96 障壁13−1
ふらりと廊下に出たレーニエは、そのままゆらゆらと歩きはじめる。
廊下は薄暗く、人影は見えなかったが、正面扉まで来ると護衛の兵士に戸惑ったように呼び止められた。
「これは大使閣下! どちらへ参られますか? 外には出ない方が……いえ、今のところ何もありませんが」
兵士たちは、普通なら声も掛けられない高貴な人物が、一人で歩いているのを見て、驚いたようであった。
「……そと」
ぼんやりとレーニエは答える。
その時、正面扉の横の脇の小さな戸が開き、食事をとっていた交代の兵士達が休憩を終えて帰って来た。
「おやぁ? これはこれは」
先頭に立ってやって来たセルバローが目聡くレーニエを見咎める。
「王女殿下」
続いてジャヌーや、他の兵士達も入って来た。
「こんなところで何を?」
驚いたジャヌーが進み出る。
レーニエは、ジャヌーすら目に入らぬ様子でゆらりとよろめいた。
「レーニエ様!?」
「あ……」
がっしりと肩を支えられ、空虚だったレーニエの頭の中が回りはじめる。
「あの……する事が何もないので……」
「はあ」
「少しだけ外に出たいのだ……」
「外に?」
「問題があるのなら無理は言わないが……」
弱々しく視線が避けられ、床に落ちる。
「あ~、私からは何とも……司令官殿に聞いてみます」
様子が変だとジャヌーが戻ろうとした時、「ダメ!」と、激しい勢いでジャヌーは遮られた。
「え?」
「い、いや、その……ファイザル殿は、ええと……来客中で……」
「来客ぅ?」
セルバローがジャヌーに聞き返す。
「あ! そうでした。なんでも昔、司令官殿が世話になったという、市民がいらっしゃる予定で、俺は外すように言われてたんでした」
「ふぅ~ん、世話にねぇ。女だろ?」
にやりとセルバローは笑った。
「あっ、それはそうですが」
ジャヌーはレーニエに遠慮があるため言葉を濁す。
「なんでも、その方は酒場を経営されていて、いろんな人達をご存じなんだとか。ドーミエの残党について、何か情報が得られるかもしれないという事でした。でもなぜレーニエ様がそのことを御存じで?」
「え? えっと……たまたま小耳にはさんで……」
「へぇえ~。それで殿下、なんで外へお出ましに?」
セルバローはレーニエを見つめながら考え込んでいたが、また唐突に元に話題を戻した。
「あ、いや……こちらに来てから殆ど屋内にいるので、気晴らしにと……」
「じゃあね、俺……私が護衛致しましょう」
「えっ! 大佐殿」
「いくら大使閣下だって、こんないい天気の日にお部屋で缶詰じゃあ気持も塞いでしまわれるだろ? それにさっき俺たちが見た限りじゃあ、市中に特に不穏な様子はなかった。少しぐらいならいいでしょう」
セルバローはそう言って、レーニエに片目を瞑って見せた。
「しかし……司令官殿に一応報告を」
「俺では頼りないかい?」
「いえっ! 決してそう言う訳ではっ! じゃあ、俺もお供いたします。それとお前とお前、ついてくるように」
ジャヌーは兵士に指示を出してレーニエの先頭に立ち、脇の扉を開けた。
元市庁舎正面の高い石段の上から見るウルフィオーレの街は、そこここに無残な傷跡を残しながらも、薄暮を吹き飛ばす活気にあふれている。
数日前、和平の調印式が行われた広場は、たくさんの人たちが縦横に行き来していた。
すぐ傍にセルバロー、少し離れた後方にジャヌー達が付き添っている。ノヴァの地を出て以来、久しぶりに見る市井の人々の様子だ。
敷石はところどころ剥がれ、場所によっては大穴があいている。しかし、円形をした広場に小さな露店が幾つも並び、おかみさん達は夕餉の買い物に余念がない。
上から見ると、いろんなものが実によく見えた。
ガラガラガラと音を立てて驢馬が引く荷車が行き交ってゆく。
皆、逞しく働いている。戦争で辛い思いをしてきただろうに……。
レーニエは、石段をゆらゆらと下りはじめた。
きっと私などとは、心の出来が違うのだ。
「王女殿下?」
頭の真上から声が降ってくる。
セルバローであった。この男にしては珍しく、後ろに立つジャヌー達には聞き取れないくらいの囁き声だった。
「ん?」
ぼんやりとレーニエは答えた。
「王女殿下には、何か屈託がおありで?」
「屈託?」
「ええ、私には殿下がとても寂しそうに見えます」
風が長い髪を揺らした。
「セルバロー殿と言われたか……」
レーニエは眼下を見下ろしたまま、静かに尋ねた。
「ええ、それが俺の名前です。俺の名が何か?」
「セルバロー殿には、欲しても手に入らなかったものはあるか?」
「手に? ん~、私は欲しいと思ったら、あらゆる手を尽くして手に入れてきたから……うん、それでもまぁ、できる事とできない事の区別くらいはつくんで、結果として、手に入らなかったものもありますよ」
赤毛の男は機嫌よく応じる。
「そう。あらゆる手を尽くして……」
「ええ。それがどうかなさいましたか?」
「いや……私もそう思って、少しは頑張ってみたんだけど……やっぱり駄目だったようだ」
「へええ、殿下が何をお望みに?」
セルバローが腰を折って白い顔を覗き込む。
レーニエは広場を見つめたままであった。まるで独り言のように、言の葉が紡がれてゆく。
「昔は何にも望まなかった……望んでも仕方がないと思っていたから。だけど、一つだけどうしても欲しいものがあって。だけど唯一願った事が叶わないのなら、やっぱり願わなかった方が良かったのかもしれない……」
睫毛が伏せられ、薄い隈の浮いた目元に更に翳を重ねる。
「本当は、嘆く必要はないのかな。元々私の物ではなかったのだから」
「そりゃ、違うと思いますよ。何かを欲すると言う事は、生きると言う事です。何にも欲しがらない人生なんて馬鹿げていると、俺は思いますがね」
それは彼の生き様だった。
セルバローがそう言うのへ、レーニエはやっと顔を上げた。
「……そうかな?」
「そうですよ」
「……」
レーニエは、初めてまともにセルバローを見た。大きな瞳に満々と哀しみを湛え、それでも微笑もうと口角を上げようとする。
「殿下の屈託とは、あいつの事ですか?」
何の前置きもなく彼はレーニエに問う。彼の言葉は何時も唐突に齎されるのだ。
「あいつ?」
「ファイザルのことです」
JJの
「何かを欲すると言う事は、生きると言う事です。何にも欲しがらない人生なんて馬鹿げていると、俺は思いますがね」
のセリフは、かつて大いに反響を得たものです。