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第三話




 ――油断していた。


 今日はカワ姉が音楽教室へ仕事にいく日で、正午過ぎに愛用のウクレレを担いで出かけていった。

 その背中を手を振って見送る俺の心境は、とても穏やかなものだった。なぜか? それというのも、仕事へ向かうカワ姉の荷物はウクレレと、後は財布とスマホを入れたポシェットだけ。つまりいつも出先でゴミを持ち帰るためのリュックは置いていくのだ。

 なので少なくともカワ姉が音楽教室にいく際は、例のゴミ収集という病気に心悩まされることはない……

 ……と、先日までは思っていたのだが。

 結論を言えば、その認識が甘かった。

「……た、ただいま」

「おう、おかえ――」

 帰宅してきたカワ姉を出迎えようと部屋から顔を出し、そこで俺は間抜けに顎を全開して固まった。

 ――膨らんでいる。カワ姉の腹が。

 ごく一般的な体型をしているはずの姉の、腹部だけが丸く、不自然に出っ張っている。もちろん急激に肉づきがよくなったのではなく、服の内側になにか隠していることは明白だった。

 思わず目を瞠ってしまう。まさか隠し通せると思っているのか。仮にそうであれば、幼稚園児からやり直せと言いたくなるほど人生経験が足りていない。

 しかも、妙なのはそれだけではなかった。

「や、やーどうもどうも! 外の寒さは身体にこたえるね! まったくサムはフユいなあ……って、それを言うならアツはナツいでしょうが!」

 眼差しは四方八方に泳いでいるし、口調……というかしゃべっている内容も端から端までおかしい。嘘が下手くそな人間が、必死に誤魔化すような態度。

 これまでのカワ姉は、どんなに邪魔なゴミを持ち帰ってきても一切反省せず、悪びれすらしなかったのに。いや、それはそれで大問題だが。

 とにかく、俺はそんな猿芝居に乗っかるほど気長ではない。指先で眉間を揉みながら、今にも破裂しそうな腹を指で示す。

「……そこになにを入れている」

「えっ! な、なんのことかなシオ、言ってる意味がわからないよ」

「しらばっくれるな! 一体なにを隠し――」

「ワタシニホンゴワカリマセン! ワタシニホンゴワカリマセン!」

 駄目だ、ヤケクソの馬鹿を相手にしていては埒が明かない。あくまで白を切るつもりならば、物的証拠を出すしかないのだ。

「えぇい観念しろ!」

 俺は強引にシャツの裾を掴んで、勢いよく引っ張り上げる。するとカワ姉も応戦して逆方向に力を込めた。腕力ならば姉よりは自信があったのだが、火事場の馬鹿力か、拮抗して裾は微塵も動かない。

「中に赤ちゃんがいるのよ! 乱暴しないで!」

「冗談でもやめてくれ!」

 ……いや、力以外の部分で翻弄されているからかもしれない。

 しかしもう引き下がれないと意固地になった俺は、体勢はそのままに怒鳴り声を上げる。

「いい加減にしろ! なんでそんなに抵抗するんだ!」

「そっちこそ、あたしを脱がせてどうするつもりよ!?」

「変な言い方をするな! いいから隠しているものを出せ!」

「いぃーやぁーでぇーすぅー」

「変顔するな腹立つ! 子どもみたいな真似は――」

「ワンワンワンワン!」

 瞬間、不意を打つようにカワ姉が吠えた。いや、正確にはカワ姉“の腹”が。

「ちょっと! 静かにしててって言ったのに――あ」

 狼狽えて自らの腹部を押さえ――失言に気づいたカワ姉が、恐る恐ると俺を見上げる。

 しばし蛇に睨まれた蛙のように硬直し、

「こ、これがホントの腹話術! ……なんちゃって」

 今度は空気を凍りつかせた。

 その直後、舌を出すカワ姉の足下になにかがボトリと落ちる。

 反射的にふたり見下ろすと、そこにあったのは左右に揺れる尻尾、小さな全身を覆う体毛は白黒まだら、つぶらで潤んだ瞳、とどのつまりは――

「い、犬!?」

 仰天して思わず叫び、俺は慌てて自分の口元を押さえた。

 声量を下げ、しかし眼差しに詰責の念をうんと込めてカワ姉を睥睨する。

「なに考えてるんだよ、ここペット禁止なんだぞ……!」

「だ、だってぇ……」

 俺から視線を逸らし、珍しく弱々しい声音を出すカワ姉。だが、それで勘弁してやるほど俺は甘くない。むしろ振り回されてばかりいる姉に対して強気に出られて、ちょっと気持ちいい。

 知らずと嗜虐的な笑みを口角に浮かばせてしまう俺の足下から、その子犬が僅かずつ後退していった。動物も不穏当な気配を感じ取れるものらしい。

 その様子をしばし眺めて、ふと思いついたようにカワ姉が向き直って口を開いた。

「実はね……これ犬じゃなくてカイロなんだよ。だから服の中に入れててね」

「通るかそんな理屈! 速やかに逃がしてきなさい」

「うぅ……ゴミ捨て場で拾ったの! いつもどおり! だから家に持ってきたの!」

「動物とゴミの区別くらいつけろや!」

「この犬の名前、ちん子にしようと思うんだけど、どう?」

「だから人の話を――いや待てそれは考え直せ!」

 唐突に投げ込まれた下ネタというキラーパスに思わず仰け反る。

「うふふ、シオってば対応力ないよー」

 挑発的な態度で微笑むカワ姉。こいつ本当に状況を理解しているのか……?

 ちん子(暫定)は口論を繰り広げる俺たちの間を、所在なさげにぐるぐると回っていた。

「い、今は真面目な話をしてるんだよ! なんにせよウチでは絶対に飼えないぞ。わかったら――」

 と、そこで言葉を打ち切る。まだカワ姉が半笑いで生温かい視線を向けていたのだ。

 俺は負けじと両目を鋭く細めて睨み返す。

「……なにか言いたいことでもあるのか?」

「うぅん、えっとね……」

 軽口や冗談など意にも介さないぞ、という意志を眼光に込めると、さすがに彼女も気まずく感じたか、指先で頬を掻きながらぽつりと呟く。

「お腹撫でながら言っても説得力ないかなー、なんて」

「はっ!」

 その言葉に、俺の右手が弾かれるように持ち上がった。その下では、無防備に仰向けになったちん子が寝そべっている。

「……あ。いや、これはなんというか……」

 咳払いでなんとか誤魔化そうとするが、耳朶まで紅潮した顔はなかなか戻らない。カワ姉の不遜なニヤケ面にも、今度はなにも言葉を返せなかった。

 俺だって動物……特に犬は好きなのだ。そういう一面を茶化すのは卑怯者のやり口だろう。絶対に許されることではない。くっそ、恥ずかし。

 どうせ変な方向に話題を転換して犬のことをうやむやにしようという魂胆なのだろうが、今回ばかりは見逃せない。その影響で、俺やカワ姉に被害が及ぶ場合だってあるんだ。たとえば、そう……

「あのさ、大家さんにこれが知られたら、アパートを追い出されるかもしれないんだぞ。こいつが捨て犬だったらそりゃ可哀そうだけど、俺たちにだって生活があるんだぜ? なあ、わかってくれよ」

 それは想定外の指摘だったのか、カワ姉も顔を深刻な面持ちに塗り替え、そのまま押し黙ってしまう。

 脳内ではきっと理性と情で葛藤しているのだろう。その片方を後押しするように俺は訴えかける。

「ここに住めなくなったら、どっちにしろ犬の世話なんて無理なんだ。残念だけど、この犬とはお別れしよう」

「――やっぱり、イヤ」

 けれど、カワ姉が選んだのは初志の貫徹だった。先刻までとはまるで異なる、真摯な瞳で真正面から俺と向かい合う。

 反目し合うこと十数秒、

「……仕方ねえな」

 こうなると、もう嘆息するしかなかった。意外と堪え性がないのは俺の方みたいだ。それか、俺が元より生涯カワ姉に敵わない星の下に生まれたのか。

 不思議そうに首を傾げるカワ姉の頭を小突く。まだまだ止まらない溜息をどうにか呑み下し、照れ隠しにちょっと親指を立ててみた。

「大家さんには“今夜だけ”お願いしてみる。その代わり、明日一緒に飼い主探しにいくぞ」

 瞬間、ぱあっと彼女の容貌が華やいだ。感動のあまりか俺の手を固く握り締めて上目遣いに。

「さすが、話がわかる! やっぱりあたしの教育方針は間違ってなかったのね!」

「誰がどいつに教育されたって!?」

 すぐさま調子に乗り出すカワ姉を、俺は拳骨で黙らせた。そのやり取りになにを察したか、ちん子が俺の足下で忠犬のごとく姿勢を正した。

 その耳元を軽く撫でてやり、苦笑する。

 ――どうやら明日は朝から忙しくなりそうだ。




 存外、翌日の展開はあっさりとしたものだった。

 犬の飼い主だったらアテがあるとカワ姉に連れられ、俺たちは自宅から少し離れた商店街に足を運んだ。

 そこでも紆余曲折(主にカワ姉のゴミ捨て場突撃)があり、辿り着いたのは一軒の小ぢんまりとした文房具屋だった。

 店に入ると、そこで出迎えたのは犬、犬、犬。数は二十匹近く、種類も様々な犬の群れだった。続いて奥からは骨ばった体躯のおじいさんが杖をついて姿を見せる。カワ姉はその老人と親しげに挨拶を交わしていた。

 なんでも彼はこの文房具屋を経営しながら、野良犬や捨て犬を拾っては世話をして暮らしているという。カワ姉はここの常連で、だいぶ以前からの仲らしい。もしや姉が持っている三十色入りの巨大ロケット鉛筆(使いづらそう)やカブト虫の形の消しゴム(使いづらそう)はこの店の商品か。

 ともあれ、ちん子をその老人に引き渡してこの騒動は一件落着だ。昨日の時点でそうしておけ、と内心でぼやいたが、今さら野暮なので口には出さない。

「ばいばい、ちん子」

 そうして老人と並んで店内の奥へと消えていく白黒の背中を見つめ、カワ姉がぼそりと呟いた。隣に立つ俺でないと聞き逃してしまう程度の声。

 横目にその容貌を窺うと、なんと涙目になっている。たった一晩でそこまで感情移入するなんて馬鹿げてる。……そう笑い飛ばしてやろうと思ったが、悔しいことに俺も目頭が熱くなった。

 鼻を啜りながら立ち竦むカワ姉の、その泣き顔を眺めていると、どうにもむず痒い気分になって――半分無意識で、俺は彼女の頭に手を置いていた。

「え……」

 仰天してこっちに顔を向けるカワ姉と視線が交錯する。

 普段なら照れくさくて顔を背けただろうが、今は不思議と目を逸らさず、ごく自然に口を開けた。

「さ、いこうぜ。今日は特別にゴミ拾いも許してやる」

 そうだ。寂しかったら、虚しかったら、姉弟ふたりで馬鹿騒ぎして忘れてしまえばいい。勝手に独りで悲嘆に暮れて、浸っている必要なんてないんだ。

 俺の誘いに、しかしカワ姉は俯いて両肩を小刻みに震わせた。――まさかマジ泣きしているんじゃないだろうな……

 心配になった俺はその表情を覗き込もうと屈んで――

「えい!」

 唐突に抱きつかれた。

「う、うわっと!」

 バランスを崩し、尻餅をつきそうになる。なんとか両足を踏ん張って堪える俺の首にぶら下がり、カワ姉は全体重を預けてきた。

「おい馬鹿、重……っ」

「それでこそあたしの自慢の弟! うふふ、格好いいこと言うじゃない」

「離せよいいからぁ!」

 嘆き混じりの抗議を一切無視して、なぜか急にご機嫌になったカワ姉が右手を振り上げた。無駄に暴れるせいで、余計に俺の負担が重くなる。

「よーし! じゃあ、このままゴミ捨て場巡りに出発だ!」

「ふざけんなああああああ!」

 あらん限りの絶叫を近隣一帯に反響させる。……が、いくら振りほどこうともがいても、一向に降りる気配がない。子泣き爺か、こいつは。

 しかも、店を出ればここは往来のど真ん中だ。貴様に羞恥心はないのかと悪態を吐きたくもなるが、あったならばゴミ漁りなんて趣味は持っていないだろう。

 諦めた俺は舌打ちと溜息を一回ずつ、カワ姉を抱き上げたままでよたよたと歩き始めた。

 通りを行き交う人々に笑われながら。恥ずかしさで顔を真っ赤に染めながら。

 新しいゴミを探しに。








 これにて〈ゴミシュミ〉は完結となります!

 いつかまたこの姉弟のお話は書きたいなと考えていますので、よろしければその日まで記憶の隅っこにでも置いていてください。本当に、いつになるかは未定ですが……

 それでは、短い連載でしたが、読んでいただきありがとうございました!


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