90 障壁 8
「ファイザル様!」
サリアは非常に驚いて薄く扉を開ける。
廊下の暗がりには見知った長身の影。削げた頬に鉄色の髪が懸り、獰猛に光る眼は非日常をまとっている。
「突然まかり越し申し訳ありません。入れてもらえますか?」
「それは……無理です」
「知っています。こちらにザカリエ王弟と宰相が来ておられるのでしょう?」
「え? あの……」
「そうなのでしょう?」
有無を言わせぬ問い。鋭い瞳。
「ええ、そうですわ」
この男の目から何もごまかせまい。サリアは意を決して頷いた。
「廊下は人目がある。中に入れて下さい」
サリアは諦めて、ファイザルを控えの間に招き入れた。
「レーニエ様はあちらですか?」
「奥のお部屋です。お二人も」
サリアは背後の部屋を振り返った。その視線を追ってファイザルは奥の扉を見つめる。
「あなたは、これが何のための会見かご存知なのですか?」
「存じません。でも、お入りになってはいけません」
「そうですか。極秘の内容なのですね」
あらかじめ想定内だったのだろう、特に驚きもぜず彼は受け、隣室へ続く扉の前に立った。
内部を伺っても、元市庁舎の来賓用の部屋の扉は重厚で、気配は感じられるものの、言葉までは聞きとれない。
「それにしても、こんな夜更けに内々のご会見とは、余ほど重要な駆け引きがあるようですね」
「わかっているなら、何をしにいらっしゃったの?」
サリアはきつい調子で、壁に背をあずけて立つ男に言葉を投げた。彼はやや俯いていたが、その声にうっすらと顔を上げた。
「私の役目は大使殿下の身の安全。ザカリエ側はお二人とのことだが、万が一と言う事がある。部屋には入らないが、ここでお待ちいたします。何かあれば直ぐに飛び込む所存です」
「遅すぎますわよ」
サリアの口調は厳しかった。
「来るのが遅すぎるって言ったんです。あなたはなぜ、レーニエ様に何も言ってくださいませんの?」
「……」
「どんな思いでレーニエ様がここに来られたと、知っておられるのかしら?」
「サリアさん」
鋼鉄の声がサリアを遮る。しかし、彼女は怯まず、厳しい瞳を睨みかえした。
「なんでしょう?」
「ここはまだ戦場なのです」
「戦場? レーニエ様は和平の大使ですのよ」
「それはそうです。ですが、ここが戦場である事には変わりがありません。散り散りになったドーミエ軍の残党の中には、私や、軍に恨みを抱くものがいます。警戒はしても、市民に紛れて、そんな輩が入り込んでいないとは保証できない」
「それがレーニエ様と何の関係が」
「私と親しく言葉を交わしてるところを、見られたりしたら、レーニエ様の御身まで危うくなる」
「まぁ、それは本当ですの?」
「残念ながら本当です。今後も私は、必要最低限の関わりしか持たないつもりです。サリアさんからも、そのようにお伝えください」
「それは……勿論。でも……本当にそれだけ? それだけの理由でファイザル様はレーニエ様を黙殺されたの?」
サリアの追及は容赦ない。
「どうなのです、ファイザル様」
「あなたには敵わないな。今言ったことは紛れもなく本当ですが、確かにそれだけではない」
「では何なのです? なぜあなたはレーニエ様を悲しませるの? ノヴァの地でお二人はあんなに……」
「言えません。勘弁してください」
ファイザルは、再びサリアが言い募ろうとするのを遮った。しかし、その声には先程のような厳しさがない。
「あの方は何も変わられていない……いつまでも純粋で、高貴で、お美しい。俺には……」
眩しすぎる、と最後の言葉は声にならず、サリアには届かなかった。
「ええ、そうですわ。レーニエ様の御心は少しも変わっておられませぬ。と、言う事は、変わったのは、あなたと言う事ですわね? ファイザル様」
「そう思ってもらって結構です。申し訳ありません」
「でも、あなたは―――」
サリアがまだ言い返そうとした時、奥の扉が静かに開いた。
「レーニエ様!」
サリアが主に声を掛ける。
「サリア、待たせてすまな……あ!」
自ら扉を開けて王弟と宰相を送るつもりだったレーニエは、控えの間に入るや否や、真正面にファイザルがいるのを見て、愕然と立ち竦んだ。
「どうされたのです!」
ファイザルは、一目でレーニエの様子が晩餐の折とは異なることを見てとった。
「……え?」
つかつかとファイザルは大股で歩み寄った。
彼の態度には怒りが滲み出ており、レーニエは一歩後退さろうとした。しかし、背中に回った腕がそれを許さない。
「髪を!」
無骨な指が、切ったばかりの髪を掬い上げる。
サリアも驚いて駆けより主を見ると、顔の左の脇髪が顎の辺りで斜めに断ち切られている。
「髪? ああ、これは別に……」
ようやく言われたことを理解し、レーニエは己の髪に手をやった。
「あなたがやったのか?」
ファイザルはレーニエを片手で抱いたまま、後ろで目を丸くしているザカリエ王弟を睨みつける。
「これはどういうことです! 事と次第によっては……」
「ち、違うの! ヨシュア! ファイザル殿!」
慌ててレーニエは声を上げた。
そうでもしなければ、今にも抜刀しそうな殺気をファイザルは滲ませていたのだ。
ファイザルは顔はアラメインに向けたまま、レーニエに視線だけ流した。
「何があったのです」
その声は低く厳しい。
「その……えっと、詳しくは言えないのだが、私がお二人に、あることを約束したので、その証しに私が差し上げた」
レーニエの言葉に、ファイザルはぐるりと彼女に向き直った。両手が腕を掴む。
「約束?」
鋼鉄の煌めきがレーニエを鋭く射る。
「あの……す……まない。今は言えない。都に、ファラミアに戻ったら、母上にご報告申し上げるので……それまでは」
「……」
それは思わず目を背けたくなるような、厳しい顔だった。
腕を掴む指が一瞬強くなったが、それは直ぐに緩んで突き放すように下ろされる。
「ご無礼いたしました。一介の士官の分際で、大使殿下に詰め寄るなどと……申し訳もございませぬ」
一歩下がって騎士の礼を取る。
その声も態度も冷静沈着な将官のものであった。レーニエの瞳が怯えたように揺れた。
「よろしいかな?」
背後の声にファイザルは鋭く向き直った。
灰色の目に興味深い色を滲ませ、老宰相は敵国の、闘将と言われた戦士に対峙した。
「何でしょうか? ジキスムント宰相閣下」
「レーニエ殿下の申されるとおり、私達は国家間の決めごと……と言うには、あまりに繊細な配慮を要する事柄について話し合った。姫殿下には誠意を尽くしたお言葉を頂き、失礼ながらその証として、この世にも珍しい銀の髪を一筋賜ったのだ。ここに」
ジキスムント宰相は胸を叩いた。髪はそこに入れてあるらしかった。
「繊細な事柄……」
ファイザルは苦く呟く。
「左様。姫君は快く御自分の一部をこの爺ぃに下された。そうでありますな、アラメイン様」
「その通りです。レーニエ殿下には、お礼のしようもございませぬ」
そう言うと、アラメインは晴れやかな笑顔をレーニエに向けた。美しい微笑みをファイザルは睨みつける。
「真に姫殿下には、お姿のお美しさもさることながら、そのお心根の清冽さにこのアラメイン、強く打たれてございます」
「御意。しかし、確かにこれでは左右非対称であまりにお気のどく。そこな侍女殿」
「はい!」
ジキスムントに指名されて、サリアは、はっと姿勢を正した。
「後で、殿下の御髪を整えて差し上げてくれぬか? 左側だけ短くてはの。これでは少将ならずとも驚かれてしまうでな」
最後の言葉は、意地悪そうにファイザルに向けて付け加えられた。
彼は顔を隠すように慎ましく頭を下げている。レーニエは悲しそうにその様子を見つめた。
ヨシュア。怒っている?
私が出しゃばって余計な事をしたから……能もないくせに、身分をカサに来て……戦の功労者たるあなたの上に立って……。
大使殿下だって? ここに来てから一度も名を呼んでくれない……。
レーニエの想いは、男たちの言葉で中断された。
「委細わかりました。で、ご会見がおすみなら、宿舎までお送りいたしましょう」
「ああ、ありがとう。では、お頼みするとしよう。神将の名も高い「掃討のセス」に護衛してもらえるなどと、贅沢な気分だ」
ジキスムントは鷹揚に笑った。
「それでは失礼いたしまする。今夜の事はこの爺、生涯忘れませぬ。ではまた明日」
立ち竦むレーニエに辞儀をし、彼らはゆっくりと部屋を出てゆく。
ファイザルもそれ倣い、扉の直前で深々と辞儀をした。
「失礼いたします。今夜のような無礼は二度といたしませぬ。大使殿下には、どうぞごゆっくりお休みくださいませ」
静かに扉が閉ざされた。
レーニエは動けない。
彼女を突き離してから、ファイザルは一度もレーニエを見はしなかったのだ。
もう少し、もう少しのご辛抱を!