ、まあな」
「ありがとうございます」
喜びのあまり、阿己良は思い切り抱きついていた。
「お、おい」
「あ、ごめんなさい。嬉しくて、つい――」
己の行動が恥ずかしく顔が赤くなるのがわかった。それでも口元が笑ってしまうのは隠せない。両手で頬を押さえて、阿己良は表情を隠す為に顔を伏せた。
「どっちしろ、俺はそんなもんいらねえから。お前が持ってればいい」
阿己良は首を傾げる。これでは無条件で返してもらったに等しいのではないだろうか。
「あの、じゃあ、貴女の頼みって何なのでしょう?」
それはと言い淀むと同時に、彼女の腹の虫がなった。
「……今夜の飯と、寝床を提供してもらいたいってこと、かな」
3
――翌日、一行は砂埃の舞う街道にいた。
晩秋の柔らかな日差しが街道を照らす。乾いた風は冷たくとも歩くにはいい気候だった。すれ違う多くの人々が街へと向かう。収穫祭が行われる為に近隣の人が集まる由四里はますます宿は取り難いに違いない。
阿己良は人生で知り得た四つ目の街を後にしたことになる。自分の国である神拿国から出たことがないのでこれが生まれてはじめての旅である。目にするもの、耳にするもの、全てがはじめてのものばかりだ。
神拿国は大陸から離れた琉拿諸島にある。まず大陸に渡る為には船に乗らねばならない。はじめての船旅で首都の琉拿から渡った居嗚里という港町。そこからひとつ村と町を経由して由四里に到着した。居嗚里も大きいと思ったが由四里はもっと大きかった。
従者である李比杜と二人、神拿国を出てから十日程になる。李比杜は神拿国の王家に仕える近衛近侍の副長で他国の身分で言うならば将軍級に該当する。緊急の出発の為たった二人きりの旅となった。少人数は淋しいが李比杜が何かと気を使ってくれるので不自由はなかった。その分李比杜は大変なのだろうとは思う。本当は我儘を言えるような状況ではないことはわかっているのだが、譲れないものは阿己良にだってあるのだ。
案の定、新しい連れを紹介すると途端に李比杜はただでさえ強面な顔をさらに不機嫌なに顰める。その反応は予想していたことなので別に構わない。ただ、事情も聞かず、頭ごなしに怒るのは納得のいかないことだった。
「こんな得体の知れない人間を帯同させるなど、私は反対です!」
李比杜の言い分は最もである。だからこそきちんと説明しようと思ったのに、いきなり怒鳴られてはそんな気持ちも萎えてしまう。
「李比杜の意見は聞いていません。もう決めたんです。この――あ」
阿己良は赤い瞳を振り返って固まった。
「あ?」
「あ?」
李比杜と少女、二人の声が重なる。そういえばと今更に気付く。名前くらい確認しておくのだった。だが、ここで卑屈になってはいけないと、阿己良は胸を張る。
「お名前は?」
「え――ああ、俺? 羅乎ってんだけど」
「この、羅乎も一緒に行きます」
「ま、まさか、阿己良様。名前も知らなかったのですか」
多分これが余計にいけなかったのだとは思う。目を剥いた李比杜が短く刈り込んだ白髪をかきまぜたかと思うと、説教がはじまった。長々とした口論の後、どうにかこうにか羅乎の同行を認めさせた。それはもう単に身分という力で、である……が。
なだらかな道を歩きながら阿己良は目を上げる。なんだかんだ言いつつ李比杜と羅乎は二人並んでなにやら話ながら歩いている。その後ろを荷物持ちの驢馬と一緒に歩く阿己良は口を尖らせた。
「仲良しじゃない」
そういえば、街を出る前の買い物でも二人はなんだかよく話していた。特に、この時期に内着に銀鼠の着物を着ただけの羅乎が外套を購入しようとしている時など、色々と口出しをしていたような感じもあった。しかも文句を言いながらも羅乎は李比杜の勧めに従っていたのだ。全く……阿己良に聞こえないのをいいことに、何を話しているのやら。
それにしても、と思う。堅物の李比杜がよく羅乎を許容したものだ。いくら阿己良が我儘を言ったところで、本当に駄目だったら断固反対しそうなものだ。
もしかしたら自分と同じように、李比杜も羅乎の気を感じているのかもしれない。
神拿国の人間は気に敏いものが多い。李比杜もそうでないとは言えない。事実、李比杜の妹は王家直属の近衛近侍隊の魔法部の長である。魔法を使うものは他人の気に敏感で使われた術や魔法に残された気配から誰が使用したか知ることができると言われる。優秀な魔術士と同じ血筋なら、本人に自覚はなくとも潜在的に受け継いでいる可能性はある。
王家の人間である阿己良は先天的にそのあたりは優れているものの魔法を使うことは出来なかった。習得にはきちんとした修行が必要で修得の為に寺院の中には専門の養成機関が設けられている。魔法と呼んではいるが基本的には術であり学問でもある。札や魔石を使い規則性に従って発動させるらしいが、講義を受けたことのない阿己良も原理は詳しく知らなかった。無論修得できる術の大小などは生まれ持った才能に左右される。優劣はともかく、修行を積みさえすれば誰にでも使用可能だが、取得には寺院の許可が必要とされていた。
羅乎が使ったのは炎の魔法だった。魔石などを使った様子は一切なく突然発火したように見えた。そんなことが可能なのかどうか、阿己良程度の魔法知識では判別が付かないのだが非常に珍しいということはわかる。
羅乎とは一体、何者なのだろう。気にならないといえば嘘になる。けれどそれを追求することで離れていってしまうかもしれないと思うと深く問うことは躊躇われる。
「阿己良様?」
「は、はい?」
「大丈夫ですか? なんだかお疲れのようですが、少し休みましょうか」
気が付けば二人から随分と遅れをとっていたようだ。その証拠に引き返した李比杜は別として、羅乎は随分先に立って腕組みをしている。
阿己良はひとつ息をついた。身体はそれほど疲れたわけではなかったが、近くに町の隔壁も見える。小さな川のせせらぎも心地よい。休むには丁度いい場所のように思えた。
そうですね、と頷いて李比杜を見上げる。
「お昼にしましょうか。せっかくですので、近くに町があるみたいですから、そこで食事をとりましょう」
「なんなら、こちらにお持ちしましょうか。風も気持ちがよいですし。買ってまいります」
「あ、私が行きます」
何を言うかと李比杜が目を丸くする。
「阿己良様にそのようなことはさせられません。羅乎とその辺りでお待ちください」
「ごめんなさい、我儘言っています」
「いいのですよ。羅乎の一件に比べればほんの些細なものです」
ちくりと言って李比杜が笑った。
李比杜が背を向けて羅乎へと歩み寄る。何事かを説明し、阿己良を示す。それに羅乎が頷くと阿己良に向かって手招きをした。
「李比杜って何考えてんだろうな」
羅乎がそんなことを呟いた。問うような視線を向けると首を振る。あっさり羅乎を受け容れたことに関して、もしかしたら羅乎自身も疑問なのかもしれない。
手を浸すと水はとても冷たい。春になれば周囲に花でも咲くのだろうか。今は緑がそよいでいるだけなのが少し淋しい。山に近いせいなのか石の多い川底は澄んで綺麗だったが、魚が泳いでいる様子はない。それは阿己良が水を荒らしている為かもしれないが。
指先が痛くなってくる頃、阿己良は川から手を出した。自分の頬に当てると背中が縮むような冷たさがある。それに少し笑って、もう一度手を水につける。
「俺ってえらいよな」
胡坐をかき、そこに頬杖をついて葉っぱを振り回している羅乎が再び呟く。
「何がです?」
問い返すと同時に羅乎の頬に手を当てた。途端に、羅乎が目を瞬く。念入りに冷やしたのだからそれはそれは冷たいに違いない。
「な――なにすんだよ」
「すごい冷たいんです」
両手を広げて笑って見せると、それを見た羅乎は眉根を寄せた。すぐに阿己良の両手を手袋をした手で包み込む。
「お前は馬鹿か」
じんわりと伝わる温かさが心地よい反面、血の通いはじめた指に少し痒みがあった。
「こんなになるまで何やってんだよ。ったく、いたずらに命かけてんのか?」
確かに自分でもやりすぎかなとは思った。指先は感覚がなかったし、青白いを通り越して赤紫になっていたような気もする。
「いたずらのつもりはなかったんですけど」
もちろん命をかけているつもりもない。
「川ってこんなに冷たいんですね、知らなかった」
水辺特有の冷たい風が過ぎた。今更になって冷やした手が余計に寒さを感じさせる。首を竦めてやり過ごすと、ぎゅっと手が握られる。隙間が開かないように気を使ってくれたようだった。
「わ――僕、神拿国から出たことがなくて」
羅乎が目を上げた。風で脱げてしまった外套の帽子を優しく戻してくれる。手が離れたのがなんとなく淋しい気もしたが、そのまま膝を抱えた。
「神拿国は常春なので。多少の寒さ暑さはありますけど、霜が降りることもないし、雪も降らないから」
言葉は知っている。けれどそれは文字の上、人づてに聞く話だけ。本当の季節は知らない。花は常にあるもの。それが失われる季節を知らない。だから人々の、生き物の春を待つ心は本当の意味ではわからない。
じゃあ、と羅乎が笑う。
「いつか雪の国に連れてってやるよ」
阿己良は目を瞠った。
「本当ですか?」
「ああ、約束する」
羅乎としてはなんてことのない言葉なのだろう。この旅が無事に終わり、目的が果たされれば阿己良は国に帰らなければならない。そして戻ったら再び他国の地を踏む事はできない。神拿国王家の人間がその特殊な力を継承させる為に課せられている決まりごとだ。
それでも嬉しかった。友のいない阿己良にとって、旅が終わっても自分とつながりを持とうと思ってくれていることを感じさせる、その言葉が嬉しかった。
噛締めるようにその言葉を反芻していると、草を踏み分ける足音が近づいてきた。振り返れば李比杜で、慌ててやってくるその手には荷物も食料もない。
「阿己良様」
阿己良が立ち上がる。羅乎は見上げたのみだった。
「この町で休んでいきます。出発は明日、早朝」
「何かあったのか?」
問うたのは羅乎だった。
「この先、麓の町は死んでるらしい」
そんなと息を呑んだ阿己良はそれ以上言葉を続けることができなかった。
ここまで特に異常を感じることは少なかった。漂う忌々しい気配は若干あるものの、それでも人間の持つ陽気が勝っているように思えていたのだ。
町がひとつ死ぬ――それは、ある程度予想していたこととは言え、現実として耳にするとさすがに衝撃だった。
左手で八の字に空を切ると両手を握る。琉拿教の祈りの作法だった。
失われてしまった命は戻らない。せめて安らかに眠れることを祈るのみだがそうではないだろうことはわかってもいる。悪気に取り付かれた魂、また悪気によってその営みを絶たれた命は、死してもなお苦しむのだと聞いている。
一度は寝台に入ったものの、なかなか寝付くことが出来ず、こっそり宿の裏手に出てきた。宿は三人同室だ。あまりごそごそと動いて起こしてしまうのも申し訳ない。
乾いた空気は冷たかった。外套を持たずに出た阿己良は肌を刺す風に腕を擦り、着物の合わせ目を、まるで襟を立てるように掻き合わせる。不揃いな白金色の髪が煽られ、項や頬で揺れると余計に寒さを感じた。
「……」
三日月の飾りを手に阿己良は空を見る。暗い闇色の中には星はなく、柔らかな黄色い輝きだけが浮かんでいる。月は神拿国の守護星であり、琉拿王家の始祖とされる拿夜竹は月の神と言われる。ぼんやりと淡い月を見上げ、深い溜息をついた。
悪気と呼ばれる。この世に蟠る陽と反する気配のことをそう呼ぶ。その悪気が突然活発になり、そこここで牙を剥くようになってきていた。
悪気は人や生き物に憑く。憑かれた者は驚異的な膂力を持ち、他の生物を殲滅しようとする。動くもの全てに襲いかかり、果ては己までをもその破壊の対象としてしまう。言ってみれば死の狂気。そうして失われた命を糧に、成長した悪気は再び獲物を探す。
悪気自体は常にある。人が持つ恨みつらみといったものは悪気に属することになるから、世の中に存在していてなんら不思議ではない。だがそれを餌に肥えていく狂気があった。人が生まれることによって発生したといわれるその狂気を、この世界の闇へと封じていくものがある。それが大陸上で東西南北に配された四つの門「四門」で、三日月の飾りはそれら門の鍵であった。四つの門はそれぞれ「東幽門」「西幽門」「南幽門」「北幽門」と呼ばれ、守護する聖獣が狂気を誘導して封じ込める。本来ならば地上にある悪気はそう極端に増すことはなく、調和が取れているはずのものだった。
ところが、このところその調和が乱れ始めていた。
まず阿己良の母が倒れた。そして頼りの姉も行方がわからないという状況が発生した。神拿国に届けられる悪気への対策要請の急増、明らかに異常事態であった。これほどの状況はかつてないことであり、明らかに悪気が地上に漏れ出していると思われた。抑えているはずの四門が開放された恐れがあった。
たった一人残された王族である阿己良はまず根源となる四門をきちんと封鎖することを請負った。こればかりは王家の人間にしか行えない。今、旅に出るのは危険だと反対する意見がある中、李比杜と二人、混乱する王宮を出たのだった。
想像していたよりも街や人々は平穏なように見えた。今はまだ大陸の東よりだ。対策要請が多いのは北側なので、ただ単にこの辺りが比較的ましであっただけなのかもしれず、予断を許さない状況に変わりはない。
「阿己良」
不意に名前を呼ばれ振り返る。そこには腕組みをした羅乎が立っていた。
「そんな薄着でなにやってんだ。風邪ひくぞ」
どこかに出掛けていたのか、しっかりと外套を羽織っている。阿己良が部屋を出たときには確かに寝台にいたと思ったのだが。
「……眠れなくて」
まあな、と言いながら羅乎は自分の外套を脱ぐと、阿己良の肩に無造作にかける。
「あの、僕」
着てろと羅乎が顎をしゃくる。ありがたいことだが、それでは羅乎が寒いに違いない。やはり受け取れないと返そうとするのに対し、羅乎は首を振って、口を開いた。
「仕方ないけどな、俺も驚いたし。けどさ、お前が倒れたら意味ねえだろ」
羅乎の体温が残る外套はふんわりと暖かい。
どこに行っていたのか尋ねようかと思い――やめた。気になることなら他にも沢山ある。どこから来たのかとか、炎の魔法のこととか、どうして一緒に来てくれたのかとか……。
けれど、どれを尋ねても答えてはもらえないような気がした。
「あの、どうして『俺』って言うんですか? 女性なのに」
これは純粋な疑問だった。綺麗な容姿の女の子なのに、なぜ「俺」と言うのだろう。性格的には相応しいような感じはするのだが、如何せん、不思議でならない。
「別に。『私』とか柄じゃねえし」
「そうでしょうか」
羅乎の目が阿己良を見やった。
「そういうお前も、時々『私』って言いかけて『僕』って言うじゃねえか。変だぞ」
ああ、と阿己良は目を逸らす。
阿己良は「僕」という主語で過ごしてきた。これは神拿国王家に生まれる第二子以降の決まり事だが、姉がそれを厭うて「私」を使うように努力をはじめたのだ。ようやく定着してきたところで、この事態である。また、逆の努力をする羽目になっていた。
第二子は公には「私」という主語を使うようには指導される。そして王宮内では「僕」を使わされる。阿己良に限ったことではなく王位継承に絡む神拿国の事情による決まりだ。
神拿国王家である琉拿一族の王位継承は長女のみにある。万が一長女に何かがあったときに次女に継承されることになるが、長女以外は重要視されない背景があった。男子には継承権はなく、神拿国の王たる能力は引き継がれることがない。それ故男児なら特に問題はないので婚姻を行うこともある。それに引き替え女児の場合には力を有していることから、他家へ降嫁など認められるものではなかった。しかし、それでは女児ばかりが王宮に封じ込められているように見られてしまう。そこで対外的に長女以外の御子は全て男児だとして公表されるようになった。別に男として育てられるということではない。もし男として育てた場合、いざ長女に何かがあった際、表に出るのに差し支える。ただ公には皇子として扱われる決まりがあり、正確な性別は近侍の者以外知らされないことになっていた。その例に漏れず、阿己良は男として公表されていた。
しかし、阿己良は女であった。自身、女子の自覚は無論ある。
――が、それを覆される状況にあるのも事実だった。
元々は女だった。男と公表されてはいるが、間違いなく女児である……のだが、現在、身体は男になっていたのだ。
女だからと説明するにしても、現在、男になってしまっている。だからといって男であるはずもなく、阿己良自身どう説明すればいいのかわからない。
逡巡していると、羅乎の声がした。
「まあ、いいじゃねえか。自分を指してるんだってわかればいいんだから。なんだったら『儂』とか言ってやろうか?」
「それはちょっと」
羅乎が笑う。つられて阿己良も笑った。
「辛気臭い顔はなくなったな。じゃ、寝るとしますか。明日も朝はええからな」
行くぞ、と羅乎の手が阿己良の背を叩いた。
「羅乎」
「ん?」
羅乎が振り返る。その姿があまりに綺麗で、阿己良は思わず言葉を詰まらせた。
「あの――明日も、よろしくお願いします」
そんなことを言ってしまってから、急に恥ずかしくなった。どうしようもなくて、阿己良は必要以上に深く頭を下げるのだった。