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【完結・改稿】ノヴァゼムーリャの領主  作者: 文野さと
第二部 故郷は心の住まう場所
99/154

99 障壁14−2

 暗闇が少しずつ薄まってゆく。

 いつの間にか高い城壁の上に立っていた。眼下に荒野。

 風が強く、髪が、衣服が煽られる。思わずよろめくと後ろから誰かに支えられた。

 大きく力強い手。

 誰――誰なの?

 振り向こうとしてもどうした訳か前しか見られない。ただ肩に置かれたがっしりとした掌の重さだけが感じられて。それが不意に軽くなった。

 ――待っておるぞ

 風のような声が聞こえたような気がした。


「ああっ!」

 はっと気がつくとやはり周りは薄暗い。しかし、人の気配がする。

「レーニエ様! お気づきですか? ご気分は? どこか痛いところはございますか?」

 サリアの声がすぐ耳元で聞こえ、レーニエは、そちらを向いた。

 真っ暗だと思ったのは間違いで、部屋には小さな明かりが灯されている。

「……あ」

 レーニエは、ようやく今自分がどこにいるか思い出した。ここはウルフィオーレ市庁舎にあてがわれた私室の中だ。

「サリア……?」

「はい。サリアでございます」

 忠実な侍女が落ち着いた声で囁く。ひんやりした指先が額を撫でた。

「あ……うん。今何時?」

「先程鐘が六回鳴りました」

 サリアが差し出す水の杯を受け取りながら、レーニエは何とか自分を立て直そうとした。

「ああ、そうか……外が暗いな……」

「そうですわね」

「私……夢を見ていた……」

「夢、ですか? 余り思い出されぬ方がよいかと」

 ぼんやりと中空を見つめる主をサリアが覗きこんだ。しかしレーニエは、述懐の狭間を漂っているようだ。

「ああ、幼い頃と……恐ろしい戦いの夢だった。恐ろしくて私は叫んで……ああ、夢で良かった……サリア? お前の方が心配そう……あ!」

 不意に瞳の焦点が合う。

 急速に途切れた部分の記憶が蘇り、レーニエは、がばと身を起こした。水の杯が床に転がる。

「違う! そうじゃない! あれは!」


 足元に転がった手首。

 石畳に流れた沢山の血……自分にぴたりと狙いをつけて弓を構えた男。

 突然視界が遮られて……

「あ……ああ! ヨシュア! あの人、あの人はどうなった!?」

 レーニエは叫んだ。

 肩に突き立つ矢の根元から、広がる黒い染み――

「嫌! ああ! 嫌! ヨシュア、ヨシュア!」

 恐ろしい幻想を払うように、レーニエは頭を抱え激しく首を振った。慌ててサリアが主の肩を抱いた。

「レーニエ様! 大丈夫です! ファイザル様は軽傷で、次の間に控えておいでです」

「え……?」

 訴えるような瞳を見下ろし、サリアは安心させるように頷いた。

「本当?」

「本当ですとも。お呼びいたしましょうか?」

「……いいの?」

「ええ、でもその前に御髪を整えなければ。随分うなされておいででしたから、くしゃくしゃですわ。こんな姿でお会いになるのは嫌でしょう? お顔も拭いてきれいになさらないと」

 サリアはくすりと笑い、呆然としている主の髪にキスを落とした。

「そう……すまなかった。私はまた、迷惑をかけてしまったようだ」

「何をおっしゃいます。サリアには何時でも甘えて下さっていいのですよ。ね?」

「サリア、サリア……ごめん、ごめんね」

 姉のようなその腕に、レーニエは縋りついた。

 暖かい胸に頬を預けているのに、目の前に恐ろしい光景が蘇り、悪寒が走る。

「怖かった……すごく怖くて……」

 戦闘に巻き込まれた時の恐怖が蘇って来たのだろう、細かく震えだす体をサリアは抱きしめる。

「たくさんの血が飛び散って……悲鳴が上がって、人の手が飛んできて……恐ろしい声をあげて人が倒れた……ああ怖い!」

 サリアは何も言わず、幼子を抱きしめる母のように背中を(さす)ってやる。

「サリア……情けないが、私にはあんなもの耐えられない……気分が悪い」

 瞳には恐怖が張り付いている。サリアに(すが)る手の関節が白く浮き出ていた。

「あたりまえですわ。普通の人ならば、だれでもそう思います」

「……」

 あんな恐ろしい中にヨシュアはいたんだ。ずっとずっと、長い間。

 あのような恐ろしい戦争の中に。

「酷くお疲れのようですわ。今宵はもう休まれては? 方々にはお引き取り頂きましょう」

「それは……いけない。私がいけなかったのだ。皆には酷く迷惑をかけてしまった。今日起きた事は、今日中にけじめをつけた方がいいに決まっている。大丈夫……サリア、髪を梳いて」

 青い顔をしながら、レーニエは自分に言い聞かせるように頷いた。


 サリアから許可が下りたので、控えの間で待っていたドルリー将軍、ドルトン、ジキスムント宰相とその孫娘、最後にファイザルが静かに部屋に入った。

 既に部屋にはいくつかの明かりが置かれ、先ほどよりかはよほど明るくなっている。

 寝台に横になったレーニエは、まだ青い顔をしていたが、サリアに助けられて身を起こした。その瞳がすぐにファイザルに向けられる。

「ファイザル殿……済まなかった……私の愚かな行いのせいでお怪我を……」

 誰も挨拶さえしない内にレーニエが詫びる。

 その声は努めて他人行儀に振る舞おうとする主を裏切って、悲痛な思いに満ちていた。

「外に出ようなどと、要らぬ気を起こしてしまったから……許してほしい等と乞える事でもないが……」

 レーニエは(うつむ)き、ぎゅっと掛け布を握りしめた。小さなその拳は痛々しく震えている。

 声を掛けられたファイザルは、居並ぶ人々に遠慮をしつつ寝台の傍まで進んで膝をついた。

 レーニエの声は弱々しく、離れていては聞きとれない。

「殿下、どうかお顔をお上げください。私なら平気です。この程度なら虫に刺されたほどくらいにしか感じませぬ」

「だけど、矢が……」

 レーニエは恐る恐るその部分を見つめた。ファイザルは既にきっちりと軍服を着こんでいる。その服も着替えたのか、血の汚れも矢の痕もない。服の下に包帯を巻いているのだろうか。

「弓矢は腕に仕込む形状の小型でしたし、服の生地が厚かったので、傷と言っても小さなものです。腕も動かせます」

 そう言ってファイザルは、腕を振って見せた。

「このとおり」

「左様、こやつはこの程度の傷なら昔から慣れております。殿下がお気に病む事はございませぬ」

 後ろからドルリー将軍が受け合った。

「しかし、私が表になど出たい等と気まぐれを……そうだ、他の者は? セルバロー殿は? ジャヌー殿も確か怪我を!」

「奴等も大丈夫です。先ほど二人して、夕飯を人一倍かっ喰らっておりましたわい」

 ドルリーの言葉にファイザルも頷いた。

「人的被害は、ダナンと言う兵士が足にやや重い傷を負いましたが、こちらも命に別条はなく医師の治療を受け、休んでおります」

「そうか、私のせいで……明日にでも見舞いに行きたい。くれぐれも申し訳ないと伝えて欲しい。私はただ突っ立ってただけのくせに、気を失うなどとみっともない様を……」

 青ざめた顔を顰め、細い肩が項垂れるのを、部屋にいた誰もが痛々しい思いで見つめた。

「レーニエ殿下、ウルフィオーレ市中の治安の責任は私にあります。全ての責はこの老いぼれが負うべきものなのでございますれば、どうかレーニエ様にはあまりご自分をお責めにならず。それにレーニエ様は、背後に小さな子どもを庇っておられたとか、なかなかできる事ではありませぬ。その子どもの親御は泣いて殿下に感謝しておったと報告がありましたぞ」

 ドルリーはあまりにレーニエが暗い顔をしているので、真顔でそう言った。しかしその白い顔は一向に晴れなかった。

「襲撃をしかけた輩はドーミエの残党で、生き残った者から事情を聴取しておるところでございます。まさか奴らが、以前から市民に紛れ込んで虎視眈々と復讐の機会を伺っているとは考えも及びませず。どうか、責めるならこのドルリー()を」

「それは私奴も同様でございます。レーニエ様をこのような目にあわせ、国王陛下には何とお詫びしてよいか……」

 それまで黙っていたドルトンも、ドルリーの横に並んで深々と頭を下げた。

「いや、私がふらふらと外に出たのがいけなかったのだ。立場を(わきま)えもせず……浅慮(せんりょ)の至りで恥ずかしい」

「……」

 なぜレーニエが外に出たいと思ったのか、その原因が自分にある事を知っているファイザルは苦々しい思いで頭を垂れた。

 そして、敵は自分を名指しにしてレーニエを捕まえようとしたのだ。

 知らせを受けてからの事はよく覚えていない。

 あの時、部屋の外が急に騒がしくなり、間もなく真っ青な顔をした伝令が転がり込んできた。

 報告を皆まで聞かず、傍らに立て掛けていた剣を引っ掴んで部屋を飛び出した事は思い出せる。

 だが、どうやって大階段をまろび降り、広場を駆け抜けたか、敵味方が入り乱れて交戦する中、諸手に剣を握り左右の敵を斬り掃いながら、どこでレーニエを見つけたかについては記憶が定かではなかった。

 瞳に焼き付いているのは――。

 僅か五リベルも離れていないところから、真正面に弓を構える男を前に佇立する娘を見たこと。

 あの時のことを思い出すだけでぞっと身が震える。レーニエは逃げもせず、ただ静かに男を見つめていた。

 背後に子どもを庇ってはいたが、恐怖で身が竦んでしまっているのとは違っていたと、ファイザルはあの時のレーニエの表情を思い浮かべる。

 穏やかで美しい。だが何もかも諦めてしまったような瞳。

 この人は――

「あの時なぜ……」

「え?」

「あ……いえ、何でもございませぬ……どうか、今日はもうお休みを」

 不意に自分の口から零れた言葉に、ファイザル自身驚いたようだった。

 レーニエの言葉を待たず彼は顔を伏せる。

「左様でございます。ともあれ殿下に大禍がなくてようござった」

 ザカリエ宰相の落ちついた声が、一同に引き際を暗示する。

「そうですわ。レーニエ様がご無事で本当に私もほっとしております」

 特徴的ながらも幾分沈んだ声でシザーラも前に出た。

 いつものように顎を引いてはいず、つつましく額を下げている。巻き毛から覗く顔は本当に心配そうな様子だった。

「シザーラ殿も……ご心配をおかけした。あなたには色々と教えられたのに……」

「皆様、今宵はこれでお引き取りを。主は大層疲れておられます。明日、ご様子をお伝えいたしますので。今夜のところはこれにて」

 頃はよし、とサリアが進み出るのをきっかけに、人々はもう一度見舞いの言葉を述べて部屋を辞した。

 ファイザルは最後に部屋を出る。扉の所で彼は振り返った。

 赤い瞳と目が合う。その瞳はやはり悲しみを湛えて彼を見つめていた。

「お休みなさいませ」

 ファイザルはもう一度深々と頭を下げ、部屋を後にした。



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