92 障壁10−1
その人物が部屋に入って来た時、レーニエは机に向って書き物をしていた。
ここに来てから、詳しい記録を取るようになっていたのだ。
「レーニエ様、おはようございますす。とは申しても、もうお昼に近いですけど」
サリアの後ろから顔を出した人物を見て、レーニエは驚いて立ち上がる。
「これはシザーラ殿……!?」
「はい。昨日は大変失礼をいたしました。シザーラ・ジキスムントでございます」
恭しく辞儀をして顔を上げる小柄な娘は、政治家の顔をしていた。
どういう事だろう? 昨日の事を、ご存じなのだろうか?
ドルトン殿は話してくれたのだろうか?
私から一体何を話せば……。
「ドルトン様には許可を頂きました。そこの侍女の方に、身体検査も受けましたからご安心を」
レーニエの戸惑いをどう受け取ったのか、ジザーラは特徴的な声できびきびと言った。
顔を上げて立っていてもレーニエより頭半分ほど背が低い。なのに、「小さい」と言う印象は、彼女から受けない。
「いや、そう言う事ではなくて……あの、ジキスムント殿は、あなたがこちらに来られているとご存じなのか?」
「お爺様のお許しなら得ております。ついでにアラメイン殿下にも」
「そ、そうなの?」
シザーラにとっては、恋人であるはずの主君の弟は、ついでであるらしかった。
「お飲み物をお持ちいたしましょうか?」
妙な具合になったその場の空気を取り繕おうと、サリアが提案する。
「あ、ああ、そうして。こちらへどうぞ、シザーラ殿」
「ありがとうございます」
「あの、シザーラ殿……それで……」
シザーラが椅子に落ち着くのを待って、レーニエはおずおずと切り出した。このような時、何を言えばいいのだろうか?
「ドルトン殿とお話をされたのか?」
「はい。私のような立場の者が、急にレーニエ殿下に御面会を申し出ても、許してもらえないと思ったものですから。先程、要件と所要時間をドルトン様にお話すると、意外にすんなり許していただけまして、私の方こそ驚いているところなのです。エルファランの官僚は、もっと勿体ぶると思っていたものですから」
「ああ……確かにドルトン殿は、四角四面な文官ではないな」
シザーラのやや早口な喋り方に追いつこうと、レーニエは神経を彼女に集中させる。
「ええ、お顔はレンガのようですけれど」
「レンガ……あはは」
茶目っけたっぷりのシザーラの言葉に、レーニエは軽い笑い声を立てる。彼女の笑い声を初めて聞いたシザーラは、思わず目を見張った。
「確かにドルトン殿のお顔は四角いな。それで、彼に何と申されたのか?」
「はい。レーニエ殿下と女同士のお話がしたいと」
うっとりとレーニエを見ていたシザーラは、慌てて姿勢を正した。
「女同士……」
その言葉に自分が果たして該当するのか、と考えながらレーニエは小首を傾げる。
「ええそうですの。それはそうと、レーニエ様」
「はい」
「協定の場や、広場での調印の儀では素晴らしい姫君の御装束でしたけれど、男装もなさいますのね? 素敵ですわ。それにその御髪! 纏めていらっしゃる時もうっとりしましたが、そのように流されている方が一層お美しいですわ」
「は? えっと……なんというか」
ぺらぺらと発せられる言葉の数々に、レーニエは何とかついていこうとした。
「私は窮屈な服装がどうも苦手で……普段はこのような格好をしているのです」
レーニエは、アラメインに応えたのと同じ事を言った。
「御髪の事は祖父から伺いましたわ」
昨夜右側だけ切ってしまった髪は、今朝サリアの手によって、左右同じように整えられている。その際サリアはずっと嘆いていた。よもやこの御髪に鋏を入れる日が来るとは思いませんでした、と涙目で。
「ええ、委細全て。ですが、まるで子どもの頃に読んだ絵草紙の素敵な王子様のようですわ。あ、失礼いたしました。こんなにお美しい姫殿下に王子等と……」
シザーラは、話しながら注意深くレーニエの様子を見ていた。
レーニエは、シザーラの意図を測りかねてそわそわしている。それは同性の目にも可愛らしく映った。
「私などはこんな肌が黒くて、縮れっ毛で……コテで伸ばしてもだめで嫌になりますわ」
「何を言われる、シザーラ殿はこんなにお美しいではないか。私もあなたのような濃い色合いの髪や、肌に生まれたかった」
レーニエは熱心に言った。
「あなたのご様子は我が領地に住む、小さな女の子によく似ている。マリと言って巻き毛のそれは可愛らしい子で、よく私の傍にやってきて、おしゃべりをしてくれるんだ」
「……」
今度はシザーラが目を瞠る番だった。
人形のように無機質な美しい顔が柔らかく微笑んで、夢見るように遠くを見ている。
おやおや。この方は、こんなに豊かな感情を持つ人だったのだわ……。
同性から美しいと言われたことは初めてだった。
しかも、自分のように生まれたかった等と、自分より美しい娘に言われたところで、普通なら嫌みに聞こえるだろう。
だが、この姫君の様子では、心からそんな風に思っているらしい。
また随分、見た目と違う印象のお方だわねぇ。
シザーラの密かな感想はともかく、レーニエはうっとりと窓の方に目を遊ばせている。
サリアが入ってきて、お茶と菓子を置いてゆくと黙って下がっていった。
「レーニエ殿下は、領民を愛されているのでございますね?」
暫くしてシザーラは尋ねた。
「無論。私が領主としてできる唯一の事だから」
レーニエは赤い瞳をシザーラに戻していった。
「ご領地はどちらで?」
「ノヴァゼムーリャと言って、我が国の最北の土地だ。冬は厳しいが、大変美しいところで……」
「雪は降りますの?」
「それはもう。冬になると、白くないところを探すのが難しい」
「私はザカリエの人間ですから、雪を殆ど見たことがないのです」
「そう? 一度我が領地に遊びに来られるといい」
レーニエは微笑みながら言い、それから真面目な顔になった。
「……あなたはアラメイン殿と愛しあっておられるのだろう?」
「はい。私たちは子どもの頃から愛しあっております。あの方はお優しくて、誠実。ですが、ご自分に自信が持てないのですわ。でもそんなところも大好き」
「だいすき……」
「私は、あの方の傍でお役に立ちたいと、ずっとそればかり願っておりました」
「それは……」
私も、とレーニエは言いそうになった。
「けれど、両国の恒久の平和のためならば、私情に流されるべきではないとも、胆に命じてじております」
きっぱりと顔をあげてシザーラは言った
「そうか……ならば、あなたは私よりもずっとお強い方であられるな……私はあの事を私情で申し出たのだから」
「私情とは?」
「シザーラ殿のお気持ちはよくわかる。私にもお慕い申し上げる方がいるから……」
「まぁ」
「だけど……どうやら私はその方に、嫌われてしまったみたいなのだけど……」
「そんな……レーニエ様を嫌う殿方がいるとは思えませぬ」
「だけど、どうやらそうらしい」
哀しそうにレーニエは長い睫毛を伏せた。
その様子は、お互いの恋の悩みを打ち明け合う、そこらの娘となんら変わらない。
シザーラは、この異国の美姫に不思議な親しみを覚えた。