第二話
「ぐうう、疲れたぁ……」
アルバイト先の薬局からの帰路、住んでいるアパートの門前で俺は凝り固まった身体をほぐすように伸びをした。
家々の間隙から覗く昇りかけの朝陽に目を細める。
――これでもう、五日連続で深夜出勤になるだろうか。職場の裏で仮眠こそ取れるが、そこでも延々と終わらない激務の夢を見る。たかがバイトで仕事中毒なんて笑えない話だ。
「ただいま」
玄関の鍵を開け、倒れ込むようにして中へ。こういうとき、同居している姉が無性に羨ましく感じてしまう。
彼女は近所の音楽教室の手伝いをしていて、週三日、昼間の数時間程度で楽しく金を稼いでいる。それも、月給に換算すれば俺とほぼ同額を。
これが出来のいい姉ならば諦めもつくが、現実はあまりにも非情で、異常だ。
なにせ――
「おかえりなさい。ご飯にする? お風呂にする? それとも……紙粘土?」
ちょうど奥の扉から顔を出した我が実姉、土橋河子は“ド”がつくほどの変人なのである。
「……言ってる意味がわからない」
ありがちな新妻みたいな台詞を吐かれ、思わず眉根を寄せる。そもそもこの部屋に風呂なんてないが……そんなことより、
「紙粘土って、なに?」
「えーとね、細かく裁断された紙に糊などを加えて粘土状にし――」
「Wikipediaの丸読みやめろ! そういうことじゃねえ!」
カワ姉のわざとらしい説明口調を一蹴し、狭い廊下を俺は早足で抜けた。
そして胡坐をかいたカワ姉と、彼女の正面に子どもの背丈ほども積まれたモノを確認し――その瞬間、すべてを理解する。
「なるほど……今日はそれか」
個包装された白一色の紙粘土が、そこにズシリと鎮座していた。
一応説明しておくと、カワ姉には各地のゴミ捨て場を漁ってはなにかを持ち帰ってくるという悪癖があった。
大方これも、ホームセンターかどこかで廃棄処分されるはずだったものを、瞳を輝かせながら自前のリュックいっぱいに詰め込んだのだろう。血縁として恥ずかしい限りだ。
「うふふ、また拾ってきちゃった」
「勘弁してくれ……」
ちっとも悪びれないカワ姉の態度に、軽く頭痛がしそうだ。ただでさえ押入れも拾ったゴミで満杯なのだ、これ以上収納する余裕なんてない。
「てか、こういうのって勝手に持ち出していいのか? なにか問題にでもなったら――」
「そこは大丈夫。ちゃんとお店の人に許可もらってきたよ」
「へぇ……そりゃご苦労なことで」
自慢げに胸を張るカワ姉に、しかし俺は苦笑してしまう。仮にも成人女性がそんな手間をかけてまで紙粘土を拾ってくるなんて、考えてみれば馬鹿げている。パッケージには大きく『よいこのかみねんど』と表記されていた。
「まあまあ、面倒な話はいいから、シオも一緒になんかつくろうよ!」
その誘いに、僅かばかり心が揺らぐ。
確かにどうせ廃棄されるのなら、わざわざ返してくるよりも俺たちで消費してしまった方が楽だ。それに夜勤明けで疲れてはいるが、眠気は職場で抜いてきたし、家で暇潰しをするには丁度いい。
「仕方ないな。ちょっとだけだぞ」
渋々ながら了承する――態度を装ってはいるが、内心では十数年ぶりに紙粘土を触ることに対し、柄でもなく童心に返って高揚していた。
こうして、とうに対象年齢を過ぎた姉弟ふたりの紙粘土遊びが始まったのだった――
十分後――
「……あのさシオ、なにそれ?」
「うううるさいな! 雪ダルマだよ文句あるか!?」
「ふぅーん……」
ひたすら紙粘土を丸め続ける作業に精を出していた俺に、カワ姉の氷点下の視線が突き刺さった。
――弁解させてほしい。
俺だって最初は凝った作品をつくろうと息巻いていた。……が、察しの通り途中で挫折したのだ。馬鹿にする奴は、一度自分で紙粘土を買って試行錯誤してみるといい。意外と難しいぞ、これ。
嫌味でも言い返してやろうとカワ姉の方を覗き込むも、そこで俺は意図せず溜息を漏らした。
どうやら俺が帰宅するまでに幾つか仕上げていたらしく、テーブルの脇には壺にドラ○もん、そしてイースター島のモアイという、精神状態が心配になるような面々が並んでいた。ご丁寧に絵の具とニスまで塗ってある。
しかし重要なのは、どれも目立った崩れもなく、しっかりした造形だということだ。間違っても一部が裂けたり落っこちたりしていない。
……そういえば、性格に似合わず手つきは器用だったな。
隣でこうも実力の差を見せつけられては、創作意欲も削がれるというものだ。
もうすっかりモチベーションを失った俺は、カワ姉の制作風景を観察することにした。
間の抜けた鼻歌混じりで、しかし手元はやけに本格的だ。のし棒を使って、まるでピザ生地を扱うように紙粘土を薄く丸く伸ばしている。
「なにつくってるんだ?」
「うふふ、タンバリンだよ」
尋ねてみると、予想だにしていない答えが返ってきた。
タンバリンといえば、小さくて片手で持てる、太鼓みたいなあの楽器だ。小中学校の音楽室ならば、どこにでもあるような。しかし、なぜタンバリン……?
浮かんだ疑問は、訊くまでもなく解消された。
「完成したらこれあげるから、ふたりでバンド組もうよ!」
「……ウクレレとタンバリンで?」
「うん! バンド名は神風特攻ブラザーズなんてどうかな」
結成時点から方向性を見失っている。常に解散の危機に晒されていそうだ。
「最初は路上ライブから始まって、いつしか事務所にスカウトされちゃったりして……最終目標はもちろん武道館! そしたらウハウハのガッポガッポだよ、音楽界の革命も夢じゃないね」
「夢にも見ねえよ!」
この姉の場合、本気で言っているかもしれないのが厄介だ。頼むから冗談であってくれ。
しかし口では阿呆な戯言を垂れ流しながらも、紙粘土は着実にタンバリンの形を成しつつあった。その無駄のない工程は、まるで粘土が自らの意志で変形しているのかと見紛うほどに鮮やかだ。
「…………」
おもむろに自分の手元へと視線を戻し、すぐに後悔した。ビー玉程度の大きさに丸めただけの雪ダルマの集団。
歪んだ形で、個体ごとにサイズもバラバラだ。カワ姉の作品と比較するのも烏滸がましい、まさしく雲泥の差といえる。自分の情けなさと格差社会に涙ちょちょ切れそうだ。
「あーあ! どうせ俺は不器用だよ!」
たまらず叫んだ俺は床に背中を叩きつけ、仰向けに寝転がった。
――途端、なぜだか胸裏からどす黒い感情が湧き出してきた。声に驚いて顔を向けるカワ姉から慌てて視線を逸らす。
その気持ちは、ただ『悔しい』というだけではなかった。
普段のカワ姉と俺の関係は、好き勝手ふざける側と、それを抑える側。その構図に俺は辟易としていたようで、実は「俺がいなきゃ駄目だ」という矜持、あるいは驕りを抱いていたんだと思う。
けれど実際には、カワ姉の方がなんでも器用にこなすし、仕事だって順風満帆だ。俺とはまさに真逆、それに気づいてしまった。
この嫉妬心は、無意識下に姉の存在を軽視していたからこそで。
もう紙粘土とか工作がどうとかの問題ではない。カワ姉を軽んじていた事実に自己嫌悪の波が押し寄せる。
けれど、それを素直に伝えるなんて癪だ――なんて思って不貞腐れる自分が、ますます嫌になる無限ループ。だから、俺の行動はただの八つ当たりだ。
「シオ……」
感情の読めない声音で呼ばれたが、わざと無視した。
しばらく部屋を静寂が埋めた。俺は天井を見つめ、そんな俺を姉が眺めている……気がする。
やがてカワ姉は立ち上がると、無言のままで押入れを漁り始めた。
怪訝に思い、その様子を目線だけでこっそりと追う。
なにか探し物があったのか、しばらくして「見っけた」と呟くと元いた場所に戻った。曖昧なその微笑みが、今はやたらと大人びて映った。
「ねえ、シオ」
再び語りかける声に、俺はまだ返事をしない。
構わずカワ姉は横たわる俺の隣に移動してきて、なにかを顔の真上にぶら下げてきた。
そして、
「じゃーん」
「え……」
思わず口が開く。
それは俺の雪ダルマだった。頭頂部に小さな金属が刺さっていて、カワ姉はその部分を摘まんでいる。
距離が近すぎたので目を凝らし――その金具がなにか気づいた俺は呆然と呟いた。
「イヤリング……?」
どこにでも売っているような、安っぽいイヤリングパーツ。それがあの不格好な雪ダルマと繋がっていた。
カワ姉は白い歯をこぼして当惑する俺を見下ろし、
「これ、もらってもいいかな?」
そう言って雪ダルマを持つ手を揺らした。
――励ましているつもり……なんだろうな。
やけに気恥ずかしくなって、俺は体勢を変えてそっぽを向いた。カワ姉が視界に入っていると、顔中から火が噴き出そうだった。
「……好きにしろよ」
「そう? ありがと」
ああ、情けない。まさかこの変人に気を遣わせるなんて。
カワ姉はただの馬鹿のようで、意外と俺のことを見透かしているのかな、と苦笑する。
きっと俺が拗ねてヘソ曲げていたのも、お見通しだったのだろう。俺はこんなに真剣に悩んでいるのに、カワ姉は余裕綽々で、ますます気に食わない。姉も、自分自身も。気に食わないが……
――後でお礼くらい言っておこう。
……不思議と、素直にそう思えた。
少しだけ心が楽になる。カワ姉と俺の立ち位置とか関係性を、自分なりに整理できたからだろうか。
とにかく妙な空気になってしまったし、今はとりあえず眠ってごまかそう。俺は肩肘張っていた身体から力を抜いて、ゆっくりと瞼を閉じた。
「あら寝ちゃった?」
夢の世界へと片足を沈めた俺の鼓膜に、遠くからカワ姉の声が届いた。言葉はぼやけて、その内容までは聞き取れなかったけれど。
「でも、なんで急に機嫌悪くなってたんだろ。まあいいや、鼻の穴に粘土突っ込んじゃお」
なぜだか、酷く寝苦しかった。