98 障壁14ー1
視界が黒く覆われている。
な……に?
それは――それは、広い背中だった。
「お怪我はっ!?」
諸手に剣を握ったファイザルが振り向く。その肩に、深々と矢が刺さっている。黒い軍服に染みが広がる。
「ヨ……シュア」
それきり何もわからなくなった。
華奢な体がゆっくりと傾いてゆく。銀の髪が宙を舞う。
愛おしいその体が石畳に崩れ落ちる直前、男の腕が抱きとめた。
彼が投げ捨てた双剣が、ガランと耳障りな音を立てる。
射手が矢を放った瞬間、セルバローの投げた剣がその胸に突き立った。射手は物も言わずに斃れた。それが最後の敵だった。
狭い路地には宵の気配が漂い、静寂に満たされてゆく。
「終わったぜ。あら?」
セルバローが剣を拾い上げて振り返った。
「レーニエ様!」
慌ててジャヌーが駆け寄った。
彼も敵を倒していた。その男だけはまだ息があった。
「御無事だ。気を失われただけだ」
気丈な方が……
ファイザルは、くたりと力を手放した娘を抱え上げた。
「司令官殿! お怪我を!」
肩に突き立った矢を見て、ジャヌーがファイザルからレーニエを受け取ろうとしたが、彼は首を振って応えた。
「俺は大丈夫だ。殿下をお運びする。お前たちは後始末を。それと誰かこの子どもを家まで送ってやってくれ。それからそっちの男を連行しろ」
レーニエが最後まで背後に庇っていた子どもは、壁にへばり付いたまま、声も立てられないくらいに怯えていた。
「はぁっ!」
ジャヌーは慌てて微笑みを作りながら、子どもの前に膝を折った。ざっと見た限り、どこも怪我をしていない。
ファイザルはレーニエを抱えて、路地を歩き去ってゆく。彼が引き連れてきた小隊の兵士達がさっと道を開けた。
「……レナ」
小さな顔には血の気がなく、唇が青ざめている。固く閉じられた長い睫毛の下からはうっすらと隈が見えた。このところ眠っていないのだろう。
何度も抱き上げた体。だが記憶にある重さより軽く感じられる。
こんなに軽かっただろうか……これではまるで羽根のようじゃないか。
禁欲的な紫紺の衣。
その下の肌の白さを、柔らかさを彼は知っている。その奥に密やかに息づく女も。この一年余り、彼はどんなにそれを恋うただろう。
そしてそれは昨夜、もう叶う事の無い想いだと思い知らされたのだった。
レナ……。
きりきりと心が軋む。ファイザルは唇を噛みしめた。
ああ、暗い。冷たい石の上だ。一向に慣れないその感覚。
私はいつもここから動けないのだ。昔も今も。
『お前の父と母は罪を犯したのだ! そして、お前は罪の中から生まれた子供だ! その恐ろしい血の色の瞳と、老人のような髪がその証し。ああ恐ろしい! お前のおかげで、私もこの塔の中から出ることができない!』
暗闇からぬっと伸びた指がレーニエを指差す。
『どうせ、お前も私も一生この塔の中だ。そんなに怯える事もない。闇と仲良くなればいいのだからな。お互いその醜い顔を世間に晒さずにすんで良かったと言うもの。あは、あはははは!』
女は愉快そうに笑った。
皮膚のあちこちに茶色い痣があるが、それさえなければ整っていると言ってもよい顔立ち。櫛を入れていない髪は、ごわごわと逆立ち、瞳は溢れる憎しみに満ちていた。
『逃げるではないよ。例え逃げたところで、お前は不幸を撒き散らして人々に忌み嫌われるだけだろうけどね。お前はまったくの厄病神なのだよ!』
甲高い笑い声が石の壁に反響し、更に暗い天上へと立ち昇ってゆく。
レーニエは薄汚れた布切れをかぶって、震えることしかできなかった。
助けてと言う言葉を知ってはいた。しかしどうしても喉から声を出すことができない。思考の結果を言葉にして、表す事をしたことがなかったから。
それでも、レーニエは強く願っていた。来る日も来る日も、たった一つ彼女に残された世界である小さな窓を見上げながら――
助けて、助けて。私をここから出して……様……様!
ああ、外へ出たい。
光の当たるところへ。けれどもこんなに弱々しい手では、何を振り払う事もできないだろう。
『あ!』
不意にレーニエは自分の手が酷く汚れているのを知った。拭っても取れないそれは――血だった。
よく見ると、自分が蹲っている石の上も生臭い液体で一面濡れている。その上には肉片のようなものまで見える。
『ああ! 嫌だ……誰か! 誰か助けて! ヨ……ヨシュア!』
暗転