終章
終章
阿己良は露台でぼんやりと太陽を見上げていた。
春の浅い風はまだ少し冷たさを残しているが温かくなってきた日差しは心地よい。僅かな風に揺れる不揃いなままの髪を軽く束ねながら、阿己良は小さく息をつく。
あれから二年の月日が流れていた。
美蝕が消えた後、悪気は急速に鎮静化していった。代替わりをして新たな美蝕の力が強くなった為か、悪気に犯されつつあった者たちをも正気を取り戻したという報告もあり、それは劇的な変化である。一度悪気に染まれば正気を取り戻すことはないというのがこれまでの常識であったのだから、まさに奇跡と言える状況だった。
後の調査によれば悪気を取り込めなくなっていた四門にかわり、風霞という新たな媒体を得て復活した月幽門が一気に吸い込んだことによるのだとわかった。月幽門の存在の大きさを知らされた事実であるがそれだけ強力な力を永年維持することは困難だろうことは考えずとも明白だ。故に四門が創られた。元々月幽門を補佐する目的で四門は創られたのだ。月幽門は四門に役目を譲渡し、封印だけに特化することになるわけだが……。
美蝕を使って月幽門を封じたという事実は、一見すると美蝕を生贄にしたようにも見える。だが、見ようによっては先人たちは少しでも美蝕の負担の軽減を考えたのではないだろうかとも思えた。美蝕に頼らざるを得ない。それはどうしようもない。どうしようもないけれど四門に役割を移すことで月幽門も美蝕も少しでも苦しくないように、と。
神拿国の史書において美蝕という名前は殆ど登場することはない。婁支雄に尋ねたところでは相当に古い、最古の王族史書に僅かに出てくるのみなのだと言うことだった。神拿国が美蝕の存在を伏せたのではなく、意図的に書かなかったように見えると婁支雄が話していた。
「琉流夜様の名前は度々お見かけします。恐らくは彼女を慮り、美蝕についてはあえて曖昧に残すのみにしたのではないかと」
――切り捨てること、やむなし。
それは誰もが受け入れたことだった。だが、だからといってそこに苦しみがなかったとは言えない。捨てられる側は勿論、捨てる側にも痛みがあったのだ。だから四門設立に先人たちの気持ちが見えるように感じるのだ。だからこそ美蝕もまた、恨みを口にすることもなく逝ったのではないだろうか。
もしかしたらと阿己良は思う。
捨てられる側よりも捨てる側の方が痛みは大きいのかもしれない。
できればそうあってほしい。風霞のように捨てられたことを恨みでしか消化できない者だっている。捨てた側の痛みが大きい分、その恨みを思いやる気持ちが生まれるような気がするから。
……とはいえ、状況こそ違えど、そういう自分も風霞と同じ捨てられた側だから、そう思うのかもしれない。
再び訪れた平和な日々は阿己良にとっての再びの苦痛の毎日だ。
調和を願い、祈りを奉げ、説法を聞き、歴史を学び、写経をする。ただそれだけの日々。そして女児だと公に知れた今、阿己良に対する司教会の対応は明らかに変わった。外の世界を知ってしまったせいかもしれない。締め付けは強くなり、自由はさらに奪われ、今や阿己良の行動は王宮の一部と限定されていた。近侍と司教たち以外の人間との接触も許されない。母、姉には司教の許可がなければ顔を合せることもできないと言う軟禁状態だった。
それでも以前ならばここまで苦痛を感じなかったのかもしれない。だが旅を経験した今では籠の中だけの不自然な自由はかなりの苦行でしかなかった。無論、月幽門や風霞がどうなったのかを知る術はない――ない、はずだった。
「月薙という役職ができます」
そう話してくれたのはやはり婁支雄だった。
高天原から使者が訪れ、正式に神拿国に対し詫びと礼が述べられたのだと言う。そしてこのたびのことを踏まえ、今後どのようにしていくかが合同で話し合われ、取り決められたのだと言う。
月幽門には琉拿の媒体が必要という事実は動かせない。だが、美蝕のように完全に切り捨てるのではなく、神拿国女王のようにきちんとした役割とすることが決定された。それが「月薙」。月薙とは拿夜竹と同じように美蝕のかつてのあだ名なのだという。また太陽の神殿の管理の為に天から派遣される人物が常駐する。その任には天照に次ぐ須佐之男の一族から排出するとなった。無論、月薙の初代は風霞が務める運びとなっている。
自身のことも、美蝕のことも多くを語らなかった風霞だが、美蝕について「恩人」なのだと口にした。母の亡き後、屈辱に耐えきれず飛び出すも世間はそう甘くはない。世間知らずの娘が一人生きていくのに手段はそう多くはなく、身を売る風霞を手元に引き取ったのが美蝕だったとだけ話した。その時の風霞は淋しそうだがほんの少しだけ幸せそうにも見えた。それだけでも互いがどれだけ孤独だったのかがわかる気がする。
風霞にはきちんと側に仕える者が用意される予定だ。悪気の耐性の都合上、交代制になるが、美蝕のように孤立することはもうない。
……本来、これらのことは阿己良には明かされることはないはずだった。どれだけ貢献しようと第二皇女である以上、阿己良は存在しないものとなる。ところが許可を得ず面会を許される王宮長はあっさりとそんな決まり事を無視した。
「私が独り言を言う分には問題ないでしょう。地獄耳の阿己良様が、たまたまそれを耳になさっただけです」
婁支雄はそんなことを言っていた。実に婁支雄らしい屁理屈だが、そもそも他人に会うことのできない阿己良である。機密が漏れる心配などはなからないのだ。
「……」
真っ青な空に浮かぶ輝きに目を細めながら、阿己良は溜息をつく。手にしたまま読み進むことのない本を閉じて膝に乗せた。
神拿国は常春である。が、そうは言っても多少の気温差はある。いわゆる四季と呼べる程ではないが世界の季節に合わせ、僅かながらも寒暖が生まれる。阿己良は少し涼しいくらいの方が好みだった。何故なら熱気という雑味が無い分、空が綺麗に見える気がする。
悪気を滅しようと旅をして以来、阿己良はよく空を見るようになった。月とは違い、たった一人で世界を照らしてしまえる力強い温かさ。それはそのまま、すぐ側にあった温もりを連想させる。
――迎えに来る。
そう言い残した言葉を疑うわけではない。信じる信じないで言うならば今でも信じている。ただ彼の立場がそれを許さないだろうことはなんとなくわかっていた。
天であり、神という立場において高天原を統べるのは天照の長女になるのだが、実際の高天原の王は天照一族の長になるのだそうだ。羅乎の名前の一部である「火乃鎖羅」は天照一族の長男が受け継ぐ称号であり、次期王の意味合いを持つのだと婁支雄から教えられた。美蝕を粛清した時、羅乎は「天の王」と自らを呼んでいる。ただでさえ雲の上の存在であるのに、その頂点ともなれば、地上にいたということすら信じられない話だ。まして共に行動し、心を通わせたことなど夢どころの話ではない。
だから羅乎を責めるつもりはなかった。裏切られたとも思わない。
本当なら外に出ることもできなかった自分。友など得られるはずもなく、恋なんてものは物語の中の出来事で、自身が抱くことのできるものではなかったはずだ。そんな人並みの心の機微を教えてくれた。だからこそ今の生活が苦痛であるのも事実だが、それでもあの旅の中で味わった幸せがあれば耐えられるように思える――無論、本音は違うが。
阿己良は本を開いた。随分前に読むのを断念した創世神話の本だ。やたらと表現が難しかったので嫌煙していたのだが、これが一番史実に近いのではないかと婁支雄が言っていたのを思い出し引っ張り出してきたものだった。
いわゆる、古文だ。完全にそこまでではないが最近の文章とは明らかに異なる。辞書が必要だと時々思う。
「――?」
小難しい表現に眉を寄せた阿己良は誰かに名前を呼ばれたような気がして顔を上げた。が、辺りを見回すも誰かがいるはずもない。部屋を見るも扉が開く気配すらない。
「気のせいか」
そもそも阿己良のいるのは王宮の最奥である。人目に触れない場所に押し込められており誰かが入ってくるような場所ではないのだ。それこそ空でも飛ばない限り――。
「阿己良――!」
阿己良は弾かれたように顔をあげた。思わず立ち上がった足元に分厚い本が落ちる。
「……」
声は空から。
「阿己良」
見上げた阿己良は目を瞠った。炎を纏う鳥が太陽へと遠ざかる。その背から飛び降りたのは、今では夢の中でしか会うことのできなかった存在だった。
――そんな、まさか。
まさかという言葉が頭の中を駆け巡る。信じられないという思いが心を鎧わせて、目の前の出来事をあり得ないことだと認識しようとしている。
旅に出ていた時とは異なり、簡素だがきちんと整った身なりをしていた。それでも見間違えるはずのない姿だった。
「阿己良!」
呼ばう声に答えることができなかった。露台に着地し、少しよろめくがの見えても助けに行くこともできなかった。ただ立ち尽くして、ただ呆然とその姿を見つめるしかできなかった。
「阿己良、会いたかった」
力強い腕に抱かれても阿己良には何が起きているのか掴みきれなかった。香の中に懐かしい匂いを感じても阿己良はまだ信じることができずにいた。
「……羅乎?」
「うん」
掠れて声にすらならないくらいの阿己良の呟きに羅乎が頷いた。
「ほんとに、羅乎?」
そうだという声すらが幻のようだ。
「これも……夢?」
ようやく出た言葉はそんなものだった。
つねって痛かったら本当だというのは嘘だと知っている。事実、つねって痛かったのに夢だったなんてことはもう何度と知れずあったのだ。
「夢だろうが現実だろうが、ようは醒めなきゃどっちでもいいだろ」
大雑把な答えだと思った。予想外な回答だがそれはその通りだ。だが、それを言った本人が否定する。
「冗談。夢じゃねえよ」
「……」
「待たせて、ごめん」
阿己良は首を振る。目頭が熱くなり、堪えきれなくなった想いが涙となって溢れる。だが、阿己良は笑顔で見上げた。零れる涙もそのままに阿己良は精一杯の笑顔を浮かべた。
「お帰りなさい、羅乎」
――もしも。
もしも羅乎ともう一度会うことができたなら、その時には最高の笑顔で迎えると決めていた。だから阿己良は笑った。多分、泣き笑いの変な顔になっていると思う。
「迎えに来たから」
静かに羅乎が告げる。
「俺と一緒に行こう」
「一緒に?」
いつかと同じ言葉。それに羅乎が頷く。しっかりと頷いて返された笑顔はやはり綺麗で、太陽のように力強い。
じわじわと言葉の意味が胸に沁みていく。
「すげえ待たせたけど」
羅乎が言う。
「一緒に、来てくれるよな?」
本当に迎えに来てくれたのだ。阿己良をここから連れ出すという、その約束の通りに。
「――はい」
「よかった」
羅乎が大量の呼気とともに零す。
「嫌だとか言われたら、正直、どうしようかと思った」
ここまでの苦労が水の泡になるところだったと笑う。
「苦労って、なんですか?」
「それはまたおいおい話してやるよ」
そんなことより、と羅乎が改めてと言わんばかりに阿己良を抱きしめた。
「二年、お預けだったからな」
「え?」
「とりあえず、補給しねえと」
「え――あ、ち、ちょっと」
「大丈夫。李比杜は来ねえよ」
「そ、そういう問題では」
無駄と知りつつとりあえず抗ってみる。じゃれあいのような応酬の後、互いの目を覗きこむように額を寄せあうと阿己良は目を閉じた。
春の太陽が、そんな二人の頭上で優しく輝いていた。




