91 障壁 9
深更。
レーニエは眠れない。
サリアが心配して軽い酒を運んでくれたのだが、飲みほしても気持ちの昂ぶりは収まらない。
思いは千々に乱れる。
先程のジキスムントとの折衝、そして思いがけない形でファイザルと、ようやく言葉を交わせたこと。
ヨシュア……。
大使としてやってきた自分を出迎えた彼の姿を見た時、駆け出しそうになった。
母からもらった立場を必死に思い出して、涙が滲みそうになるのを堪えるため、驚くほど堅苦しい態度になったと思う。
あの時ほど、仮面があればと思ったことはない。
久しぶりに会ったファイザルは、久しく戦場で暮らしていたからか、髪が伸び、痩せて陽に焼け、以前より一層精悍な風貌になっていた。
立場のせいか、更に立派になって堂々としていたが、彼女の愛した深山の湖のような青い瞳はそのままで。
――ただ、彼女を見ようとしない。
この数日、どのような席でもファイザルは常に下座に控え、レーニエと視線を合わせようとしなかった。
レーニエは彼の事だけ考えていたと言うのに。
ヨシュアは私の事などもう忘れてしまったのだろうか……?
それとも私のようなものが、このような重要な国際舞台にしゃしゃり出てきたことを不愉快に思っているのだろうか……。
私はおとなしく田舎に引っ込んでいればよかったの?
そう思うと、レーニエは身が縮まりそうに辛い。
しかし、一年以上ぶりに彼に会えて体が痺れるほどの喜びを感じていることもまた事実で。
情けない。
役に立とうと決心して、母上に無理をお願いしてこの地にやって来たのではないか! こんな私だから、あの人に弱さを見透かされてしまうのだ。
空しく寝返りを打つばかりの空虚な体を持て余し、レーニエはそっと寝台を抜け出た。
窓辺に立つ。
半ば廃墟と化した街は、すっかり静まり返っている。
しかし、レーニエは知っている。
このような荒れ果てた中でも人々は逞しく生き抜き、未来に希望をつなげようとしている事を。
そして自分はその布石を置くために来たのだ。
燃料が乏しいためだろう、街の殆どは闇に沈んでいて色彩は一切ない。
春の空気は見かけほど澄んではいないのか、見える星は少ないものの、月が照らす夜空の方がまだしも華やかなくらいだった。
ふと目を凝らすと、さほど離れていない距離に小さな灯りが灯っている。
あの辺りは、確か……そうだ。
ザカリエ国側の宿舎である。
エルファランの使節に比べると規模はかなり小さい。あの中に印象的なシザーラ嬢や、王弟アラメインが休んでいるのだろう。
ジキスムント達はとファイザルに送られて無事帰りついただろうか?
先程の会見でレーニエは、ある大胆な提案をしてしまったが、この先それがどう転ぶのかさっぱり見当がつかない。
明日朝一番にドルトンに報告し、判断を仰がなくてはならないだろう。
ドルトンはレーニエに一任すると言ってきたのだ。もし彼女が間違ったことをしでかしたと言うのなら、彼がすぐさま軌道修正してくれるはずだ。
それにしても……。
明日は何が起きると言うのだろう。ファイザルにはどう接すればいいのだろう? 世慣れぬレーニエには、何の見通しも持てなかった。
彼女は今夜何度目なのかわからない溜息を漏らすと、最後に鎮まり返る街並みを見渡し、寝台に戻る。
だから気づかなかった。
部屋の真下の闇の中に一人の男が佇み、彼女が立つ窓辺を見上げていた事を。
翌日の午前中は、レーニエは予定は聞いていなかったので、遅めの朝食を部屋で摂った後、予定通りドルトンを呼んだ。
「ははぁ、成程。そう言う事になりましたか。それで御髪を……思い切った事をなさいましたねぇ。いくらザカリエ宰相に乞われたと言え、お断りされてもよろしかったのに」
レーニエの顎の両側で、サリアが整えてくれた髪が揺れていた。ドルトンはそれを珍しそうに見つめている。レーニエがその見かけとは違い、思いがけず果断なところを見せた事も、彼には好ましいことだった。
「勝手な事をしてしまったのだろうか? 私はアラメイン殿とシザーラ殿のお気持ち……そして私情を優先してしまった。ジキスムント殿を呼んでもういちど……」
「いえ、それには及びません」
ドルトンはきっぱり言った。
「……このままでいいの?」
「レーニエ様」
「なに?」
「レーニエ様は、この婚約のお話は進めない方がいいのですね」
ドルトンはいつものように熱の入らない話し方で尋ねた。
「そう」
「そしてアラメイン殿下にとっても」
「そう」
「ならばそう言う方向で話を進めていきましょう。幸いレーニエ様が時間稼ぎのご提案をして下さったので、後は王都に戻って陛下や元老院と図っていきたいと思います。皆驚くでしょうよ、深窓の姫君が、名うての政治家と丁々発止のやり取りをした等と」
「母上に叱られないかしら?」
レーニエは心配そうに言った。
「大丈夫です、陛下にはレーニエ様の事をよくご存じでいらっしゃいます。私も、この件について、陛下のご意見を聞き及んでいます。お任せください」
ドルトンは四角い顔に、この人物にしては珍しい笑顔を浮かべ、うら若い王女に頷く。
「レーニエ様、自信をお持ちになって。エルファラン国の基盤は、いくら和平のためとはいえ、若い姫君に悲痛なご決断を迫ったり、敗戦国の王子を婿と言う名の人質に取ったりするほど脆弱なものではありませんし」
「……」
「昨日のレーニエ様はご立派でした。この事を聞けば、陛下もさぞお喜びになると思います」
「私? 私は何もかも夢中で……」
レーニエは口籠ったが、その時、軽いノックの音がしてサリアが顔をのぞかせた。
「お話中申し訳ございませぬ」
「サリア……どうしたの?」
「レーニエ様にお客様が……ですが、先ずはドルトン様にお会いしたいと申されておられます」
「どなたかな?」
ドルトンはさっと腰を上げて扉に向かう。サリアは小声でその人物の名をドルトンに告げた。
「……ほぅ、それは面白い。では先ずは私がお会いしましょう。レーニエ様、しばらくそのままお待ち願いますか?」
そう言ってドルトンは部屋を出て行った。
昨夜、エックスが大変なことになっていて(バズるっていうの?)、更新できるか不安でしたが、無視することにしてこちらを優先です!