95 障壁12
「酷い男ね!」
レーニエが去った扉に額を押し付けるファイザルの背に、女――フレデリカは言った。
彼は押し出すようにレーニエを廊下に追いやり、自ら扉を閉ざしたのである。
そのまま、男は動こうとしない。
「せっかく善良な市民が、昔のよしみで掻き集めた情報を提供しに来たとたん、いきなり押し込められて、その気もない接吻とはね。女をバカにするにも程があるわ!」
フレデリカは両手を腰に当てて色っぽく捻る。
だが、ファイザルは振り向きもしなかった。
レナ……
泣くまいと必死だったのだろう。
彼を映して大きく見開かれた赤い瞳。
びっくりするほど長い睫毛に縁取られた比類なき宝石は、しかし、透明な膜を孕んで彼を見上げていた。
微笑みさえ浮かべて。
かつて何度も貪ったあの唇。
あの娘は、何かを諦める度にあんな微笑みを浮かべ、癒える事のない傷をその魂に刻みこんできたのだ。
そして今、新たな傷を負わせてしまったのは自分。
お守りしますだと?
とんだお笑い草だ!
「聞いているの!? このでくの坊!」
「……」
男は動かない。動けないのかも知れなかった。
「おまけに下手なサル芝居! 奥で待ってろですって? お楽しみの時間ですって? は! そりゃ、大昔は少しぐらい惚れてたかしれないけど、今の私にはアンタと違って立派な旦那も、可愛い娘もいるんですけど!」
「その事は謝る。咄嗟の事で仕方がなかった……すまん」
彼を罵る言葉に、ファイザルはやっと一言返した。
「あの子、絶対誤解したわね、あんたがさせたんだけど。いいの?」
「ああ。その方があの方にもいいんだ。俺の事など、きれいさっぱり諦めた方があの方のため、引いては国のためだ。これでいい」
低く絞り出されるような声は、フレデリカが初めて耳にするものだった。
広い背中がこれほど打ちひしがれているのを見るのも。
「あの子……もとい、王女殿下なのね? 本当にあっさり騙されたと思う?」
「人を疑うなど、考えもつかないお方だから……」
無私で無垢で強いお方……なのに、俺はまたしてもあんな顔をさせてしまった……。
いつも俺は、あの人を哀しませてしまう……。
彼は終に両手で顔を覆った。
「俺の事など早く忘れたほうがいいんだ!」
「違うわね」
「なに?」
ようやくファイザルは、ゆっくりと彼女を振り返った。限りなく昏い目つきで―――
「王女様を諦めたいのはあんたの方でしょ? 違う?」
「……」
「はっはぁ! まるで死んだ魚のような眼だわね。親の葬式でもそんな顔にはならないわよ『掃討のセス』が聞いて呆れる。わかり易すぎて笑っちゃうくらいだわ。惚れきっているんでしょ? あの娘に」
「……黙れ」
フレデリカの言葉にまるで怯えたように、男はゆらりと体を傾げた。
「あんたのそんな顔初めて見るわ。なによ、そんなに欲しいなら、あの王子様から奪えばいいじゃない!」
「黙れっ!」
ダン!
背後の壁が殴られたが、フレデリカはそんな事では怯まない。
「いいえ、最後まで言わせて貰う。あの子はあんたに会いたくて、役に立ちたくてここまでやって来たんじゃないの! なのに酷い嘘っぱちを見せつけられて、あんたの言葉に傷ついて。なのに必死で、聞きわけよくしようとして、引き下がって! それでも全身であんたのことが好きって叫んでいたわよ! 王女様にそこまでさせて自分は逃げるの? それで救国の英雄様なの? ヨシュア・セス、お偉いことね!」
「言うなっ! 聞きたくないっ!」
女の言葉に押されたように、ファイザルは後の壁に背中をぶつける。大きな両手が頭を抱え込み、長身が深く折られた。
「俺なんかに何ができるというんだ。隠棲された辺境領主だと言うならまだしも、あの方は、国王陛下のただ一人のご息女なんだぞ!」
「王女様だって女だわ。好きな人と一緒になる方が幸せだわよ」
「許されるわけがない……」
鉄色の髪を握りしめた拳は、ギリギリと震えていた。
「仕方がないんだ、いくら想ったところで、俺はこんな穢れた咎人で……あの方には地位も身分もふさわしいお相手がいる……くそっ!」
体を傾げたまま、男は動こうとしない。
その時、急に外が騒がしくなった。
何かが起きたのです。
ここでお気に入り外した方は、大損ですからねっ!(勝手な事を)